三十日目が明けて三十一日目。それはペリカンが都バスと競争中の、ある夜のことです。
「あの子が何したいのかわからない」
彼女の苦笑のまえで、私はきょとんとしていた。
「えっと、どういう意味?」
「え、そのまま意味だけど、うーんと……」
恐らく完全な不意打ちだったろう問いに、それでもきちんと応じようとして、彼女は視線をななめ上にさまよわせた。
「……いや、だから、何したいの?ってこと。ごめん、うまく説明できないわ」
いや、こっちこそごめん。
軽い謝罪をかわして、きまり悪い雰囲気を収めて、ほとんど同時にマックシェイクをすすった。ずずず。どうしてもまぬけになるお互いの顔を見ないように、巧みに目を逸らしあいながら。
「何したいのか分からない」
このことばに変化が生じたのは十五年ぐらい前のことだと思う。
どうしてそう言えるのかというと、当時、イギリスに半年ほど滞在して帰国したばかりだったから。
ちょうど「ツンデレ」がはやり出したころでもあった。
たった半年でも、ものごとはどんどん変わる。
特に話しことばやニュアンスはびっくりするほど変わる。
少なくとも何気ない会話にちょっとした支障を来すくらいには変わる。
だって本当にわからなかったもの。
「あいつ何したいの」
語尾にダブリューが三つぐらいつくやつ。わかりませんでした。今はわかります。わかったつもりでいます。
その変化形なのか同類なのか、
「ちょっと何いいたいかわかりませんね」
もあるが、こちらはわりと字のままだろう。ただし基本は揶揄や煽りを孕んでいると思うから真剣な顔で言われるとかなり手痛い。
日々、その痛い思いをしている「何いいたいかわからない」私です。
noteをまいにち投稿して一ヶ月目おめでとうの二日目です。おめでとう私。
何いってるのかわからないですよね。いいんです。今回は狙っています。今回は。
実はちょっと最近、これをリアルで食らってしまい、
「うわあ痛い痛い」
と泣きながら帰宅したことがある。
以前にも書いた『障害者就労移行支援事業所』(これ長いので何とか略称をつけられないか模索中)を、激論のすえ最終的に辞める決断をした時のこと。
「辞めます」と言った相手はその事業所所属の講師兼カウンセラーさんだった。彼女の答えは、
「私に言われても困る。自分でちゃんと納得のいく説明を所長にしてください」
という、一種の要求だった。
私はまだ登録を完了させていない体験者だったのでよく考えれば辞めるも辞めないも無いのだが、確かに一ヶ月お世話になったのだし最低限の礼儀は通しておこうと思い、彼女の後についてスタッフルームに移動した。
ドアから中へは入らず、すっかり帰り支度を整えた格好で、
「辞めます。お世話になりました。ありがとうございました」
と頭を下げただけで帰ろうとした。
「納得のいく説明を」と言われても、恐らく納得は得られないだろう、というか私が納得して辞めるのだから所長や職員さんたちが納得するかしないかは正直なところどうでも良かった。その程度には私はそこにいることに疲れきっていたし、もはや何の希望も期待も持っていなかった。
所長がためらいがちに「ともかく明日、改めて話し合いを」と言いさしたところに、
「はい!了解でっす!」
と、やたらと元気はつらつな声が被さった。
一瞬、全員がそちらを見た。
その声の発生源は電話中の職員さんだった。
何か打ち合わせでもしていて、その台詞の流れになったのだろう。
私は思わず笑ってしまった。
だってタイミングとして絶妙すぎやしないか。ドラマでなきゃこうはいかない。ドラマでだってわざとらしすぎる。
でもほんとうにたまたまなのだから、もう笑わずにいられないし、この状況で笑えるのはむしろありがたいくらいだ。
例の女性職員が我に返って私を見やり、唖然とした。
ついさっきまで頭を抱えて鼻水と涙を流していた人間が笑っているのだ。なまじカウンセラーを兼ねているだけに、ちょっとこのひと大丈夫かと心配したのかもしれない。
「何を笑ってるんですか」
「いえその、タイミングが良すぎて」
「電話ですよ?」
