
文学フリマ東京という特異なイベント #文学フリマ東京39
文学フリマ東京というイベントは特異だ。
小説やエッセイを書く僕からしてみると、文学フリマ東京というイベントは、他のどのイベントとも代替することができないものだと考えている。
それはつまり、コミケやコミティア、あるいは東京以外の文学フリマ、そのほか中小規模の(地方・首都圏問わない)同人イベントを考えるとき、「どことなく雰囲気が別のイベントに似てるな」と感じられる、ということでもある。
この感覚は誰しもが抱いているものだと思っていたけれども、どうやら他の方が書くnoteやTwitterを拝見する限り、そういうふうに考える人はあまりいないように感じる。
文学フリマ東京は特異だ。
だのに文学フリマ東京を普遍的、王道的、主流的同人イベントだと妄信して出店(サークル参加)すれば、裏切られた気分になったり、憤りを抱いたり、拍子抜けしたりするのは当たり前のことではないか。
文学フリマ東京は特異だ。
僕がそう思っているのはなぜか、いくつかの観点から思索をめぐらせていきたい。
なぜ文学フリマ東京に出るのか
文学フリマ東京の所感について語る前に、まずは僕自身のスタンスを述べなければならない。
つまるところ、僕がなぜ小説やエッセイを書き、なぜ文学フリマ東京やその他同人イベントに赴き、出店、あるいはサークル参加するのか、ということだ。
もしこのnoteを読んでる方のなかで文学フリマ東京へ出店している、あるいは出店しようと考える方がいるとしたら、あなたもぜひこの機会に考えていただけると幸いである。
なぜイベントに出るか。
その理由は様々あるだろう。
イベントに出る人の数だけある。
自分を認めてほしいから。
お金が欲しいから。
人気者になりたいから。
社会から孤立してない、という安心感を得たいから。
自著の宣伝がしたいから。
売れたいから。
世界を征服したいから。
こんな物語を書けるんだぞと自慢したいから。
読んだ人間の人生を狂わせたいから。
……
上に挙げた例のなかなら、僕は一番最後の理由が近いと思う。
そのためには、ただ作品を「売る」だけでは意味がない。
僕の作品を読んでもらって、物語のエキスを読者に浴びせかけてようやくスタートラインに立つことができる。
人生を狂わせるには、読者の脳髄に沁みこむほどに愛してもらわなければならない。
さいわいなことに、僕の作品を読んで影響を受けた読者から、
「『イリエの情景』を読んで聖地巡礼をしました」
「『むいちもん』をもとに頑張ってみたいと思います」
「『だから僕は』を読んでもっと応援したいと思うようになりました」
といった感想をいただくことがある。
彼らは僕の書いた作品によって行動した。それは言い換えるのなら、彼らの人生を僕は狂わせたのだ。
僕は全人類の人生を狂わせたい。
イベントに出るのは、その一環だ。
その考えのもと、いか自身の作品を読者に届けるのかは、
自著『無名の一次創作文芸個人サークルが1年間で500部頒布する方法。』#むいちもん に詳しい。
「文学フリマ」は同人誌即売会ではない
自分語りを済ませたところで、文学フリマ東京について書こうと思う。
まずなにより。
公式サイトの「文学フリマとは」(https://bunfree.net/about/)のページには、わざわざ太字でこう書かれている。
出店者が「自分が〈文学〉と信じるもの」を自らの手で販売します。
つまり文学フリマ東京に並んでいる作品群は、すべて「自分が〈文学〉と信じるもの」である。それ以上でもそれ以下でもない。
故に「普通の書店では並んでいない自著」を〈文学〉としてもいいし、「自ら書いた有名出版社刊のベストセラー」を出してもいいし、「サイン」や「一枚のA4用紙を谷折りしたもの」も、「自分が〈文学〉と信じるもの」であるなら机の上に並べてもなんら問題はない。
また、「文学フリマ」というイベントは同人誌即売会ではない。公式サイトの文言を借りるならば「作り手が自らの文学作品を販売する、文学作品の展示即売会」である。
また「同人」という語句を(同人誌印刷所、という表現を除き)意図的に避けているのは、「よくあるご質問(FAQ)」(https://bunfree.net/help/faq/)を見れば瞭然である。
