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社不をあぶりだす「みんなあそび」とは
誰が作りだしたか、このゴミ文化。
実は、一番最初の記事に書いた社不の片鱗という部分で一部分だけですが、語っています。ほんと滅んで欲しい。今でもあるんですか?みんなあそび。
みんなあそびとは、その名の通り、給食を食べ終えた後の昼休みに、半ば強制的にクラスの全生徒が外に出され、全員で遊ぶ15分間のことだ。
曜日ごとに遊びが振り分けられていて、基本は名称が異なるだけの鬼ごっこ、ボールが使える日は必ずドッヂボールが割り当てられている。
たとえば、こんな感じで。
月 たかおに
火 ドッヂボール
水 ケイドロ
木 ドッヂボール
金 こおりおに
つまりは「運動が得意な子も、運動がちょっぴり苦手な子も、アウトドア派もインドア派も関係なくお昼休みはみんな仲良く遊びましょうね!」という教師たちのエゴでしかない、一人一人と向き合いたくないがゆえに作り出した、半ば職務放棄のような文化。
100歩譲ってそういう意図がなかったとしても、当時インドア派だった生徒からすればそう思われていることは間違いない。ソースは私。
今でも夢に出るほど苦しかった15分間。
5分長い休み時間をなんでやりたくもない遊びのために使わなきゃなんねーんだよ。という気持ちをこらえながら、ボールに当たりに行き、牢屋に入れられ、捕まえ甲斐もねぇなというような目で背中に触れられる絶望。
当然「なんで来たんだよ」という顔をされるが、教室に残れば、終礼時に担任の前で不参加をチクられることが確定している。
小学生で身をもって知る、板挟み。
これらの地獄を乗り越えたところで、残るのは自己嫌悪と他者への憎悪のみだ。
運動音痴は大抵、小学校で絶望を味わう。
努力ではどうにもならない現実に打ちのめされる暇もなく、体育という授業で自分は人並み以下だというレッテルをほぼ全てのクラスメイトから貼られて生きることを強いられる。
スポーツテストという名目で行われる生き地獄に、不参加という選択肢はない。真上に飛ぶソフトボール、数センチしか動かない前屈の板、数え甲斐のない反復横跳び、自分以外誰も抜けないシャトルラン。
なんと、ここで脱落する人間は、大抵社不になっているらしい。
そんな偏見まみれのツイートが炎上し、一瞬にしてクソリプで埋め尽くされる。だけど、この記事を書いている私は会社を適応障害でやめたニートだし、1か月前にASDの診断が下ったいわゆる社不だ。
私は精神を病み、会社を辞めて職を失った。紛れもない社不であろう。
情報を見る限り、ASDのニート率は半端じゃないらしい。
言い過ぎなのかもしれないが、運動ができないことが周囲に知られていなかったら、もうちょっと楽しい人生だったんじゃないかと思う。
今、社会人というカテゴリに括られる年齢になって、運動なんてものを人に披露するタイミングはほぼゼロに等しくなった。
つまり、運動ができなくても社会で生きていけるということだ。
あの数年にも亘った体育という授業は、わざわざ私の自己肯定感を極限まで下げに来ただけの悪魔に過ぎなかった。
小学校から高校までの12年間、すべてで体育の評定3を取ってきた私だが、運動は決して嫌いなわけではない。思い通りに動いてくれない手、足、ボールには何度もイライラしたが、今は一人で朝夕と毎日かかさず筋トレをするような人間になっている。
私はただ、体育が嫌いなだけなのだ。
体育の授業が無くなることは今後もほぼ無いだろうが、みんなあそびという文化だけでも、滅んでいることを願う。
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