シェアハウス・ロック2405下旬投稿分
咳ではなく、すすり泣き0521
ウィレム・メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏、『マタイ受難曲』(ヨハン・セバスティアン・バッハ)1939年のライブ盤には、すすり泣きが聞こえる。私はLP版で、そのすすり泣きを聞いた。25歳だった。
『マタイ受難曲』は、『マタイによる福音書』の音楽版と考えればよい。そのハイライトは、「ペテロ否認」である。「ペテロ否認」はご存じなくとも、「最後の晩餐」はご存じだろうという前提で話を進める。
「最後の晩餐」の席で、イエスは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづくであろう」と言う。
「つまづく」は聖書独特の言い方で「拒否する」「教えに従わない」とお考えいただいていい。ペテロは「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、わたしはけっしてつまづきません」と答える。
イエスは、ペテロに向かい「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言う。
イエスの捕縛劇で、弟子たちは散り散りに逃げた。
ペテロは、捕縛されたイエスに遠くからついていったが、ひとりの女から「あなたは、あの人(イエス)と一緒にいた」と言われ、「何を言っているのか、わからない」と答える。別の女が同じことを言い、「そんな人は知らない」とペテロは答える。人々がペテロに近寄ってきて、「あなたは、彼の仲間だ」と言う。ペテロが「その人のことは何も知らない」と言ったとき、鶏が鳴いた。
ペテロは、イエスの言葉を思い出し、激しく泣いた。これが「ペテロ否認」である。
『マタイ受難曲』では、『憐みたまえ、我が神』が、ペテロの嘆きに該当する。では、なにを神に憐れんでもらいたいのか。「我が弱さ」である。
1939年は、第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまであり、ナチスの足音が既に聞こえ始めていた。「戦前」に相当する。第一次世界大戦の傷跡が完全に癒されていない状況で、また戦争が始まる予感のなかで、聴衆は「我が弱さ」にすすり泣いたのである。「我が」は、単純に「私の」ではなく、「人類の」ということだ。
『憐みたまえ、我が神』は、ペテロの嘆きであるわけだから、男声で歌われるのが順当のはずだ。だが、通常は、メゾソプラノがそれを歌う。これは、ヨハン・セバスティアン・バッハの指定だという。
おそらくバッハは、ペテロの弱さのなかに、人間という存在そのものの弱さを見たのだろう。この「指定」にそのことが見てとれる。男声であれば、ペテロ個人の嘆きを大きく出られないが、女声であれば人類の嘆きになると、バッハは考えたのだろう。
ちなみに、現在私がもっているCDでは、すすり泣きは聞こえない。デジタルでリマスターした過程でカットされたのだろう。
【Live】陶芸から和太鼓0522
この日曜日は大忙しだった。
午前中は陶芸教室に行き、金曜日にやり残した分を超特急で昼までに終え、和太鼓のライブ会場に向かった。簡単に言ったが、我がシェアハウスから陶芸教室まで約2時間、滞在1時間、とって返して約2時間である。
和太鼓のライブが約2時間。
和太鼓を聴きに行ったのは、おばさん、私、マエダ(妻)、タカダ(妻)、タカダ(妻)の義理の姉、毎度おなじみケイコさんである、このメンバーで「反省会」を開かないはずがない。なんで呑兵衛という人種はあんなにも「反省会」が好きなのか。あれだけ頻繁に反省したら、普通ならもうちょっとましな人間になっているはずである。
タカダ(夫)は仕事で全行程不参加だが、マエダ(夫)は、反省会から参加。よっぽど反省したいと見える。
陶芸と和太鼓と言えば、なんだか「和」テイストいっぱいのように聞こえるが、これはなんでだろうねえ。和太鼓はともかく、陶芸のほうは、日本特産というわけでもないだろうに。