そして重要なのは、この方針そのものは文学フリマ東京の早い時期から規定されたものだということである。
この点からも文学フリマは、コミックマーケットやコミティアとは方向性の異なるイベントを目指していることが窺える。
そのため「文学フリマ」に同人文化的不文律を求めるのは、そもそもズレた意見であるのかもしれない。
こんな話は、文学フリマの出店者であれば周知のことであろう。
しかしながら、僕はこの方針に迎合せよとか、従順であれとか、そういった話をするつもりはない。
事務局の考え方が苦手な人もいるだろうし、反発したくなる人の気持ちも分かる。
だからといって僕はイベント内で反旗を翻そうだとか、「昔の文フリのほうがよかった!」と懐古主義的な叫びを垂れ流そうというわけでもない。
僕が書きたいのは、文学フリマ東京が特異なイベントであるならば、僕らはそれを自覚し利用し尽くすまでだ、というただその一点のみである。
文学フリマ東京は売れない、という怨嗟
文学フリマ東京がどのような指針のもと開催されているのか。
その理屈は分かった。
ではその理想のもと円満にまわっているのかと言えば、決してそうとは言えない。
いくつか問題点が挙げられるが、そのなかでも最近話題なのが、
商業作家とそうでない者との格差である。
SNSを見ると、このような怨嗟を見かけることがある。
曰く、
「最近の文学フリマ東京には商業作品だけを持ち込む商業作家が多すぎる。商業作家がいるせいでアマチュア作家の本が売れないし、会場にはお客さんがたくさんいるのに目の前を通りすぎていく人たちばっかり。本の装幀やブース設営で目立たせないと太刀打ちできない。アマチュア作家からすれば本の内容に全力を注ぎたいのに」
……と言った主張である。
たしかに、開幕と同時に商業作家の出店ブースに長蛇の列ができるのはもはや風物詩となりつつあるが、数年前の文学フリマ東京ではあまり見られなかった。
また、彼ら商業作家のブースで売られるもののなかには、限定サイン本と称し、自らのサインを加えた商業作品を販売する人もいることは事実である。
2024年12月1日に開催された文学フリマ東京の出店者・一般来場者数は14967人であり、今後より拡大していくことは想像に容易い。その反面、来場者に比例して自身の作品の売上数が増えているのかと言えば、そう感じられない出店者が多い、ということもよく分かる話である。
本の装幀やブース設営に力を入れた出店者が非常に多くなっているのも体感として非常に頷ける。
この怨嗟は、ある側面では真実であろうし、共感を誘うものでもある。
しかし同時に、主張の内容に関してはよくよく検証する必要性があろう。
商業作品だけを持ち込む商業作家が多すぎるという主張
まず、「最近の文学フリマ東京には商業作品だけを持ち込む商業作家が多すぎる」という主張であるが、僕からしてみれば至極どうでもいい話である。
商業作品だろうが商業作家だろうが、対等な出店物であり出店者であるという認識だからである。
そもそも僕は「商業作家」という括りで彼らを見ることを好まない。この括りで考えると、本質を見失う危険性があるためである。
では「商業作家」とはなにか。
語弊を畏れず言うならば、商業作家とは出版社と二人三脚で作品を手掛け、商業作品を書店という市場に流通させることができる作家のことである。
それにより、僕のように一冊一冊手売りするのとは異なり、広域にかつ多くの読者に届けやすい。ひとたびイベントに出店することになれば、彼に会うために全国から会場に集結する。
「商業作家」という肩書きは、それを目指す僕からしてみれば喉から手が出るほどに欲しい価値のあるものだ。
とはいえ、イベントに出れば全国のファンがそこに集う、という構図は商業作家の専売特許ではない。
全国各地の同人イベントに参加し、自らの作品を携えて行商の旅をする僕も、以前文学フリマ東京で新刊を出したとき、全国から僕の作品を求めてブースに訪れてくれた経験があるからである。
すなわち文学フリマ東京における「商業作家」とは、告知能力に秀でた一出店者にすぎない。この告知能力は彼らの積み重ねによる成果である。
また、商業作家であっても全員が開場間もなく一般来場者による長蛇の列を形成する売れっ子出店者であるとは限らない。
