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今、東北津波被災地を歩くなら【文学フリマ東京39の話】
僕にとってそこは〈非日常〉だった。
「津波被災地の今を、この目で見たいんです」
12月1日、文学フリマ東京後の打上げで、彼はそう僕に声をかけた。
単なる雑談としてその話題を出したのではないのだと直感した。
僕はかつて『イリエの情景~被災地さんぽめぐり~』という小説を書き、
そのために東北の各地を散策したことがある。
完結させたあとも度々訪ねる機会があった。
彼は『イリエ』を読んでいたし、そして僕がどんなスタンスでこれを書いたのかも理解していた。
じんわり嬉しさが滲んで出てきた。
その一方で戸惑いを抱いたのもまた事実であった。
震災から14年が経とうとしている。
かつての生活が元に戻ることはないだろうが、他方多くの被災物は撤去され、震災当時の面影、あるいは痕跡を辿ることもまた難しくなっているのが現実だからだ。
今、旅をしたところで、果たしてかつての姿に思いを馳せることができるのか、不安を抱いたのだ。
しかし彼は『イリエ』を知っている。
「見下ろす分だけ、空を見上げる」(イリエ1,162)ことができる人だ。
僕の抱いた疑問はこうだ。
「『イリエ』を読んだ人が、いや『イリエ』を読んでなくたっていい。もし〈今〉、被災地へ訪れるとするなら、どこを歩けばいいのだろう」
僕は飲みの場で、正確には外にある灰皿を囲んで、問いに対する答えを彼に向けて語った。
けれどもその実、それは自分に向けた言葉でもあった。
きっと、被災地に対して一種の「読み替え」が必要なのだ。
10年前に訪れようが来週訪れようが、そこで見る風景は紛れもないそのときの「今」である。
そんな「今」を知るためにぜひ行きたい場所を、僕なりにいくつか挙げてみようと思う。
0、被災地でない海、地元、人の暮らす土地
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ここ数年、僕は「解像度を高める」という言葉をよく使うし、またそれを意識している。
別の言い方をするならば「比較対象を増やせ」と言えるだろう。
被災地を歩くと、その圧倒的な情報津波に呑まれて、僕らは紡ぐ言葉を失ってしまう。
しかし情報にただ呑まれるだけでは、「僕の暮らす世界とは異なる風景」でしかなく、きっと喉元を過ぎれば目の前に映っていた風景はフィクションとさして変わらないものになるだろう。
フィクションだとしても、感じるだけまだマシだろう。
しかし震災からすでに10年以上が経過している。なんの積み重ねもなく被災地を歩いても「よくある風景だな」という感想を抱くだけで終わる可能性だってある。
なぜならどこを見ればいいのか分からないからだ。
だからこそ被災地を歩く前に、被災地でない海や地元、人の暮らす土地を歩く必要がある。
海と一言で言っても様々な顔を持つ。海岸もまた趣きが異なる。
たとえば地元大磯の海岸は大きく4つに分かれる。
東側から「砂浜」「港湾」「磯」「砂利浜」があり、植生はもちろん波の音も違うし、香りも違う。
そうした風景を記憶して被災地の海岸を見ると、なにが似ていてなにが違うのかを拾い出しやすい。そして似ている理由、異なる理由を自分なりの理屈で(正しさより納得のしやすさで)考えてみると、風景に愛おしさを感じられるようになるだろう。
1、被災地の海沿いを歩く
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迷ったら一筆書きをすると楽しい。
とりわけ被災地の海岸線はあらゆる意味で変化に富んでいる。
当然地形的な意味で、リアス式海岸をはじめとしたさまざまな風景を見ることができる。
(リアス式海岸の入江ごとに集落があり、小さな港があることに気付くだけで僕はエッセイを一本書きたいと思えた)
ただそれだけではない。津波とは海からやってくる災害であり、その最前線たる海沿いには、土地ごとに異なる「海との付き合い方」が如実にあらわれる。
被災地の「今」ある姿は、程度の多少はあるものの、そこに暮らす人々と自治体とのコミュニケーションの結果だと僕は考えている。
代表的なのが防潮堤の大きさと形状だろう。