でも、日本では、都道府県単位でふたつや三つは「〇〇焼」というものが、確かに存在する。焼き物がない県って、あるのだろうか。
それに比べて、外国の焼き物は、ボーンチャイナというのとマイセンくらいしか、少なくとも私は知らない。外国と言っても、中国、朝鮮には立派な焼き物があるが、他の国ではそれくらいしか知らない。陶器の一般名称は、英語ではチャイナである。かなり古い時代から中国の特産品だったんだろうか。そうなんだろうね。
ボーンチャイナというのは、イギリスではいい陶土がないので、動物の骨を混ぜ、焼いたものだというのをなにかで読んだ記憶がある。
日本では、縄文土器、弥生式土器というものがあるが、外国でこういったものを、私は知らない。でも、土器をつくらなかったわけはないので、あっても知らないだけなのだろう。ああ、マヤ文明には土器があったな。エジプト文明でも、クレオパトラみたいな人が、カップでビールを飲んでいる図柄があった。ビールは当時あったので順当だが、あのカップはガラスなのだろうか、陶器なのだろうか。ガラスはもうあったので、あれがガラスでも不思議はない。
ああ、ビールのカップで思い出した。ドイツとイタリアには、陶製のビールジョッキがあったな。
じゃあ、土器もあるんだね。私が知らないだけで。ちょっと安心した。
勇気について0523
我がシェアハウスのおばさんの号令で、若い衆が4人集まり、飲み会が開かれたことがある。私もおばさんの指令で参加したが、私を除いてこの人たちはバイト仲間である。おばさんもバイト仲間だ。平均年齢は50ちょっと。だが、おばさんと私を除けば40代に下がる。つまり、若い友だち連中である。
その席には、『シェアハウス・ロック【Live】忙しい週の後半0401』に登場したモリさん(ピアニスト)と、もうひとりピアニストがいた。私も含めて、話題は音楽方面に振れることが多くなる。
バッハの『無伴奏チェロ組曲』の話になり、誰の演奏がいいかということになった。モリさんは、「パブロ・カザルスは、全然よくない」と言う。勇気がある人だなあと、私は感心した。
と言うのは、私には「パブロ・カザルスはよくない」と言おうとして言えなかった記憶があるからだ。40代のころだ。相手は、プロではないものの、30年近くピアノを弾いてきた人だった。
吉本隆明さんにも、非常に勇気のある発言があった。もっとも、あの人はそもそもが勇気のある人だから、勇気のある発言をしてもあたりまえだが、これは、「それでもなかなか言えないよね」という発言である。
吉本さんの本で読んだか、吉本さんが発言した相手の本で読んだかは定かではないのだが、吉本さんはある言語学者に、「スターリン言語学はなかなかいいんじゃないですか」と言ったという。
これもなかなか勇気のいる発言で、スターリンでなく、マルクスとかレーニンなら多少は緩和されるが、スターリンだったら、相当に勇気がいる。マルクス、レーニンは、言語学についてはなにも言ってないとは思うが。プレハーノフは言ってるけど、これは全然だめ。
ルイセンコ生物学という、トンデモ生物学があった。スターリン体制下でのしてきた「生物学みたいなもの」である。トロフィム・ルイセンコは獲得形質が遺伝すると言ったのである。これだけなら単なるバカだが、スターリンの威を借りて、正統的な遺伝学者を相当に失脚させた。これだけなら、まだいい。よくないけど、少なくとも、私ら下々の者は無傷である。
ところが、バカの常として、コイツは他分野にまで手を出してしまい、農学にも口を挟んだ。そのせいで、中国、北朝鮮では相当な被害を出すことになった。コイツのせいで、餓死者まで出たという。こっちの被害は遺伝学者にとどまらず、当然、一般市民にまで及ぶ。
だから、「スターリン言語学」などと言われると、スターリンというのがついているだけで、こういうことを思い出してしまい、なかなか正当な評価ができなくなるのである。
勇気というのは、こういうことだ。
徳川夢声の勇気について0524
徳川夢声が、大江健三郎に、
