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30年日本史00298【平安中期】承平天慶の乱 純友海賊となる
さてここで、西海で反乱を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも:?~941)に目を転じてみましょう。
純友は伊予掾(いよのじょう:伊予国府のナンバー3)に任じられていましたが、承平6(936)年にその任期が終了したにもかかわらずそのまま土着して、日振島(ひぶりじま:愛媛県宇和島市)を拠点になんと海賊の首領となってしまいました。
国府の役人が仕事を辞めて海賊になってしまったのか、それとも元々海賊だった人間が国府の役人になってしまっていたのか、どちらなのか分かりません。
同年。新たに伊予守に着任した紀淑人(きのよしと)は、海賊に対して懐柔策をとり、海賊2500人を投降させました。この紀淑人こそが純友にとって最大の敵となる人物です。
この年は、東国では坂東平氏の内紛が大規模化し、西海では純友が海賊として物資を略奪して回っていたというわけです。
天慶2(939)年。純友の配下の者らが都で連続放火事件を起こしました。純友は西海で海賊として活動するだけでなく、中央政府をも転覆しようと企んでいたのかもしれません。
同年12月。備前介・藤原子高(ふじわらのさねたか)が、純友を告発するため都に向かいましたが、これを知った純友は藤原文元(ふじわらのふみもと:?~941)に命じて子高を追跡させました。文元は摂津国須岐駅(兵庫県芦屋市)で子高に追いつき、耳を切り鼻を削いだと伝えられています。
同月。藤原子高の使者が都の最高権力者・藤原忠平の邸宅に到着し、純友の反乱を伝えました。忠平は公卿らを非常呼集して対策を練り始めます。
すると、なんとその翌日に、
「将門が常陸・上野・下野の三国の国府を占領した」
との知らせが忠平邸に届きます。
公卿たちの対策会議では、
「将門と純友は共謀しているに違いない」
との意見が大勢を占めました。実際にはそのような証拠はないのですが、時を同じくして2つの大きな反乱が東国と西国で起きたわけですから、そう考えるのも無理はありません。
公卿たちは、逢坂関(京都府と滋賀県の境)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)を強化する旨を決定するとともに、
「将門の首級を挙げた者に五位を与える」
との勅符を出すことを決定しました。