ざっくり分けて台形型とカベ型があるが、そのなかでも各地で微妙に形状は異なる。
また、併せてその地の津波到達高さをチェックすると、新しい見方ができるかもしれない。
もちろん見るべき場所は防潮堤だけではない。むしろそれだけ注視しては大切なものを見落としてしまう。
自分のなかの「あるべき風景」と「目の前の風景」を照らし合わせながら歩いてみるのがいいだろう。
各地で見かける「ここまで」という文字、妙に線形のいい道、あるいはセイタカアワダチソウ(もしかしたら彼らの勢力は弱まりススキが勢力を伸ばしているかもしれない)、背の揃った松林、人、屋根、現代的デザインの建築物……。
そこに違和感を憶え、その解答に震災があるならば。
ようこそ、あなたは今、被災地を歩いている。
2、帰還困難区域とその周辺
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「福島にも行きたいのだけれど、政治的情報が錯綜している今行くのは勿体ない」(イリエ1,99)とあるように、僕は福島について発信してこなかった。
作中でそう語ってはいるものの、本当に行かなかったわけではない。
今まで東北へ下道ドライブをしたことがあるが、国道6号を何度も走ったし、国道6号より海沿いの道を迷いながら走ったりもした。
なかでも2013年9月7日に常磐線広野駅からJヴィレッジ(当時事故対応の拠点のひとつとして利用されていた)付近を散策した思い出は今なお鮮明に残っている。
その帰路近くの広野火力発電所付近を散策して、警備員のおじさんからUFOの目撃談を聞いた。
(当時の日誌を見ると「UFOには突起が付いていて上から白、青、白のライン。機体はベージュ色で角柱型。雲からぬっと飛び出し、波にやられた白い建造物の陰にはいるとすっと消える。UFOは何度か見たことがある。大抵は円盤状だが、見る度に形を変える」と書かれている)
UFOのほかにも、散策を終えたあとで広野駅の待合室のベンチに腰かけていると、ぶつけたわけでもないのに鼻血がドッと出てきた……などといった面白いエピソードを持ち合わせている。
しかし当時はあらゆる情報やイデオロギーを介してでしかこの場所を見ることができなかった。
よって僕はここでの経験を極力他人に話そうとはしなかったわけだが、今この地を歩くとなれば話は別であろう。
今なお帰れない人がいることは重々承知の上、そして不謹慎であることを自覚した上で書くならば、時間差、というのは貴重である。
数年前に帰還困難区域が縮小されたというニュースがあったが、帰還困難区域が解除されたエリアと元々指定されていなかった区域で「復興」に差があることは言うまでもない。
ゆえに帰還困難区域の周辺を歩くというのは、数年前の「今」を追体験するということになるのではないか。
また同時に、少なくとも僕の場合、こうした地を歩くと、激しい「孤独感」を抱く。
それはかつて南気仙沼の「平原」、しかし地図上は市内有数の住宅街を歩いたときの感覚と近いかもしれない。
心拍数が上がり、他人の目が気になる。僕は不審者と見なされているのではないか。迷惑系YouTuberと同類なのではないか、いやいかに心を律していようとも、端から見れば大して変わらない。
ここは観光地ではないのだ。
孤独に蝕まれながら、しかしそれでも僕は僕の為にこの風景のなかを歩く。
そこには唯一無二の経験があることだろう。
3、仙台湾
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仙台湾、と書いたが、正式な呼び名は調査不足で知らない。
仙台市以南の、緩やかな曲線を描く砂浜エリアのことをこのnoteでは指そうと思う。
ここは津波の高さこそ比較的低かった(eg.名取市で最大約9.1M)が、広域に被害があった地域で、現在は巨大な防潮堤と広域の防砂林が存在する。
白い砂浜、防潮堤、青い防砂林、というセットはほとんどどこでも変わらないが、それゆえに点在する資料館や祈念碑をめぐってみると、その差異を感じられるかもしれない。
僕はこのエリアのなかで名取市の閖上(ゆりあげ)地区を頻繁に訪れている。
訪ねるごとに少しずつどこかが変わっていて、その変化を見るたびに感慨に浸ったものだが、その小さな変化を知らない人がこの地に訪れたときの感想というものが気になる。