場合によっては僕とさして売上数に変わりのない方も大勢いることだろう。
(そうした人たちは売れっ子出店者と比して目立ちにくいので、僕らも認識しにくい)
ゆえに「商業作家」という大雑把な括りは本質的に無意味なことであり、繰り返しになるが、せいぜい「告知能力の高い一出店者」程度の認識で考えたほうが有意義にものを考えることができると僕は思っている。
そう考えると、「商業作品だけを持ち込む」こともさして重要なことではない。
文学フリマ東京と同時出版であるならまだしも、つまるところ「商業作品」というのは「既刊本」と同一のものである。
「サイン入り」という価値を付与したところで既刊本であることに変わりはない。当然一定の集客に効果があるわけだが、自らの作品に絶対的な自信を持つ出店者からすれば、むしろ「自分の告知能力では絶対に出会えない人を会場に呼び込んでくれてありがとう」と言いたい。
サイン入り商業作品を求めて会場を訪れた一般来場者は決して敵ではない。それどころか僕の作品を読み、衝撃を受け、次のイベントでは僕の作品を求めてやってくる未来の読者である可能性すらある。
(彼らに僕の作品を届けられるかは、後述のようにまた別の問題である)
他方、「商業作品だけを持ち込む」告知能力の高い一出店者の価値は、彼が「商業作家」であることと、自らの既刊本にサインを書くことしかない。
彼らを求めて会場に来た一般来場者は、果たしてこれからもそれだけで満足しつづけることができるだろうか。
余談であるが、加えてコミケやコミティアにもサークル参加している商業作家は大勢いる。その誰もが大手サークルではないし、また逆に商業作家でないサークルが大手サークルである場合もある。
それらイベントの多くは商業出版物NGであることは一考すべきであるが、「商業作家」であることと「商業作品だけを持ち込む」ことは別物として考えたほうがより深い考察が可能なのではないかと思う。
ではなぜ商業作品だけを持ち込む商業作家がいるのだろうか。
僕はひとえに「出店者歴が浅いから」であると考えている。
文学フリマ東京に商業作家が目立ちだしたのは最近の話である。
ということは文学フリマ東京に向けて準備する手札が少ないことを意味する。手札が商業作品だけしかないのであれば、それを出店物として利用するのは至極自然なことである。
この手札だけでどれだけ出店を続けられることができるのかは、当人の問題というべきであろう。
また商業作品とそうでない作品は制作過程が違う。
自ら書いたものを自ら編集する必要があるし、表紙の作成も(よそに依頼するにしても)自分がやらなければならないし、印刷所の選定や在庫管理も自分でやらなければならない。
(忘れがちだがこれら作業がとんでもない労力がかかることを忘れてはならない)
これら労力と自身の作品にサインを入れることを天秤にかけ、彼らは彼らなりの戦略のもと、今後も文学フリマ東京を盛り上げる構成員のひとりとして活動していくことになるだろう。
最後に付け加えることがあるならば、
僕のような「商業作家」でない人間が気にするべきは、「商業作家」つまり「告知能力の高い一出店者」ではなくて、「告知能力の高い一出店者」の作品を求めて会場を訪れた一般参加者のほうである。
「商業作家」の特徴のなかに「出店者歴が浅い」が含まれるということは、当然彼を求めてやってきた一般参加者も文学フリマ東京というイベントがどんなものであるかを知らないし、そこに求める作品以外になにがあるのかも知らないし、楽しみ方、歩き方、深入りすれば宝の山が眠っていることだって知らないはずなのだ。
彼らに「文学フリマ東京には想像を絶する宝が眠っている」ことを気付かせるのは、誰でもない。我々である。
目の前を通りすぎていく一般来場者ばかり、という主張
次に「商業作家がいるせいでアマチュア作家の本が売れないし、会場にはお客さんがたくさんいるのに目の前を通りすぎていく人たちばっかり」という意見について考えていきたい。
前述のとおり、「商業作家がいるせいで自分の本が売れない」という考え方は本質を見誤っている。
