中村憲剛に言われた“一緒に獲ったMVP”。この道を生きて良かったと思えた瞬間
JリーグMVPのトロフィーを持つ僕。
その隣で中村憲剛選手は、ボソッと、自然に言った。
「このMVPも、守本さんと一緒に獲ったようなもんだ」と。
自分が生きてきた人生に意味はあるのか。
選んだ道に間違いはなかったのか。
きっと、多くの人はそんな不安と共に生きていると思う。
私もその一人だった。だが、明確に
「この人生を生きてきて良かった」と思えた日がある。
その出来事は、36歳と11か月目に起きた。
中村憲剛選手から直接言われた、その言葉を聞いた時だった。
◆中村憲剛選手との関係
まず、私と憲剛選手とのつながりを
記しておく必要があるだろう。
兵庫県の田舎で育った私は、バスケ部ながら高校生でサッカーライターになりたいと思い、編集の専門学校へ進学。東京で編集者として働き出したのが21歳。3年働いてバルセロナへと移住した。2008年までサッカーライターとして活動した後、帰国して今の東京の会社に就職する(→詳しくはこちら)。
そこで、企業スポーツの仕事をすることになった。
その仕事に関しては、その後11年間、
企画・取材・WEB制作を手掛けることになるのだが、
その途上で紹介された仕事がある。
それが、
『中村憲剛のピンクアンブレラ運動-なくそうよ虐待、やめようよいじめ-』 http://www.child-one.org/
ホームページの制作だった。
◆築かれていった関係性
そのピンクアンブレラ運動HP制作の件で
知り合うことになった、憲剛選手本人、
マネージャーさん、そして憲剛選手のお父さん。
彼らとの話し合いの中で、憲剛選手の思いに触れる。
「自分自身が子どもを持つ親の立場になった今、血縁に関係なく、子どもたちを守りたい思いはいっそう強くなった」
「ひとりひとりの子どもと向き合い、話す、遊ぶ、手をつなぐ、心を通わせることの大切さを日々実感している」
そんな憲剛選手の想いを汲み、
ピンクアンブレラ運動プロジェクトは2013年にスタートした。
余談だが、私も1980年生まれで同い年。
ちょうど2010年に生まれた長男が、
難治性てんかんを患い、子育てとは何かを、
考え始めていた頃だった。
そんな思いとリンクし、プロジェクトは
私にとっても意欲的な取り組みとなる。
憲剛選手は、本業のサッカー選手を軸にしつつ、
時間の許す範囲で、共に子育てに
関する取材を断続的に行っていった。
大塚いちおさん、のぶみさん、渡辺明竜王などなど。
対談取材を続けていくうちに、一緒にプロジェクトを
進めていくチームになれたと思う。
そんな折、マネージャーさんから連絡があった。
年末に開く忘年会に出席してくれないかとの
お誘いだった。
◆僕がライターになって撮った唯一の記念写真
その年のJリーグ(2016年)で、中村憲剛選手は
Jリーグ年間最優秀選手賞を受賞。
「お世話になった方々にお礼がしたいので、
ささやかながらその感謝を形にする会を開きたい」
とのことだ。
年末の駅伝、バスケ取材を縫っての日程だったので、
出席させてもらうことにした。
その会での出来事である。
会合の途中、憲剛選手との写真撮影&サインタイムがあった。
僕は、照れ隠し半分で、カメラマンをしていた。
撮られたりするより、みんなの写真を撮る方が楽だったから。
でも憲剛選手のお姉さんが
「守本さんも一緒に撮りませんか」と
声をかけてくれたのだ。
普段、取材対象の選手に対してミーハー行為は
しないと決めているものの、
憲剛選手と一緒にMVPトロフィーを触る機会なんて
一生ないかもしれないなと思って、
せっかくだから撮ってもらうことにした。
壇上で、一緒にトロフィーを持つ。
ちょっと、いや、だいぶん恥ずかしい。
その時だ。憲剛選手が、ボソッと私に言った。
「守本さんとの付き合いも、なんだかんだで長くなりましたよね。これ(MVP)も一緒に獲ったようなもんだ」
と、本当に自然にサラッと一言、言ったのだ。
◆報われたもの
そもそも、そういう感謝の気持ちを表す会だったので、
特に改まってというわけではない。
自然に出てきた言葉だし、自分の貢献度なんて
0.02%ぐらいなのは理解している。
無論、その気持ちを憲剛選手が、全サポーター・
全スタッフに向けて持っているのも知っている。
それでも、
もし「自分も一緒にJリーグMVPを獲ったんだ」と
一瞬でも思えるのなら、僕は、素直に嬉しかった。
高校時代、「バスケ部なのにサッカーライターになれるかな」と思ってから、約20年。何度も徹夜で原稿を書いてきたのも、帰国してWEB制作の技術を身に着けたのも、全てはこの瞬間につながっている。
そんな気がした。
恵まれた人生を送ってこれたのだ、この道を選び、
必死に生きてきて正解だった、と思えた。
ちなみにサインは、何も書いてもらうものがなかったので、ホテルのナプキンに書いてもらって“メッシの契約書ごっこ”をしようか迷った。でも、たぶん部屋に飾っておいたら、5か月の三男健悟(ケンゴ)が離乳食と間違えて食べそうなので、やめておいた。
◆実は、スポーツ選手の力はすごい
それから数週間後の年明け、お父さんと打合せする
機会があったので、その話をさせてもらった。
「憲剛選手から、こういう風に言われたんです。僕は嬉しかったし、それを言われた瞬間から、この件はもう僕にとって仕事以上の価値になる。これからも全力で頑張りたいと、改めて思いました」
お父さんは、こう言ってくれた。
「父親としても、そういうことが言える選手に育ってもらったことを嬉しく思う。そしてまた、守本さんにそう感じてもらったことを嬉しく思う」。
一連の流れを通して、改めて気付いたことがひとつ。
スポーツ選手には、一言で人の人生を変えるような力がある。
今までもたくさんのスポーツの現場に携わり、選手の声を何千と拾ってきた。わかっていたつもりだ。
でも、実感すると、それはより明確になる。
今、スポーツを志している人だったり、
選手には心に刻んでもらいたい。
あなたのその一言が、誰かの人生を変えたり、
ひょっとしたら命を救うことも、あるのだということを。
ライターとしてあまりに稚拙な表現だが、あえて言う。
実は、スポーツの力はすごい。
◆いつか
その後も、中村憲剛選手、事務所のみなさんとの
付き合いは良好に進んでいる。
2020年4月には、
中村憲剛主催サッカースクール『KENGO Academy』
のホームページ立ち上げを担当させてもらった。
サッカースキルを磨くだけではなく、
思考そのものを伝えたい。
一人ひとりをちゃんと見て教えたい。
そういった憲剛選手自身の意思が詰まったプロジェクトである。
対象は中学生。私の子供は長男が障害者で、
ルールが理解できないだけに、
次男の成長を待たねばならず、
まだ数年先になるが、
いつか通えればいいなと思っている。
お父さんからお誘いいただいた、
「いつか家族で一緒にご飯を食べましょう」という話は
まだ叶えられていない。
その機会があったら、良かったら
2回目の記念写真を家族みんなで撮りたいと思う。
そしたら、僕からも隣にいるであろう
憲剛選手にボソッと伝えたい。
「あなたもまた、私の人生のMVPです」と。
※現役引退された中村憲剛選手、その子どもたちとご家族、事務所のスタッフのみなさんに捧ぐ。