また仙台湾エリアは、(場所にもよるが)並走する常磐自動車道を境に浸水区域と区域外とで分かれている。
その前後で街並みがどのように変化しているのかを見比べてみるのもまた興味深いだろう。
4、女川町
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僕にとって女川町は津波被災地のなかでもっとも愛おしい場所である。
詳細は『イリエ』3巻女川町篇を読んでいただくとして、
震災直後という時期に「元に戻る」のではなく「生まれ変わる」ことを選択し、実践し、今なお歩みつづけている。
この地を歩くたびに、「被災地」という文脈だけでなく、「地方のまち」「ふるさと」といった文脈も含めて、ここにある種の「答え」があるように感じてならない。
一方で、そんな小難しいことを考えずとも女川駅周辺は、朝・昼・夜で異なる雰囲気があり、小さいながら散策に飽きない。
被災地さんぽめぐりガッツリ派もあっさり派も楽しめる場所だろう。
5、神割崎
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いわゆる「リアス式海岸」という地形をサクッと楽しみたい方向け。
断崖絶壁、深い海、荒い波、奇岩、そして地平線。
この前後に付近の入江を見ると、これが同じ海なのかと驚愕するだろう。
また、神割崎に限らずリアス式海岸の崎には多くの松が生えている。
その背の高さをしっかり憶えておくと、防砂林として植えられた若松を見たとき、震災前の風景、あるいは数十年後の風景に思いを馳せることができる。
6、南三陸ホテル観洋
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三陸最大級のリゾートホテル。
絶景、温泉、食事、なにを取っても至福の一言。
一泊二日の小旅行、気軽に被災地を知りたいのであればここに宿泊するのもひとつの選択肢。
というのも、毎朝語り部バスを運行していて、当時なにがあったか、今までどのような復興があって今に至るのか、現在どのような点が課題なのか、といった点を分かりやすく教えてくれるからである。
被災地に興味はあるけど体力気力その他諸々が理由で手を出しにくい方の入門篇としてオススメできる。
僕も何度か宿泊しているし、『イリエ』1巻南三陸町篇を書くにあたって部屋の採寸をしたりもしたが、
朝食バイキングがおいしすぎてたらふく食べてしまい、その日の昼飯が入らないという事態に毎度なっている。
ホテル観洋に限らず三陸の食事には中毒性があって、これもまた津波被災地を何度も訪れてしまう動機のひとつなのであった。
7、岩井崎の潮吹き岩と旧気仙沼向洋高校
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岩井崎は気仙沼市南部にあり、波が高い日は磯岩の割れ目から潮が噴出する、稀有な地形のある岬である。
潮噴き岩だけでも充分面白い場所だが、そのほかに戦前に建てられた岩井崎灯台や、津波によって形づくられた「龍の松」(津波によってへし折られた松の姿が龍に似ていたため命名。被災後しばらく経って枯死したが加工ののち今に至る)、芝の広場、散策路、いくつかの磯だまりなど、小さなエリアに見どころが凝縮されている。
神割崎のようなリアス式海岸特有の断崖絶壁ではなく、海との距離が近い。
太平洋に面した箇所は波が荒い一方で、比較的波の穏やかな場所もある。
気に入った場所に腰を下ろし、もの思いにひたりながら時の流れに身を任せるのが個人的に好きで、以前友人と被災地旅に行ったとき、彼はこの場所を非常に気に入ってくれた。
岩井崎の近くには震災遺構の旧気仙沼向洋高校がある。
この高校は4階建で、その4階まで波が到達した。
特筆すべきは被災当時の状態をそのまま残した展示がある点で、被災物の残る砂塵のなかを歩いた身として真に迫る心地がする。
後述するリアス・アーク美術館でも述べるが、気仙沼市は被災物の保全にセンスがある。なにを、どのように後世に伝えるのが最善か、その創意工夫と熱い想いが展示物からひしひし感じられる。
8、リアス・アーク美術館
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気仙沼市市街からやや離れた小高い丘の上にある美術館で、東日本大震災の記録と津波の災害史に関する常設展示をおこなっている。
