なぜエルフの肌は白色なのか:『力の指輪』をめぐる反ポリコレと反反ポリコレの争い(ロード・オブ・ザ・リング新ドラマ)
「原作設定にないダークエルフ」が登場したことで、4億ドルという破格の予算をかけて制作されたアマゾンプライムビデオの新ドラマ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』が炎上しまくっています。
9月2日金曜日に配信された直後にSNSでは大炎上。9月8日には鎮火を図った運営側からキャスト総勢からのメッセージという形で「人種差別に反対する声明」を公式発表するに至りました。20年前の旧映画作品のキャストもこの声明を支持を表明しています。
ファンからの批判の的になったのは、肌が褐色のダークエルフ、髭が生えてないドワーフの女、やたら人種が多様な村の人々、などなど他にも細かくあげればキリがないようですが、つい先日に映画LOTR三部作をほぼ初めて視聴したニワカの私が原作設定との乖離を感じたのはその三つくらいですかね。(実際にはドワーフ女には申し訳程度にモミアゲのような髭が生えています)
あとこれはドラマのオリジナル要素ではありますが、くたびれた男ばかりの田舎の農村で肩と胸を大きく開いた服を着て明らかに目立っている中東系の顔をした女が強気なシングルマザーとして主要キャラだったり、同じく強気でアフリカ系のドワーフ女が夫を完全に尻に敷くタイプの肝っ玉母ちゃんだったり、北欧系でステレオタイプに”美しい”容姿をしているエルフ女のガラドリエルが服が濡れて体の線が出てるのに居合わせた男が全く欲情しなかったり、などポリコレ配慮(強い女と弱い男)を意識した配役と演出が目立つと感じました。
つまりこの話題には原作設定尊重とポリコレ尊重の二つが混ざってややこしくなっています。原作を知ってても知らなくても強いポリコレを感じさせる作品なのは事実だと思います。
で、Twitterのような文字数の限られた世界で議論を始めたら、そりゃ荒れるわな、という話です。もっと厳しいことを言えば、そもそもある程度複雑な議論には義務教育は問題なくこなせるくらいの知性が求められますが、これを満たしている人は世間で少数派です。よって残りの衆愚な人達が好き勝手に発言したり拡散したりして感情と共感がバイラルを巻き起こすTwitterにおいて、論理は対極の存在です。その結果、とてもロジカルとは言えない罵詈雑言で溢れ返ります。(中には誹謗中傷と批判の区別がつかない人達もリアルに大量に居る)
▼なぜエルフの肌は白いのか:
で、改めて気になることがあります。それはエルフの肌の色です。
エルフといえば『ゼルダの伝説』とかにもあるような白人のイメージを私は持っていたのですが、世の中のゲームや映像作品にはダークエルフなる肌が暗いものも存在するようです。まあこの場合もコーカソイドが黒っぽい衣装を着ているか、ネグロイドというよりはゾンビやオークに近い造形が多いような気はしましたが。
そもそもエルフというのは指輪物語よりも先にあった語句です。
この説明文を読んでも肌の色には触れられてはいません。ただし、出身が北欧神話ともなればスラブ系の肌も髪もメラニン色素が少ない容姿になるでしょうし、そもそもゲルマン神話を起源に持つ存在です。ゲルマン系と言えばナチスなどの負の歴史も含めて白人オブ白人とも言うべき存在です。なのでゲルマンに起源があるなら「言うまでもなく白い」と考えるのが自然な解釈です。(逆に黒かったら強調して言及すべきポイントでしょう)
では、指輪物語ではどうだったのでしょうか。
ピーター・ジャクソンの映画で指輪物語を知った私にとって指輪物語の原風景は白人ばかり出てくる世界でした。これを2022年に鑑賞した私には「なんて混じりっけのない潔い作品なんだ。20年前だから実現した配役だよな」と感動すら覚えた(決して黒人差別を支持する意図ではなくて、中世のイギリスなど西ヨーロッパをモデルにした世界なのだから主要キャラが白人になるのは当然だろうという見解です)のですが、これはあくまでPJ監督による二次創作です。
