名作か、それとも意味なんか無いのに深読みされてるダメ映画か(バニシング・ポイント)
4Kリマスターでの再上映で、この名作(迷作?)を見る機会に恵まれました。
オリジナル上映は昭和46年(1971年)なので、私は生まれていません。そういう作品の初見を令和の映画館で体験できたのは幸運でした。
▼あらすじ(ネタバレ注意):
物語の結末に言及するので、未見の方はブラウザバック推奨です。
▼感想:
●映像クオリティについて
4Kデジタルリマスターとのことで期待して観ましたが、もともと現在ほど高性能なプロジェクターを想定してないためか、35mmフィルムにしては少し画質は粗いと感じました。まあ1971年の機材で、砂漠でロケしてるのだから仕方ないですね。その証拠に、蛇を投げ捨てるシーンはフォーカスがよく合っていて綺麗でした。
とはいえ、CGが全く使えない時代に、一度しか撮影できない実車を破壊する危険なスタントや、綿密に計算されて何度もリハーサルしたであろうブルドーザーと沈む太陽で作る格好良い構図など、見所は大いにありました。
●ラストシーンの衝撃
こういう書き方をすると身も蓋もないのですが、アメリカン・ニューシネマの作品で「主人公が最後に死ぬ」のはある意味お約束です。主人公が死んでしまうことで作品に余韻を持たせたり、転じて社会の問題点を観客に強く訴えるのが常套手段ですから。
そんな中でも、本作は第一幕で助かる姿(スピンターンしてバリケードを回避)を見せておきながら、編集で一度時系列を過去に戻してから、再びバリケードに対峙した第三幕では正面から突っ込んで呆気なく死んでしまうのがユニークだと言えます。ある意味「死ぬのが当たり前」な映画なのに、こうすることで意外性が高くなりびっくり度が増します。
この点については、竹内伸治氏の分析が興味深いです。
マルチバースという単語を用いたのは、同時期公開のエブエブの影響だと思われます(竹内氏は『フェイブルマンズ』でもマルチバース側のスピルバーグを描いてると表現していました)が、確かにそういう解釈もできますね。同時に存在する2つの世界線を、どちらも映画内の現実として提示していると。
ただ、私は違う考えです。
私はもう少し狡猾というか、表現の方法論として形骸的に見ていて、シンプルに第三幕での衝撃度をアップさせるためのブラフとして「嘘っぱち」を第一幕で提示したのかなと思いました。編集のマジックというか、映画の嘘というか、イリュージョンというか、そういう類で片付けられるものです。
もしくは、もう一点可能性として考慮したいのは、ブルドーザーの隙間から差し込む夕陽です。これは太陽が地平線まで降りてきていることになりますから、時間帯は日没ということになります。
つまり第一幕では午前11時でしたが、第三幕ではバリケードを一度回避した場面がカットされただけで、実はそのあと数時間ほど逃げ回って、もう一度バリケードまで来て特攻をかけた、という可能性が出てきます。
ただし死の間際のコワルスキーのガン決まった表情を見ていると、あれは具象的な太陽の光ではなくて、気が狂ってしまった彼がスピードを極めた先に見出した抽象的な何か(啓示みたいなもの)だったのかもしれません。そちらの方が映画としての味わいや深みは増すと思います。
ただし、いずれの解釈だったとしても、本作のラストシーンが非常に衝撃的であり、観客それぞれに色々な思索をさせるのは異論のない所だと思います。そういう意味では、素晴らしい作品だと言えるでしょう。
●本作の物語に深い意味やエスプリはあるのか?