もし仮に「『商業作品を求めて会場を訪れた一般来場者』が、目当てのブースに訪れたあと、他のブースを見て回ることもなく全員が直帰してしまう。だから自分のところには誰も来ないのだ」と考えているのであれば、それはあまりに彼ら一般来場者を軽視しているように僕は思う。
当然直帰組も一定数いるとは思うが、貴重な休日に家から這い出て、運賃やパーキング代を支払った上に入場料までわざわざ支払い、会場に足を運んでいるのだ。
僕が一般来場者なら、せっかく来たのだからもう少し会場を散策して、少しでも充実感を得たいと考える。
またnoteやツイッターで文学フリマルポを読むと、大抵彼らは多かれ少なかれ会場を散策している。
たしかにきっかけは「商業作家」のブースなのかもしれない。
しかし彼らとて「商業作家」の作品だけを求めるロボットではない。気になったものがあれば立ち寄るし、迎えるし、読む人間である。
僕はそうした彼らに作品を届けたい。
大好きな商業作家が、なんだかよく分からないイベントに出てるので行ってみたら、今田ずんばあらずとかいうよく分からないペンネームの人間がいて、その本を手に取ってみたら思いのほか興味を抱いて、つい買ってしまい、家に帰って読んでみて衝撃を受け、次のイベントにも行きたいと思ってしまった……。
なんて経験をさせてしまったとするならば、僕は間違いなく彼の人生を狂わせたわけであり、商業作家の読者を僕のものにしたという構図は、実に鮮烈で痛快でもある。
というわけで、先の怨嗟のなかで考えるべきは、
「会場にはお客さんがたくさんいるのに目の前を通りすぎていく」のはなぜか、である。
さまざまな要因が考えられる。思い当たるものをいくつか列挙してみると、
・出店者が多すぎること。
・開場時間が短すぎてすべてのブースを周りきれないこと。
・会場の面積に比して来場者が多すぎること。
・告知がうまくいってないこと。
などが挙げられる。
そのうち、
・出店者が多すぎること。
・開場時間が短すぎてすべてのブースを周りきれないこと。
・会場の面積に比して来場者が多すぎること。
に関しては、僕らが関与できるものではない。
ただ、このなかで「会場の面積に比して来場者が多すぎること」については個人的に早急な改善を望んでいる。
明らかな脱線だが、このnoteを文学フリマ事務局関係者が読んでるかもしれないので、ここに記す。
文学フリマというイベントのメイン客層をいわゆる「コミケ戦士」と定めているのなら別に今のままでも構わないが、一般来場者の多くは同人系イベントの混雑を知らない人たちである。
(少なくとも文学フリマ事務局の方針を鑑みるに「コミケ戦士」的な人たちをメインターゲットにはしていないと思われる)
個人的な話になるが、僕がコミケの一般参加を控えてしまう理由は、そのあまりの混雑さにゆっくり会場を巡れないためである。
コミケは日本にその参加人数を抱えられる箱がないという意味でどうしようもないことは理解しているが、文学フリマ東京にはまだ拡張の余地がある。
当然予算の問題を筆頭に改善が難しいことは重々承知のうえ申し上げるが、
空間的余裕のあるイベント環境は、まわりまわって新たな作品との出会いを促進させることにも繋がると思うし、一般来場者の満足率・リピート率の向上、ひいてはイベントのさらなる集客力にもつながると考えている。
今後のさらなる発展のためにも、ぜひ改善していただければ幸いである。
話を戻そう。
大勢の来場者がいるにもかかわらず自ブースを訪ねる人が少ない問題のなかで、僕らが改善できるのは最後の項目、
・告知がうまくいってないこと。
この一点がまず挙げられる。
ここ数年で、文学フリマ東京は「情報戦」の様相を呈している。
漫画やイラストといった、一目で魅力の伝わる媒体とは違い、本を開いて中身を読んでみなくては内容が分からないものをメインとして扱う以上、この問題とはいつまでも向き合い続けていく必要がある。
また、コミケやコミティアなどとは違い、「文学」という一ジャンルだけでビッグサイトの2面を埋め尽くすほどの規模のイベントとなれば、一層事前の告知が物を言うのは致し方ない面がある。
また東京を除く各地の文学フリマや他の同人イベントで見られるような、のんびり散策する一般来場者、つまるところ「コミケ戦士」的な参加者の数が割合的に少ない(あるいは物理的に難しい)こともあるだろう。