では原作であるトールキンの書物の中ではどのように描かれていたのでしょうか。私は参考にすべくTwitterで連続ツイートで講釈してくださっているものを幾つか読み漁って、時には英語のサイトも見たりして真実に近づこうと試みました。本来ならトールキンの原書を英語で読みたいところですが時間がありません。世界中にファンや研究者が居るなら、彼らの纏めたものを複数読むことで真実に十分近づくことは出来るでしょう。
で、結論としては、
1954年の発表当時は(エルフ=白人、オーク=黒人)という比喩として世の中に受容されて、それが半世紀ほどかけて定着したのだろう。
と私の中ではなりました。
●非白人OK派の根拠は「トールキンが言ってない」だけ
一番分かりやすかったので引用します。
中野氏はケルト語を専門に研究されている方らしく、トールキンにも造詣が深いようです。そんな詳しい方が「トールキンはエルフが白いだなんて言ってないぞ」と強めに発信されています。
なるほど、参考にはなりました。
「トールキンはエルフが白人だと何処にも書き残していない
⇒だから非白人のエルフもありうる」
これは間違ったことを言っていません。論理上は否定されない限りは肯定の可能性が残ることになります。
「てめえら原書も読んでもないくせに、俺みたいに長年研究して深く理解してるわけでもないのに、ガタガタ抜かしてるんじゃねえよ!」というお気持ちを上品な言葉で綴りつつも、ガッツリ煽っているところには感心しませんが、論理的には非白人エルフの可能性が残っていることは認めます。
ただ中野氏の主張はここから先が少し物足りないものでした。トールキンの言質にこだわるなら「トールキンがエルフの肌の色は多様である」と書き残したものが究極の証拠になりますが、それは彼も見つけられなかったようです。
で、中野氏はその話は置いといて、このあと連続ツイートでダークエルフを否定する人達の論旨の弱点を攻撃しまくって講釈を終わってしまいます。なんか十年くらい前に流行った”東大話法”みたいな逃げ方だなと感じたのですが、なんと中野氏は東京大学(大学院)の学生さん(現在は卒業生かも)でした。
まあ、2012年ごろに反原発のムーブメントから出来た造語なので世間的には悪いイメージで使われていた語句であり、ウィキペディアの解説(=提唱者による定義)も同じくらい意地悪というか嫌がらせに近いですが、詰まるところ東大話法とは【自分に決定的な根拠がなくても相手の言い分だけは否定する弁論の技術】なので、その点では中野氏の論理展開は東大話法だと言えると思います。
整理するために、もう一度真実だけを書きます。
トールキンは「エルフは白人だ」と言ってない。(←中野氏の主張)
しかしトールキンは「エルフに黒人がいる」とも言ってない。
だからトールキンの言質だけでは決められない。
ということです。
●歴史的背景を合わせて考慮すると見えてくる人種差別
そもそも『指輪物語』の初版は1954年イギリスであり、当時の”世間”にどう認知されていたのかを考慮に入れるべきだと思います。
第二次世界大戦で大量の戦死者を出した英国はカリブ諸国から移民を大量に受け入れて、人種差別が社会問題になっていました。黒人移民は低い給料でこき使われて(それでも祖国よりはマシな生活ができたのだとは思うが)白人から迫害されながら生きてました。それから10年20年かけて黒人も市民権を獲得していくのですが、指輪物語が発表されたのはそうなる直前のまだ人種差別が強かった時代です。
トールキンがレイシストでなくとも、世間の空気に流されて、現在の基準ではポリコレに反する物語を書いた可能性は十分にあります。北に住む高貴で美しいエルフと、南から来た下賤で汚いオークという対比は、そのまま当時の白人と黒人のイメージ(典型的な人種差別)に適用できます。