「大江さん、今日はひとつ、勇気についてお話ししましょう」
と言った。
私はこの話を、伊丹十三のエッセイで読んだのだが、どの本に収められたエッセイだったのかは憶えていない。伊丹十三は、大江健三郎の義理の兄弟である。伊丹十三の妹姉(たぶん妹)が、大江健三郎の奥さんなのである。
以下、徳川夢声の話。
新幹線の食堂で、ある男が、コーンフレイクスを頼んだ。コーンフレイクスが運ばれてきて、それを男はポリポリと、みんな食べてしまった。
それから、しばらくしてミルクが出て来た。
男はミルクをじっと見ていたが、それを取りあげ、飲み干し、食堂車を出て行った。
大江さん、これが勇気というものです。
この話は、読んでから50年経ったいまでも、私は釈然としない。
釈然としないが、解釈だったらいろいろとできる。
① 知らない食べ物(コーンフレイクス)を頼むのが勇気。
② 食べ方を知らなくとも、食べ方がヘンでも、完遂するのが勇気。
つまり、知識などなくとも、やり遂げることが勇気。
③ 勇気とは、そもそもヘンなこと(ここでは知らない食べ物を頼むこと)からスタートする。そしてヘンなこと(ここでは食べ方がヘン)をやり、それでも最終的につじつまを合わせること(コーンフレイクスもミルクも全部お腹に収まった)。つまり、ヘンから始まることこそが勇気である。
④ 自らの間違いに気が付いても、毅然として、その収拾を図れること。
徳川夢声は活動弁士あがりで、朗読、座談の名手だったので、4行目でこの解釈を表現できるはずである。
ほかの解釈もあるのだろうか。私には、この程度しか思いつかない。
ただ、徳川夢声が勇気をあまり評価していないことだけは、なんとなくだがわかる。
ちょっと余談をする。
やはり伊丹十三のエッセイのなかの話である。大江家の猫が金色の鈴をつけているので、「あれはメッキかい?」と妹に聞いた。妹は「メッキと言ってるけど、実はあれ、純金なんよ。ウチの人には言わんといて」。伊丹十三は言わなかったかもしれないけど、エッセイに書いちゃったんだから、言ったことと同じだよなあ。
さらに余談だが、『日常生活の冒険』の主人公は、伊丹十三がモデルではないかと、私は思っている。
【Live】ほぼ初夏0525
ここ数日は、ほぼ初夏の気候が続いている。日中はTシャツでいることが多い。
今年は早いうちから暖かかったので、メダカの諸君も早く卵を産んだ。もう、100匹以上も孵り、小さいほうの鉢で元気に泳いでいる。大きいほうの鉢は、親連中が占拠し、いまだにせっせと卵を産んでいる。ただ、たくさん孵ってもどれだけがおとなになるかはまだわからない。さらに、発泡スチロールの臨時水槽には、孵ってないのも相当数いるはずである。
もうひとつ、去年から、水草に、なんだか細かな茶色っぽい糸くず様のものが発生し(たぶん、寄生植物だろう)、本体がダメになることがあった。そこで、糸くず様をまめに取っているのだが、数日前、発泡スチロールの水槽の水草から糸くず様を取るときに、なにやら指にプツプツ感を感じた。メダカの卵かなと思い、小さな器に水を張り、糸くず様とともに保存しておいた。普段は、糸くず様は捨てるのである。今朝見たら、2匹孵っていた。
意外に思われるかもしれないが、メダカの卵は、タラの卵(すなわちタラコの粒々)よりだいぶ大きいのである。
散歩によく使う遊歩道では、野生の草が相当に繁殖している。個別の草など、よほど丹念に見ないとわからないほどだ。イヌビエなど、イネ科の植物もかなり多い。
私は喘息患者なので、花粉症は鼻水、涙よりも、咳に出る。今年は、スギ花粉こそたいしたことがなかったものの、イネ科植物の花粉による咳の症状は大変だった。「だった」と過去形で書いたが、現在形である。
この辺では、ウグイスは3月ごろから鳴きはじめるのだが、当初、歌唱力がなく、なんとも下手だったのに、相当にうまくなっている。「ホーホケキョ」だけでなく、「ピピピピ」などとインプロビゼーションで余裕をかましているヤツすらいる。