常設展示には被災物や現場写真が展示されている。特筆すべきはそれに添えられた「ことば」である。
それら「ことば」群に、僕はひとりのもの書きとして、人間として、強く惹きつけられた。
この美術館と僕との出会いは実に偶然であったが(イリエ2,238-240)、ともあれここで見知ったものは確実に僕の人生観・風景観・思想に影響をもたらしている。
常設展示はワンフロアのみの空間であるが、最低でも2時間かけて、できれば休憩を挟んで3時間、じっくり噛みしめるように歩いてみることをお薦めする。
9、陸前高田市
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僕にとって陸前高田市は、気仙沼市と背中合わせのまちだと考えている。
海との向き合い方、遺構の扱い方、伝承の方法……。
それは震災前の産業、文化、生活と地続き的に考えてみて僕なりに納得することができた。
もしくは、陸前高田市は僕が初めてこの目で見た「地図にないまち」だったから、ということもあるだろう。
僕がこのまちに抱く感情が愛か憎か分からない。毎度行きたくてここに来るわけでもない。けれども、なぜか毎度奇跡の一本松への細道を歩く僕がいる。
高田市は超巨大ベルトコンベアを建造して大規模な盛土をおこない、人々の暮らしはその台地上にある。
それと同時に、道の駅周辺、奇跡の一本松をはじめとした海沿いの公園は比較的広い。
元々「高田松原」と呼ばれた名勝であり、この十数年で大変貌をとげた。
なにを遺し、なにを変えたのか。
また今度東北を歩くことがあれば、きっと立ち寄ることになるのだろう。
10、大槌町
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「一度でいいから見てほしい」
そう言われて訪れた大槌町。
そこまで詳しく調べたわけではない。
しかし保全するかするか解体するかの議論が交わされていた、という話は知っていた。
訪れると、そこには奇妙に放置され茂るセイタカアワダチソウと、仕切りと、そして佇む建物があった。
言葉はない。
ただ知るものだけがうけとめる。
今はどうなっているのだろう。
XX、魹ヶ埼(トドヶさき)
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ここは被災地ではない。
単なる本州最東端の地である。
しかし紛れもなくこの地形が深刻な被害をもたらした一因でもある。
宮古市南東部にあるダイヤモンド型の半島、重茂半島の先端に位置する魹ヶ埼は、おそらく本州屈指の「最果て」なのではないかと思う。
最寄りの駐車場から往復8キロのトレイルコースを経てまみえる風景は、異世界情緒に溢れている。
開けた世界であるはずだし、空も海も美しいはずなのであるが、不思議と網膜に極薄の黒々としたベールがかかったような印象を抱かせる。
そこに真白の灯台という人工物が建つ様も異様さも相まって、もの思いにふけるには最高の場所だといえよう。
僕にとってそこは〈日常〉だった。
ここでは触れなかったが、「南三陸町さんさん商店街」や「三陸自動車道」「夕方のBRT」「釜石市の香り」他諸々、体験してほしいと思う風景を挙げればキリがない。
同じ場所を二度三度訪れるのも面白いし、見知らぬ土地を拓くのもまた面白い。
もちろん、その「面白い」には孤独感のような辛苦もあるだろう。しかし、それを味わうこともまた被災地を訪れる醍醐味だと思う。
どこを歩いてもきっとそこには歴史があり、息吹があり、営みがある。
はじめ「津波被災地」と大雑把な括りでしか見ることができなかった風景が「岩井崎の磯だまり」「リアス・アーク美術館の『炊飯器 二〇一二・二・二』」「奇跡の一本松ユースホテルの室外機」と、
こまかな言葉で呼びあらわせるようになっていく。
その風景のひとつひとつが愛おしいと思えるし、その地で出会った人やものに僕は特別な感情を抱かずにはいられない。
最後に『イリエ』3巻で、依利江と共に被災地を旅した三ツ葉の言葉を引用して今回のnoteを締める。
「見たいように見て、その場だけの感動で終わらない。依利江のは心から見たんだ。依利江の情景は息づいている。今も、これからも、いつだって思い出せる」(イリエ3.161)