本当に深刻な差別というのは「当たり前すぎ」て本人も周囲も「無自覚的」であることから、言質が残っていることの方が稀有なのだと思われます。だからトールキンが自分から「エルフは白人でオークは黒人だ」なんて言いません。そもそも当時の”人間”は白人だけで、黒人は人間未満だとする考えや風潮があった世間でした(言わずもがなトールキンの幼少期は更に激しかった)から、わざわざ言質にする必要がないのです。
もしくはトールキン自身もその考え方が非人道的であることの自覚はあったから都合が悪いことは公的に喋らなかっただけかもしれません。だがそういう世間の常識には乗っかった方が本は売れます。百年前の偉大な作家が(現在の価値観でも通用する)聖人君子だったとは限りません。
こういった話は、おそらくトールキンの世界観を熱心に研究するほど見えにくくなるのではないでしょうか。トールキンの世界を知るほどにトールキンのことが好きになって、まさかトールキンがそんな非人道的な世界を作るはずがないと思い込みたくなるかもしれません。だが作品というのは一度出版されれば世間の人の手に渡って、そこで受容されて広まっていくものです。作品が必ずしも作者の意図通りの形で普及するとは限りません。これはトールキンが書き残した世界の”外側”に目をやらないと気付きにくいポイントでしょう。
●後継者が声明を発表するという意味
私も少し調べました。エルフの肌の色については「ある特定の種族は明るい」という言及にとどまり、エルフ全体の肌の色への言及は無いようです。
しかし、そんなエルフの肌にまつわる唯一の証言さえも、トールキンの死後に息子が「あれは誤植だった。最初はエルフ全体の肌が明るいと発行されたが、そうではなくてエルフの中でも特定の種族のことだった」と訂正を入れていたことも分かりました。
あれれ?一気に胡散臭くなりましたよ。熱烈なファンがこぞって主張する「トールキンは設定に非常に強いこだわりを持っていて緻密な世界を作り上げた」というのが本当なら、どうして肌の色という重要な部分でそんな大きなミスをしてしまったんでしょうか?(笑)
つまり偉大なる作品を遺産相続した人達や財団が(今後も稼ぎ続けるために)後からポリコレに配慮して改変している可能性もあるということです。
まあ有りそうに思える話です。ディズニーに買収された後のスターウォーズで有色人種が増えたのと状況がよく似ています。
おそらくこういった論争(オーク=黒人)は70年代には盛り上がっていたと推察されますから、1973年に81歳で亡くなったトールキンがレイシスト扱いされることを息子はよく思っていなかった可能性が高いです。であれば、残された文章から少しでもポリコレOKに解釈できる文章を探して、それをアピール(時には改ざん)していたのかもしれません。
●文化や伝統をどのように未来に継承するか
映画やドラマもビジネスである以上、ある程度は市場のニーズとしてポリコレに配慮しなければならない事情というのはあるでしょう。作品にどこまで反映させるかはともかく、いくら伝統のある作品であっても何も考えずに「昔と同じやり方」で気楽に作れる時代はもう終わりました。
もし今の時代に非オークを白人俳優で固めてしまったら、「オークは有色人種のメタファーだ」という批判は避けられないでしょう。だから非オークの主要キャストにイランやアフリカやプエルトリコやインドネシアなどの出身俳優を起用した。というのが実態だろうと私は思います。
このような改変が実行されるかどうかは、究極的には権利者側のビジネスとアートの天秤で決まります。個人的には現代劇であればいくらでもアダプテーションをかければ良いと思うが、時代劇で市場のニーズに迎合して作品を変える姿勢はあまり感心できません。
たとえば『戦国自衛隊』のように最初から「ありえない組み合わせ」を作りたくて異物を突っ込むタイプの娯楽作品であれば話は別ですが、指輪物語のように一部の集団が民族のルーツとしてシリアスに向き合いそうな作品では十分に検討を重ねるべきだし、変更の理由を客層に納得させる努力も惜しむべきではないでしょう。
