【洋楽雑考#7】 Hello America ~ 友情こそ推進力〜Def Leppard
皆元気? 洋楽聴いてる?
"いつでも手に入るから次の機会で..."とか思っていたら、いつのまにか音源が廃盤扱いになってしまい、つらい思いをした経験がある方も多いだろう。オレの場合、このバンドがまさにそれ。
最近、ようやくカタログが配信ルートでも入手可能になったDef Leppard。配信、ストリーミングはアーティストにとって、もろ刃の剣のような存在で、CDで手に出来る印税との著しい格差から、彼らも数年にわたりレーベルとの軋轢に悩んでいた。
まぁ、いざ配信がスタートしたら、ファースト・アルバムのリリース前に自主制作したEPまで公開しちゃう(ストリーミングのみ)あたりがファン思いのバンドである。
イングランド中部のシェフィールドでバンドが結成されたのは1977年(そんな昔だったか...)。
バンドの中心人物として現在も活躍するリック・サヴェージ(B/元々はギター)、ピート・ウィリス(G)、トニー・ケニング(Dr)のトリオだった。そこに当初はギター・プレイヤーとしてオーディションを受けに来たのがジョー・エリオット(Vo)。
彼の佇まいに"こいつはシンガーとしての方が活きる"とバンドは判断し、そのまま加入。さらに翌78年には2人目のギター・プレイヤーとしてスティーヴ・クラークが参加。
オーディションではLynyrd Skynyrdの「Free Bird」をセッションしたらしい。当時から意外な選曲だ...
同年11月に前述の「The Def Leppard E.P.」をリリース。同時期にトニーは脱退、後釜には当時なんとまだ15歳だったリック・アレンが加入した。
様々なバンドのツアー・サポートを行い、1980年3月にデビュー・アルバム「On Through the Night」をリリース。
Iron Maiden、Saxon などと並んで"NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)ムーヴメント期待の若手"として、日本でも早くから注目を浴びていた。
もっとも、このムーヴメントを生き残ったバンドは数えるほどで、音楽的に"いかにもメタル"なのは、実はIron Maiden くらいなんだよな。
このデビュー作を友達の家で聴いた時に、アルバムをなけなしの小遣いで買った友達が"これ、メタルじゃないじゃん..."と呟いた顔は忘れられない。
実際、「Hello America」という楽曲が収録されていることや、リリース後のツアーを殆どアメリカで行なっていたことからも分かるように、最初からバンドの目はアメリカに向いていた。
そのため、イギリスのファンからはけっこう冷たい仕打ちも受けている(ステージにビンが飛んで来たり)。
そして、1983年1月にサード・アルバム「Pyromania」リリース。先行シングルとしてリリースされていた「Photograph」は、なんとあの当時無敵のマイケル・ジャクソンの「Beat It」を押さえ、MTV最多リクエスト楽曲となった。
日本では大きな問題にならなかったようだが、"放火魔"を意味するアルバム・タイトルと、燃え盛るビルをカメラ・シャッターが狙うというジャケのデザインは欧米では論議の的になった。
初期2作のアルバムが"AC/DC風大陸的ブリティッシュ・ロック"とでも形容できるような、ある意味不可思議な作風だったのに対して、本作は彼らが完全なオリジナリティを手に入れた記念碑的アルバムと言って差し支えないだろう。ハード・ロックでありながら、どこかデジタルな雰囲気を感じさせるサウンド(特にドラム、これ重要!)、とことんコンパクトにまとめられ、サビの部分はあくまでも歌いやすい。
"売れ線"と揶揄するのは簡単だが、"バンドにスーパー・スターは不要。楽曲の良さだけをとことん突き詰める"スタイルは彼らが完成させたものだ。
実際、アメリカでの売り上げは凄まじく、リリース年の売り上げは600万枚超。週に10万枚の計算だったというのだから驚かされる。
「Foolin'」、「Rock of Ages」といった後続シングルもスマッシュ・ヒットを記録。ヘッドライナーとしてツアーを行い、大成功を収める。
バンドは次作の制作をアイルランドで開始する(節税対策のため移住していた)のだが、1984年の大晦日、思いもかけない事故が...イングランドのハイウェイを走行中のリックの車が事故を起こし、左腕切断という大怪我を負う。実際、退院してしばらくは歩くことも困難な状態(身体のバランスが取れない)だったのだが、彼はバンドに戻ることを断言、残されたメンバーも彼の復帰を信じるという声明を出した。