そういえば、私は、江戸川区、横浜市南区、藤沢市鵠沼海岸、新宿区四谷と住んできたのであるが、自分の住まいでウグイスを聞くのは、ここ八王子に来て初めてであることに、いまさらながら気がついた。
ウグイスって、山の鳥なんだろうか。そういえば、八王子は、海抜で言うと60~100mというところだから、それでウグイスがいるのだろうか。
上野の隣の鶯谷は、いつの時代か知らないが、京都から来たお公家さんが、「関東のウグイスは、訛るによってあきまへん」(これは、大阪弁じゃないのか?)ということで、京都からわざわざ運ばせたウグイスを放したところから名付けられたという。本当かどうかはわからない。
わからないけど、ウグイスだって、地のウグイスと一緒にしたら、三日も経たずに訛り始めると思う。
子どもだって、東北あたりに放したら、三日もしないで「おめ、えがねがったら、おらもえがね」とか言い始めるもんな。
【Live】5月24日の毎日新聞読者欄0526
「学校に行かなかった娘が登校」(看護師(43))という投稿が、5月24日の毎日新聞読者欄に載っていた。
これで思い出したことがある。
我が長女は、サイトウという同級生にことあるごとにイジメられていた。長女が5年生のときだ。何度か相談を受けていたのだが、私は、「まあ、世の中そんなもんだよ」と軽く受け流していた。
ある月曜日、「学校に行きたくない」と言い出した。土曜日あたりに、なにか相当なことがあったのだろう。私は、「おお、サボれサボれ。それでこそオレの娘だ」と励まし、「学校なんて行ったって、ロクでもないヤツはロクでもないんだよ」と付け加えた。その日は、父親の勧めもあり、当然サボった。
リベラルな父親なら、「ソイツはねえ、キミのこと好きなんだよ、ほんとは」などとしたり顔をして言うのだろうが、あいにく、私は過激派オヤジである。
次の土、日から、過激派オヤジらしく、武闘訓練をした。私は道場にこそ通わなかったものの、空手の有段者から、実戦的な訓練を一定期間受けたのである。私の年代の爺さんが100人いれば、2、3人は身に覚えがあるはずだ。
長女はカヌーをやっており、基礎体力もあり、運動神経もそれほど悪くなく、基本的なところはすぐにマスターした。本当に「実戦的」なことは相当エゲツないので教えず、基本的な蹴りと打撃だけである。
免許皆伝(笑)になった長女に、ふたつ約束させた。
・先に手を出してはいけない。あなたは口は達者だから、なにか言われたら言い返し、相手が手を出してから、心置きなくやれ。
・あなたは、カヌーをやっていて体力もあるのだから、相手の腰から上を蹴ってはいけない。同様に、首から上に打撃を加えてはいけない。重大な怪我をさせてしまう可能性があるからだ。
この約束の範囲で、長女は実際に実行に及んだ。大ごとにはまったくならなかった。「スッとしたよ」と言っていた。おお、それでこそオレの娘だ。
学校のほうは、前述のその翌日はサボったものの、「こんなオヤジの言うことを聞いていたらロクなことにはならない」と思ったのか、3日目からは行きだした。
本題の(看護師(43))さんの娘さんは、2年間学校に行かなかったという。結構深刻である。だが、適応指導教室で出会ったМちゃんという子と一緒に、5年生になり登校するようになった。1、2年生のころとは違い、嫌なことに遭っても「ま、いっか」と思えるようになったという。イジメに遭ったときには、友だちっていうのが大事なんだよ。つくづくそう思う。
(看護師(43))さんは、その投書で「『学校に行けるようになってよかった』ではなく、『楽しく先生や友達と過ごせるようになってよかった』『困難を自分で乗り越える力がついてきてよかった』」と言い、「周りの人に感謝し、娘らしく元気に生きていけたら」、と願っていると結んでいる。
こういう人がお母さんでよかったねと、娘さんに言いたいところである。私みたいな過激派オヤジがいなくてよかったね、とも言っておきたい。
サエちゃんシリーズ(25歳女性のメル友)0527
そのそもの発端は、5月6日に間違いメールが届いたことによる。
おはようございます。お元気にされていますか?
