30年日本史00609【鎌倉前期】実朝懐柔工作
さて、実朝と定家の交流に話を戻します。
実朝にとって、著名な歌人である藤原定家に自作の歌を送るのは勇気の要ることだったでしょう。一方、実朝の歌を受け取った定家はどうしたものかと後鳥羽上皇に相談します。
後鳥羽上皇もまた、定家と並ぶこの時代を代表する歌人です。新古今和歌集の編纂に当たっても、後鳥羽上皇は単なる発注者の立場を超えて、定家と同じか、あるいはそれ以上に歌の選定に関わっていたようです。
後鳥羽上皇は、定家が実朝に和歌指導を行うことに大賛成でした。定家はさっそく添削指導に取りかかります。このとき定家は添削だけでなく、実朝のために「近代秀歌」という和歌の指南書を作って鎌倉に送りました。実朝がどれだけ感激したことか、想像に余りあります。
これ以降、実朝・定家の交流が始まるのですが、和歌に熱中する実朝に対して御家人たちは良い顔をしませんでした。その証拠に、承元3(1209)年11月4日、義時は実朝に
「武芸を捨て置くことのございませんように」
と諫言し、御家人たちによる切り的を射る弓勝負を催しています。実朝は将軍としてこの勝負を観戦しましたが、きっとつまらなさそうな顔をしていたことでしょう。
当代随一の歌人から直接指導を受けられることを無邪気に喜んでいた実朝でしたが、後鳥羽上皇の意図は、実朝を手なづけて幕府を意のままに動かすことにありました。
祖父譲りの権力志向で個性の強かった後鳥羽上皇は、鎌倉にできた武家政権が東国を実質的に支配していることに不満を感じ、朝廷が全国を支配する従来の体制に回帰させたいと願っていました。
強いリーダーシップで幕府を牽引していた頼朝が死に、その後任の頼家も殺され、朝廷への憧れを持つ青年実朝が将軍位に就いたことは、上皇にとって非常に好都合でした。定家による和歌の添削指導も、自らの野望を叶えるための手段とさえ思っていたかもしれません。もし定家が後鳥羽上皇のそうした狙いを知ったなら、和歌を汚す行為として激怒したことでしょう。
さらに、幕府が都から招致して実朝の侍読(教育係)に就けた源仲章は、父子二代に渡る院近臣でした。後鳥羽上皇は仲章を通して実朝に朝廷の都合のよい公家教育を施し、逆に仲章から都の情報を仕入れていたのです。
この戦略が上手く進んでいたならば、和歌の力による権力掌握という面白い歴史になっていたかもしれませんが、さすがに北条義時は実朝・後鳥羽の蜜月関係と、その狭間で情報を収受するスパイである源仲章を警戒し始めます。
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