ここで、一瞬でもバンドの関係者がリックの復帰に疑念を持ったり、彼自身の心が折れたままであったなら、この時点でバンドは解散したはずだ。
リハビリと同時に彼専用のドラム・キットの開発が始まった。80年代に爆発的ブームを起こしたエレクトリック・ドラム('すぴゅ〜ん'という音で分かるかしら?)メーカーのSimmons社が携わり、左手のパートを脚でこなす特殊なキットでの個人リハーサルが続いたという。
最初にリックがメンバーに披露した楽曲がLed Zeppelin (「When the Levee Breaks」)だったというのもジンと来るなぁ。 アイルランドで行われた復帰ミニ・ツアーでは、Status Quoなどに在籍していたジェフ・リッチがサブ・ドラマーとして参加していたのだが、バンドはリック1人で充分にこなせると判断、ドラマーに完全復帰。
1986年に開催されたMonsters of Rock Fesでは、彼の復帰を祝うジョーのMCにオーディエンスがスタンディング・オベーションで応えるという感動的なシーンが実現した。
間髪入れず次作のレコーディングをスタートすべく準備を重ねていたバンドを、またも大きな不幸が襲う。長年のアルコール大量摂取でリハビリを繰り返していたスティーヴ。結局、1990年には、6ヶ月の治療を言い渡されるのだが、翌年1月ロンドンの自宅で死去。
後任のプレイヤーを補充する事なく、フィルが全てのギター・パートを担当(スティーヴのスタイルを模して、ツイン・ギター風にレコーディングしてある)した新作「Adrenalize」のリリースまでには、結果的に5年の歳月が。しかし、US、UK両国チャートで初の同時No.1を獲得。
アルバム・リリースと同時期にスティーヴの後任オーディションは続けられ、最終的に元Dioのヴィヴィアン・キャンベルがその座を射止めた。
その後、2作のコンピレーション(B-Side集とベスト)を経て、1996年にリリースされた「Slang」では、リックがエレクトリック・ドラムの使用を控え、サウンドも今までの彼らの作風とは真逆の、ダークなトーンを帯びたものになった。
一部メディア(Q-magazine とかの、いわゆるヒネた手合い)では評価をされたものの、あまりにもドラスティックな方向転換には多くのファンが困惑...
1999年の「Euphoria」では盟友マット・ラングと再びタッグを組み、全米ゴールド・ヒットを獲得した。
2000年代に入っても、「X」(2002年)、「Yeah」(2005年/カヴァー作品)と精力的なリリースは続き、2008年のアルバム「Songs from the Sparkle Lounge」では、カントリー・シンガー、ティム・マグロウとの競演が実現。
さらに同年10月には、誰もが驚くラインナップ、あの歌姫テイラー・スウィフトとライヴを開催、全米チェーンWal-Mart限定でDVDがリリースされ、発売週の最多売上作品となる。
YouTubeなどで「Photograph」を2組が演奏する様子を見ることができるのだが、テイラー嬢、ホントにバンドのファンだったらしく、実に心温まる映像になっている。
2013年になると、ヴィヴィアンが悪性リンパ腫に侵されていることが判明、バンド活動に並行して免疫療法が続いている。
2015年10月リリース、初のセルフ・タイトル作品「Def Leppard 」が現在までの最新作。
今年1月から冒頭に記したように、所属レーベルとの和解が成立、ダウンロード、ストリーミングでもカタログを楽しめることになった。
「昔はレコード会社に知り合い、顔なじみがたくさんいて、じっくり会話し、双方が満足できる結論まで時間をかけることができた。今は、オフィスを訪れるたびに知らないヤツと挨拶して終わり。これじゃ、満足に仕事できないよ。」というのはジョーの言葉だが、ウルトラ正論。
シェフィールドから夢を背負ってアメリカに旅立った「仲間たち」。
努力、友情、勝利とは、少年マンガ誌のたたき文句の受け売りだが、そんな風にガンバるアーティストたちの後ろで微力ながら仕事をする楽しさを再実感する春の朝である。
では、また次回に!!
※本コラムは、2018年4月4日の記事を転載しております。
■DEF LEPPARD オフィシャルサイト
■DEF LEPPARD(ユニバーサル ミュージック ジャパン)
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▼フジパシフィックミュージックでも連載中▼
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