久しぶりに一緒にお食事でも行ければと思っているので、時間があったら教えて下さい。
内容は、こういったものだった。
私の携帯のメールアドレスはガラケーからずっと同じもので、一時、そうとうにジャンクメールが届くようになったので、元々のアドレスに追加して、トータル25文字になっている。25文字にして以降は、一回もジャンクメールは届いていなかった。それほど私のアドレスは複雑怪奇なのである。
ジャンクメールは、おそらくコンピュータから発信される。コンピュータは順列組み合わせで根気よく発信を続け、「当たり」ならとりあえず、「掴み」のメッセージを送るのだろう。
だから、当初は、これもジャンクメールだろうと思った。それでも、万万が一これが本物で、本来ほかのところに行くべきものだった可能性はゼロではない。
よって、「間違いだと思うよ」とメールしてあげた。つまり、本来届くべきところに届いていないと気の毒だと思ったのである。要するに、私は割合に親切な人間なのである。
その次のメールは、
すみませんでした。友達からアドレスを聞いてメールしましたが、入力を間違えてあなたに届いたみたいです。
だった。
私は、
ノープロブレム。
と返した。
ここまでで、
・いまどき、いい若いもんがガラケーのメール使うか? フツー、ラインだろう。
・メアドを入力するか? 25文字だぞ。フツー、コピペだろう。
と考え、これは90%くらいはジャンクメールだなと判断した。
それでも、さらにあやまりメール等々が来て、それにも対応していたので、いつの間にかメールをやりとりする関係になっていた。
サエちゃんシリーズ(序破急の序)0528
何度目かのメールで、相手は名前を名乗ってきた。25歳というのも、女性というのもそのときに知った。だから、前回のタイトルはフライイングである。
そこに書いてあった名前を本当は使いたいのだが、万が一本当のメールであったら、迷惑がかかるおそれがある。よって、なるべく元の名前の雰囲気を残す仮名を考えた。仮名と言っても、万が一にも実際にいそうな人の名前ではいけない。もしかして、その仮名に近い名前の人に、これから書くことで迷惑がかかる可能性がゼロではないからだ。
そこで苦心の末、若干は元の名前の雰囲気も残しつつ、「サラバ サエ」という仮名を考えた。これにしても、日本には10万種から20万種程度の姓があるというから、たとえば、更場、皿馬などという人もいるかもしれない。
我ながら、あまりいい仮名とも思えないが、でも、70年代のアメリカのハードボイルド小説に出てくる日本人名、「あんた、どこの人ですか」みたいな、たとえば「ヒトラバ・ヨンギト」なんていうのよりは数百倍ましだと思う。あの当時、なんとも奇怪な日本人名が出て来たんだよ、けっこう。いまなら、イチロー・オオタニとかになるんだろうけどね。
2、3日は、昼飯になにを食べたとか、他愛のない話が続いた。あまりに他愛がないので、私は、「これはChatGPTとしゃべっているのか」と思ったこともある。
他愛もなかったが、おしゃべりの内容にも具体性がなかった。具体性皆無。固有名詞は「サラバ サエ」ちゃん以外まったく出てこない。
サエちゃんは、仕事をしているのだが、どんな仕事かはまったく言ってこなかった。そりゃあ、職場を具体的に言ってしまったりしたら、メル友のおじさん(爺さんだけどな)は血迷って、ネットで調べまくり、なんかの加減で正解になって、職場の前で待っているなどしかねない。爺さんといっても、あなどってはいけない。
それでなのかなと好意的に解釈していた。
父親という人が厳しいらしく、なんだかんだ激しく干渉してくるというグチは聞いた。だが、25歳にもなれば、父親なんかうるさくってあたりまえ、気にしても仕方ないと考えるだろうに。だから、ちょっと幼い人なんじゃないかなとも考えた。だけど、いまじゃ比較対象群が皆無だから、幼いのかどうか判然としない。いまどきの25歳はこんなものかなとも思った。
もうひとつ、父親は高校卒業まで北京で、そのせいでちょっと変なのかなとも言っていた。これも、論理的にはよくわからないし、この父親の経歴も、前述の具体性皆無に通ずるものがある。