すなわち、他イベントでは有効な告知だったとしても、文学フリマ東京だと思い通りの効果を発揮しない場合もある。
ここで嘆いたり懐古したりするのは容易いことである。
だが他のイベントでは出会えない来場者に向け、自らの作品を届ける方法、これを考えてみるのも文学フリマ東京の楽しみ方のひとつだと思う。
本の装幀やブース設営で目立たせないと太刀打ちできない、という主張
この主張は、「(商業作家に)太刀打ちできない」という点は議論の余地があるものの、目立たせることに一定の効果があるのは、少し考えてみれば当然のことである。
どれだけ事前告知を入念にしても、届かないものは届かない。
そんな未来の読者のために、僕らは目の留まる設営と魅力的な装幀を手掛けるのである。
先に述べたように、文学フリマ東京にはいくつか問題がある。
今一度挙げると、
・出店者が多すぎること。
・開場時間が短すぎてすべてのブースを周りきれないこと。
・会場の面積に比して来場者が多すぎること。
といった具合である。
この問題点に加え、誰に向けた設営するのかを考える。
もし既存の読者(実際に作品を読んでいて、気に入り、どんなものでも面白いに違いない、と僕のことを信じてくれる読者)に向けるのであれば、装幀も設営もシンプルなもので構わないだろう。
なぜなら彼らはそれでも内容を面白いと信じ、手に取ってくれるからである。
(そして当然、内容まで味気のなく面白くないものだったら、この次はない。だが話が逸れるのでこれ以上は語らない)
誰に向けて設営するのか。
それは僕のことを知らない未来の読者のためである。
では文学フリマ東京に初めて訪れた一般来場者に向けた設営をすると仮定して話を進めていこう。
想像してみる。
初めて文学フリマ東京に訪れた一般来場者がいる。
見知らぬ環境下、人混みに流されるように散策する。しかし、結局なにも手に入れるものがなく、疲労感のみを抱えて帰路に就くのであった。
なぜ彼はなにも手に入れなかったのか。
以下の三パターンが考えられる。
1、本当に読みたいものが存在しなかった。
2、本当なら気に入るはずなのに目に留まらず通りすぎてしまった。
3、内心気になるものがありながら、(まるで書店のように)いつでも手に入ると勘違いした。
今回のnoteでは深く取り扱わないが、出店者自らの工夫で自ブースに招くことのできるパターンは「2」と「3」である。
すなわち、
【2】目に留まるような設営
【3】「いつでも手に入る」と思いつつも、「今買わざるを得ない」「立ち寄らずにはいられない」と感じさせる設営(つまり自らの作品の内容を表出させる設営をするということ)
この二点を心がければ、彼らは自ずと自ブースに立ち寄るだろう。
(もちろん他の要因もあって立ち寄らないことは考えられる話であるが、その要素を拾うためには上記二点をまずやってから考えなければならない)
ところで「本の装幀やブース設営で目立たせないと(商業作家に)太刀打ちできない」という主張のうち、「(商業作家に)太刀打ちできない」という点に議論の余地があると小題の冒頭で触れた。
この主張をより吟味しやすいように言い換えるならば、
「他の出店者と比較して告知能力がさほど高くない、あるいは告知に労力を割くことのできない人は、本の装幀やブース設営で目立たせなければならないのか」
となるだろう。
確かに一理ある。
しかし告知というのはなにも書店で商業作品を流通させたり、SNSで事前に情報を広めたりすることだけではない。
かくいう僕自身、SNSによる告知も魅力的な設営も苦手な人間だ。
だからこそ、僕は新たな読者と出会うために、文学フリマ東京以外のイベントへの参加を積極的におこなっている。
とりわけ(首都圏内を含めた)各地の中小イベントは、未来の読者と出会える大切な場だと思っている。
規模が小さい分一般参加者の数は少ないものの、一人ひとりとしっかりコミュニケーションを取ることができるし、文学フリマ東京に興味のない人とも交流を図ることができる。
彼らとの交流は大きい。
わざわざSNSの泥沼告知合戦に参加することなく、僕の作品を知ってもらえるのだ。
そこで僕の作品を気に入ってくれて、「おかわり」を所望してくれたならば、文学フリマ東京で出す新刊を求め、彼らは僕のために集ってくれるだろう。
