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普通という言葉が一番嫌いだ
「普通」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
私はこの本が思い浮かんだ。
タイトルがとっても気になっているのだけど、まだ読めていない。
でも間違いなく、私がこれから言おうとしていることに、少なからず重なる部分があるのではないかと思っている。
読んだら、また感想書きます。
私が「普通」という言葉に嫌悪感を覚える理由は主に3つだ。
まずは、「普通」という言葉の暴力性に何度も振り回されてきたこと。
私はASDだ。別にASDでなくても共感してくれる人はいると思うが、あえてASDであることを今は強調させてもらいたい。
ASDの人間は曖昧な表現がかなり苦手なのである。
「そのへんにおいといて」「適当にやっといて」「普通にやってれば大丈夫だよ」これらの言葉に何度も騙されてきた。言われた通りにやってきて、かなりの回数のお叱りを受けてきた。どうやら私の思う適当と、相手の思う適当にはかなりのズレが生じているらしい。
言葉通り受け取ると怒られる。日本特有の察して文化もあり、ASDの人間が知らない間に浮いてしまう要因の一つだと思う。
学生時代の図工や技術の受業でも私は相当苦労した。
小難しい単語が並べられた説明書を読んでも、何も理解できない。
でも周りを見ても、私と同じように手が止まっている生徒はいない。
仕方なく、勇気を振り絞って隣の席にいる子に聞いてみるけれど「それは説明書読んでチョチョイってやれば普通にできるよ」とめんどくさいオーラを出されて流される。そのチョチョイがわからんのや、私には。
それで、見よう見まねでやってみたら案の定。
理科の実験用モーターカーは逆走したし、工作用の木材は本来と逆向きに付いた。予備が無くて、半泣きで先生に正直に伝えたら「ドアホ!」と怒鳴られた。そのあと、誰も助けてくれなかった。トラウマになった。
これは不器用に陰キャとASD特性がMIXされた最悪の例だけど、こうやって幼少期から「普通」に振り回される機会は意外に多い。
次に嫌いなのは「普通」に対しての正解がないこと。
0/100思考がデフォルトな私は、真ん中であることがどうも許せない。2択の質問で△を出す人間は外道だと思っているし、質問の「どちらともいえない」は死んでも選ばない。
そのくせ、世の中はどっちつかずなことが多すぎる。しかも、それを別に明らかにすることもなければ、寧ろどっちか白黒つけようとする人間を面倒くさい奴扱いにしてしまうまである。
私が苦労してきた「普通」という概念も、結局は複数の人間が作り出したものにすぎない。いつの間にか、それが社会の正解であるようにされているが、本当に正解だと証明されているわけでもない。
でも、そこから外れたら皆の輪には二度と入れてもらえないのだ。
だから私は人が勝手に決めた正解に少しでも近づけるよう、死ぬ気で努力している。これが3つ目。
普通に対して異常なほどの嫌悪感を持っているのに、結局、世の中の普通を探している自分がめちゃくちゃ嫌いだ。
周りに合わせることを、無難に生きるためだと割り切れたらどれだけ楽だろう。そう思って何度か頑張ってみたけれど、割り切れるわけがなかった。
合わせたつもりが浮いていた、なんてことが何度かあったせいで、自分自身に失望したのもある。だけどそれは、何よりも本心がそんな生き方を全く望んでいないからだった。
私は浮きたくないけれど、普通の生き方はしたくない。
だって普通に生きることは私にとって「△」であり、「どちらともいえない」生き方だから。
自分の選択が、さらに自分の生きにくさを加速させていることは理解している。けれど、この考え方は譲りたくない。
生きにくい人間は、生きにくいなりに自分のやり方を見つける。
たとえそれが世間で言う「普通」から大きく外れていても。
やっぱり、普通が異常だとタイトルで断言してしまうあの本は、きっと私の力になってくれる気がする。本屋行ってこよう。
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