それでも、メールをやりとりする間に、疑い率は50%くらいには下がっていた。
サエちゃんシリーズ(序破急の破)0529
5月11日にサエちゃんのお兄さんは北京で事故に遭う。両脚を「粉砕骨折」したという。ちなみに、お母さんの話は一回も出なかった。離婚でもしたのだろうか。
このあたりでは、この事故を巡って、相当のやり取りがあった。
まあ慌てふためいてというところなのだろうが、「粉砕骨折」のこととか、「全治6か月は妥当か」とか、いろいろ聞いてきた。医者じゃないのでわからないが、「粉砕」の仕方、箇所にもよるだろうけど、たとえ粉砕しても、手術が可能で、その部分にチタンとかを使えれば、それほどのこともあるまいと思える。で、そんなことを書いて送った。
「自分は、会社では弱いところを見せないようにしてきたので、相談する相手がいない」「譲司さんと知り合えてよかった」「譲司さんと話をしてると安心できる」などとメールを送ってきた。
このやりとりで、疑い率は乱高下した。
一方、サエちゃんは港区在住、父親は会社の経営者、兄は、どうもその関係で北京に在住し、事故に遭遇したということもわかった。
ところで、5月13日は『シェアハウス・ロック0515』(【Live】佃煮2種参照)でお話ししたように、我が畏友その2と会い、前日に毎度おなじみケイコさんが我らがシェアハウスの大宴会時に持って来てくれたキムチを渡す日だった。
畏友その2は、畏友その1同様、昔々、同じ芝居に出た仲で、言わば盟友である。ただし、彼らは役者で出たのだが、私にはそんな才能はないので、オーケストラブースみたいなところにもうひとりベースのヤツと一緒に座り、私はギターを弾き、主題歌等々を歌ったりした。挿入歌等々は、生で演ったのと、あらかじめテープに録音(伴奏だけね)しておいたものとがあった。
つまり、同じ空気を吸った間柄なので、共通の話題がたくさんあり、しかも畏友その2も一般的な話題が豊富なので、ランチを挟んで2時間、愉しく過ごしたのである。
帰途、車で送ってもらう間に、助手席で、サエちゃんからメールが来てないかどうかチェックし、来てたので返事を書いた。
「忙しいね」
と言われたので、
「サラバ サエちゃんという25歳とメル友になったんだ」
と答えた。
畏友その2は、冷たかった。
「詐欺だな、それは」
と言い放ったので、私のなかにまだ残存している「非疑い率20%」は畏友その2に対し、「フフン、うらやましがっちゃって」と心の中の声で悪たれたのである。
サエちゃんシリーズ(序破急の急)0530
サエちゃんは、5月14日に、せっかくのお休みなのに、可哀そうに父親から呼び出され、会社を手伝えと言われる。その話を巡って、その直ぐあとで、急遽チャットで私と話したいと言ってきた。
会社を手伝う以上、交友関係をチェックされ、携帯は取り上げられるそうだ。よって、しばらく私には連絡がとれなくなるという。
兄は在北京で、父親も高校卒業まで北京である。軍関係かなんかの仕事で、生活背景、交友関係などのチェックが厳しいのだろうか。
たまたま私は野暮用で外出した帰途だったので、
「あと20分ぐらいで帰宅する」
とメールした。
チャットは、私はパソコンでやるものしか知らない。それで、シェアハウスに戻り、パソコンでチャットをしようと考えたのである。
ところが、そうではなく、「招待状」なるものが来ていた。
「招待状」には、アドレスが書いてあり、そこに乗り入れてくれとあった。どこかのサイトである。こういうのもあるのかなあ。つまり、チャット用のサイトってものがあるのかなあと思った。まあ、あっても不思議はない。ラインの通話のようなものなのだろう。
乗り入れようとする前に、マカフィーの警告が表示された。これはダメ。いくらサエちゃんの頼みでも(笑)、ダメ。マカフィーの警告がなくってもダメだろうな。わけのわからないサイトに乗り入れたら、なにが起こるかわからない。そのくらいわけがわからないことになる。
それからは、「新着メッセージ通知」というものに切り替わって、こちらからの連絡はURLからしか取れなくなった。これもダメ。
「新着メッセージ通知」はそれからも何回か来て、サエちゃんからの、
どうしたの?