私の答えは、ノーです。
もちろんスピード違反は良くないとか、覚醒剤を飲んで運転なんかするもんじゃないとか、無謀な賭け事はするなとか、底の浅いエスプリなら幾らでも拾えますよ。でも、人生の意味とか社会的な正義とかに迫る深い意味はないように思えます。
本作は物語に意味が有りそうで、でも実は意味なんて無いのだと私は思います。なぜなら本作は「人生に意義を感じなくなった男」を描いてる映画であり、その究極形として「映画自体もナンセンスにしている」のではないかと私は考えるからです。この映画のタイトルでもある消失点(バニシング・ポイント)では映画の物語の意味でさえも消えていくという、ややメタ志向な解釈です。だからどちらかというと、映画の物語で何かを伝えるのではなくて、映画の構造自体でメッセージを表現した映画だと思います。
次々と現れるブロンド美女はエンドクレジットでもそれぞれFirst Girl(一人目の女)、Second Girl(二人目の女)、Nude Rider(裸のライダー)と表記されるだけで、役名がありません。つまり彼女たちには背景がないのです。これは少なくとも本作においては彼女達の背景はなくても問題ないと製作陣が見なしていることを意味します。通りすがりの風景にあるサボテンと一緒です。空虚なものをいかに意味深に見せるかというのもまたニューシネマの本質だと私は捉えているのですが、このクレジットが彼女達の本質的な空虚さを示唆していると思います。
大体おかしくないですか?コワルスキーが訪れたガソリンスタンドでたまたま髪色がブロンドの女性従業員が対応してくれたら、彼はかつての恋人の想い出にふけって、それに合わせてやたらセンチメンタルなBGMが流れます。このときスタンドの女性が彼のことを見つめるのは、彼に不思議な魅力や運命的な何かを感じたからじゃなくて、ただボーッとしてて会話が成立しないヤバそうな野郎だから観察していただけだと思いますぜ。大丈夫かな、あの人、事故おこさないかなって。それをBGMで何か良い雰囲気に見せようとしているように私には見えました。(笑)
こうした「思わせぶり」なだけで実際はナンセンス(無意味)でしかない表現は、70年代カルチャーに感化された作家にしばしば見られる手法です。たとえば近年でも庵野秀明(1960年生まれ)がエヴァでやっていたこと(聖書の語句を多数引用していたが、本質的にはただの言葉遊びでしかなかったのを周囲が勝手に深読みしていただけ)もこの類だと私は捉えています。
●アメリカン・ニューシネマについて
本当に物語に意味があるのかどうかは監督のみぞ知るのですが、たとえ無かったとしても、余白が大きいから観客が幾らでも脳内補完できて、同情と感傷にどっぷり浸るのがこの時代のアメリカン・ニューシネマの魅力であり、正しい鑑賞法でしょう。本作もその範疇に収まります。
時代性といえば聞こえは良いですが、私は根本的にはアメリカン・ニューシネマなるものを少し冷めた目で見ています。本作も、あらすじの要点だけまとめてしまうと「人生の意味と将来の希望を持てなくなった貧困層の中年男が自暴自棄になって車で自殺するだけ」の話ですからね。いや、コワルスキーには色々な事情があったのは観ていて分かりますが、JR中央線に飛び込む中年サラリーマンとやってることは本質的に変わらないので、彼の行動は手放しで賞賛できるものではありません。(苦笑)
しかしながら第二幕では視覚障害者のDJをはじめ、見るからに貧困な聴衆、白人警官に殴られる黒人、ペンテコステ派のキリスト教集団、ヒッピーのカップル、ゲイのカップル(しかも本性は自動車強盗)、という当時アメリカの社会的弱者が多く登場します。彼らがユタ州、ネバタ州、そしてカリフォルニア州と警察から逃げ続けるコワルスキーを英雄視して盛り上がったり、彼の逃亡を手助けする様子が描かれます。
アメリカン・ニューシネマが流行した昭和40年代に10代や20代だった世代には左翼的なリベラル思想に感化されて政府批判や体制批判が好きな人達が多いので、映画で描かれる社会のレールに乗らなかった人達の姿に自由の謳歌と社会体制の批判を見出して、この思想を褒め称える人が結構多いです。すべからく本作で登場するマイノリティも「正しいこと」をしている善人として好意的に見られ、主人公と一緒に体制に立ち向かう人々として理解されます。そういう何でも体制批判に結びつけるところは、昭和末期に生まれた私には説教臭く、そして滑稽にも感じられますね。
了。