多様な人種の受け皿になる器の大きさを指輪物語(の世界観)は持つというリベラルな意見は傾聴に値します。どの人種の人達にもその物語を楽しむ権利はあります。
しかし一方で何百年も昔からのヨーロッパ/イギリスの原風景に近い世界観でファンを魅了してきた指輪物語に改変を加えることを是としない保守的な意見も無下に扱うべきではありません。伝承や文化を保守することは国家の存続に直結する問題でもあります。
●ポリコレを強く進めた先にある代償
1950年代イギリスに大量に移民したカリブ系の人達は、今では黒人コミュニティを形成し、ノッティングヒル地区では毎年大規模なサンバカーニバルでどんちゃん騒ぎをしています。これはロンドンで有色人種のポリコレを推し進めた一つの成果でありブリティッシュ・カリビアンと呼ばれる人達の誇りにもなっています。
しかしご自身で画像や動画を検索してみてください。暴力や流血など結構ショッキングな映像も含まれます。
普段の鬱憤を晴らすかの如く運動能力の高い黒人が暴れ回るので、なかば暴動のようになり、今年は200人ほど逮捕されたそうです。伝統あるロンドンの街並みに突如あわれる移民の異文化コミュニティ。自分たち白人とは明らかに異質な真っ黒な人混み。ロンドンに限らず海外では、こういう移民政策がもたらす負の側面を体感しているからこそ、たかがファンタジー作品でも人種の描かれ方の変更に防衛反応をする人が多いのでしょう。(おそらく中にはガチのレイシストも含まれるでしょうが、少数派だと思います)
ポリコレは自由と平等を強く主張する運動なので、リベラルや共産主義などの左翼的な思想とシンパシーを形成しやすいです。このことを指摘するとしばしば「そんな人でなしなことを言うお前こそ右翼なんだろう」とか批判されます。
私は自分では極めて中道的な価値観の持ち主だと思っていますが、今の世間は学校教育やマスコミがリベラルに偏っているので、相対的にコンサバに見られるであろうことは自覚しています。でもいわゆるネトウヨとして侮蔑されるような言動や誹謗中傷をしたことはなくて、ただシンプルに自分の生まれた国と土地と資源と人々を守りたいだけです。自分の家の庭に他人が入ってきたら注意しますよね?それを国家レベルまで拡大しただけです。そのためには2000年続いてきた日本の文化を保守する(外側に広げるのではなくて、内側を守る)のが正解だろうと考えているだけです。文書の記録が残っているだけでも飛鳥時代から1400年続いてきて、国家が揺らいでるのは直近70年間くらいだけなのだから、まだまだ前半の1300年以上のスタイルには価値があると考えています。
逆に、リベラルの本質とは壊すことです。格差や差別など、劣等感や嫉妬を煽るような言葉で駆り立てて、問題があると定めた箇所を、本来は残すべきものも全て一緒くたに文化を壊してしまう凶暴性と危険性をリベラルは持っています。(これもおそらく極左の一部の人達が破壊工作をしているだけだとは思うのですが、如何せんリベラルのスローガンは自由とか平等とか理想とか耳障りが良いので、あまり深く考えてない人や若者がコロッと信じてSNSで共感してしまいがちです。あと東京大学を筆頭に各種学会もリベラル志向の人達が支配的だと言われています)
コンサバは良くも悪くも動きがありません。保守してるだけですから。しかしリベラルは違います。積極的に壊すからです。
一度壊したものは簡単には戻せません。完全に元に戻すのは不可能であることも多いです。物語や建物や血筋のように有形なものもあれば、風習やファンダムのように無形のものもあるでしょう。ポリコレという旗を掲げてリベラルを邁進される方々にはそのことを今一度意識してほしいなとは思います。
了。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ぜひ「読んだよ」の一言がわりにでもスキを押していってくださると嬉しいです!