告知というのは、きっと僕が考えるよりずっと奥深いものだと思っている。
書店へ流通させることやSNSで事前情報を広めること、文学フリマ東京以外のイベントに出ることの他にも、「自分の作品を知ってもらう」方法はたくさんある。
たとえばnoteや他WEBサイトに自分の文章を載せることも告知のひとつであると思うし、
今回の文学フリマ東京で「見本誌コーナー」から名称の改まった「試し読みコーナー」に置かれた見本誌もないがしろにはできない。
(僕のブースへ足を運んでくださる方から「試し読みコーナーで読んで気になったから来ました」という声をいただくことも少なくない)
アマチュア作家からすれば本の内容に全力を注ぎたいのに、という主張
これに関して語ることは少ない。
まず僕は「アマチュア作家」という括りは「商業作家」と同様、好まない表現だと考えている。
なにより「アマチュア作家」などという言葉は、明らかに見下した(あるいは卑下した)言い方ではないか。
同じイベントに出る以上、ブースに立つのは出店者であり、そこにアマもプロもない。
そもそも本の内容に全力を注ぐのは、文字を書く人間にとって、アマチュアだろうがプロだろうが当たり前のことである。
もちろん「限られた時間のなかで」「何ページ以内に終わらせろ」といった制約が課されることはあるだろう。
だとしても読み手に届ける前提がある以上、制約のなかで全力を尽くしたものでなければ価値はないし、書く意味もない。
文学フリマ東京の会場内すべての作品は書き手の血と汗の結晶であると僕は信じている。
そうしたものを「アマだから」「プロだから」といった理由で区分するのは、あまりに偏った見方であり、なによりつまらない。
そんな雑すぎる解像度の方は、きっとまだ文学フリマへ訪れたことのない人なのだと思う。
一度会場へ赴き、サイコロでもなんでも振って選んだブースに立ち寄り、読めばわかる。
そこには書き手の魂が宿っている。
当然、書き手の好みと読み手の好みがそぐわないことはあるだろう。
しかし、逆に言えばそれだけなのだ。
そこに立場の優劣などない。
もし優劣があると感じるならば、それは己のなかにだけあるものであって、それで他人を括るのはあまりに浅慮であると言わざるを得ない。
「告知や設営に力を入れなければいけないから、肝心の本の内容に全力を注げない」と言い訳するようなら、本の内容に全力を注いだほうが何億倍もマシだ。
告知や設営というのは、結局のところ自らが伝えたいものを人に広めるための手段でしかない。
そして全力を注いだ作品というのは、長い目で見れば究極の告知であり、設営でもある。
それを手にし、読み、感動した人は、また別のイベントで新刊を出せば、手に取ってくれる。たとえ「新刊出ます」の一言と、机の上に新刊一冊があるだけでも。
その新刊は絶対に面白い、という確信を読者が抱いているからである。
逆に言えば、全力を注がない作品を書きつづけるのであれば、多大な労力のかかる告知や設営を永遠に続ける必要がある。
それは「読んでもらう」ための努力ではなく、「売る」ための努力である。
(それが悪いとは言わない)
本の内容に全力を注ぐか、告知や設営に力を入れなければいけないから本の内容に全力を注がないか、読者にとっても書き手にとっても意義のあるおこないはどちらであるか。
そんなの、答えるまでもない。
文学フリマ東京という特異なイベント
長々と述べたが、文学フリマ東京は特異なイベントであり、だからこその魅力があると僕は考えている。
以前は、文学フリマ東京に漂う「特異さ」の正体が分からず、時代の流れに置いてけぼりにされたような心地がして、戸惑いと焦りを憶えた。
しかし思索をめぐらせることでどうにか自分なりの付き合い方、距離感を見出すことができたと感じている。
時代の流れに乗る、というのはこういう営みのことを指すのではないだろうか。
文学フリマ東京は特異だ。
であるならば、このイベントに出店し、ブースを構える僕らもまた特異なのだ。
この特異さを、文章で、装幀で、告知で、設営で、全身全霊でもって表現する。
こうして生まれたものこそが僕の〈文学〉だ。
〈文学〉が集う場、それが文学フリマ東京なのだ。