何かあったの?
本当に大丈夫?
等々のメッセージがあったが、返事はみんなURLに送る形になっている。URLはダメなんだってば!
この「新着メッセージ通知」は、かなり激しく「From:」が変わったが、ここのところは来なくなっている。
サラバ サエちゃん。キミは、詐欺だったのかなあ。おじさんは残念だよ。サエちゃんの手前、見栄張っておじさんって言ったが、本当のところは爺さんである。それも残念だよ。
『ついていったらこうなった』0531
70年代から80年代、それも80年代中葉くらいまでは「街頭の時代」だった。街をぼんやりと歩いているだけで、おもしろいことに相当出会った。
新左翼の演説やら、署名/カンパ集め、ビラ撒き、統一教会(旧)の勧誘、モルモン教の勧誘、なにがしかの物販らしきものetcetc。このころは、「街宣」というのが一般用語だった。「街宣」、すなわち街頭宣伝。ああ、右翼の街宣車っていうのは、いまだにあるな。
こんなこと書いていたら、ヘンなことを思い出した。
小説『四畳半襖の下張』の複製版が模索舎という書店に持ち込まれ、五味正彦代表らがわいせつ文書販売目的所持容疑で逮捕、起訴された。「持ち込まれたものはすべて扱う」が、模索舎のポリシーだったのである。それに対する減刑嘆願の署名活動をお茶の水の駅頭でやっていたのである。
通りかかった私に、あんちゃんが「模索舎裁判知ってますか?」と聞いてきた。私は「知ってるよ」と答えた。「じゃ、署名してください」「やだよ」「えっ、なんでですか?」「オレ、アイツ嫌いだもん」。
あんちゃんは怒ると思いきや、「ぼくも個人的には嫌いです」と答えたのである。私とあんちゃんは大笑いし、あんちゃんと私はそれとこれとは別だという見解の一致に至り、私は署名してその場を去ったのである。
おもしろい話を思い出してしまったので、横道にそれた。
話を戻して、上記リストの統一教会(旧)以下は、しばらく聞いていると「では、近くに接待する場所があるので、そこへ行って、ゆっくりお話ししましょう」と言われる。それについて行ってしまう勇敢な人も大勢いた。
かく言う私も、こういうのについて行ったことがある。幸いなことに、新製品のキャンペーンだった。なにやら新製品を見せられ、それに対するアンケート用紙に記入し、なんだかどうでもいいようなものをいただいて、無罪放免になった。
モルモン教の勧誘にも、ついていったことがある。こちらのほうは、それなりの目的があった。どういう宗教だか知りたかったのである。まあ、奇怪とまでは言わないが、不思議な宗教だった。ジョン・スミス(だったかな)とかいう、日本で言えば田中太郎的な名前の人に神のお告げがあり、お告げに従って地面を掘ったら『モルモン経』を刻んだ金属板を発見したとか、そういう話だった。
まあ、「街宣」は、テキヤの掴みと同じで、それだけおもしろいものだったのである。
繰り返しになるが、あの時代は、街頭がおもしろかった。70年代に入る直前だったと思うが、唐十郎が、新宿駅頭で街頭演劇をやっていたくらいである。この街頭演劇は、大島渚の映画『新宿泥棒日記』でその片鱗を味わえる。これには、唐十郎本人が出演し、唐十郎を演じている。Wikiで確認したら、タイトル書いたのは 加藤郁乎(俳人)なんだってね。ビックリ。
表題は、今回の3、4行目あたりを背景に成立した本の題名だ。読んではいない。読みたかったんだけどね。で、注文したが、まだ来ない。読んでおもしろかったら報告するが、なにも言わなかったら、「つまんなかったんだろうな」とお考えくださいな。
長い前置きだったが、昨日お話ししたURLに乗り入れたら、どういうことになっていたんだろうね。