「知ってます。でも偶然もここまで来ると天啓って感じがしますよ。そういうこと、あるじゃないですか?おかげさまで清々しく辞められます」
そこで彼女はすっとまぶたを細め、私に背を向けた。
「ちょっと何いってるかわかりませんね」
そのままデスクに座り、パソコンを立ち上げ、カタカタとキーボードを叩きはじめる。
何らかの類のショックからようやく立ち直ったらしい所長と別の職員さんが、軽く咳払いをして話を戻そうとした。とにかく明日また、とか、今夜ゆっくり休んでよく考えて、とか、何かいろいろ言っていたが私はそれこそ聴く耳を持つことなど二度と無かった。
「ご挨拶できない職員の方々にもよろしくお伝えください。本当にお世話になりました。もうお伺いしません」
それだけひといきに言い終えて、エレベーターに向かった。
職員さんがひとり追いかけてきて、九十度の礼を取りつつ明日お話しましょう、お待ちしておりますから、お電話も差し上げますから、と繰り返していた。
しかし私はただのいち体験者であって取引先ではないしVIPでもない。慇懃にそんなことをされても困る。こういう困ることがあまりに多すぎるから、辞めるのだ。
「ご対応しません。失礼します」
短く言い置いて、エレベーターの開閉ボタンを押した。もちろん、閉まるほうに。ここでうっかり「開く」のほうを押していたら、それはまたそれで違った未来があったかもしれないね!私よくやるし!まぎらわしいよね、あれ!
と思いながらもまた泣いちゃってたんだよね。いや、ほんと、痛かったよねえ。あそこで「ちょっと何いってるかわかりませんね」って、めちゃくちゃ痛いのねえ。二時間ぐらいいろいろ話していて、「あ、もうダメだ。無理。辞める」と決めて「辞めます」って言ったら「そうやって逃げ続ける人生を送るんですね」と断言されたものだから「ああはい、辞めます」って答えたトドメが「ちょっと何いってるかわかりませんね」か。うん。あれは痛かった。痛すぎて電車の中でも泣いてました。笑えるようになるまで一週間ぐらいかかったっけね。
で、何を言いたかったんだっけ?
そんな私です。ごきげんよう。
昨日の記事を読んでくださったり、スキをくださったり、コメントをくださったり、お手紙の記事で励ましてくださったり、あの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の記事にスキをくださった方々、本当にありがとうございます。とびきりの笑顔でいます。と書くと嘘になりますが、ニヤニヤしているのは事実です。
あ、二千字の努力はキリが良いので十一月からかな。来月から本気だす。この言いまわしも、もう古いのかなあ。
何を言いたかったか思い出してきました。
そうそう、
「何したいのかわからない」
この話でしたね。盛大に話が逸れましたね。通常運行です。
「何したいのかわからない」
これってちゃんとした日本語なんだけどある時期から独特のニュアンスというか、含みのある表現になっちゃったので、その変化の時期を体験していなかった私はまさに「何いってるのかわからない」状況になっちゃったんです。
たぶん、「何したいのかわからない」は「何を考えているのか分からないし言っていることから推察もできない」ぐらいの意味あいだろうと思う。
実際にはそんなに深く想像するようなことでもなくて、「なんかもうとりあえず対応に困ってます」とか、何なら、
「いや分からないからもういいわ」
「面倒くさい」
ってことなんだろうなあ。日本語、むずかしい。
これ、普通に会話している時もうっかり使うと意図がずるっと滑っちゃうことがあって(ちなみに私のギャグはもっと勢いよく滑りまくります)たとえば友人からそこそこ深刻な相談を受けている時などに、
「可能か不可能かはともかく、あなたはどうなりたいの?」
と聞くと、
「どうしたいのかってこと?」
というふうに返されてしまう。
そのままにしておくと「あなたどうしたいのよ」みたいな、投げやりな対応と受け取られかねない。まあそれでも良いかって時と、それじゃ困るわという場合があるから、後者だったら、
「何か、これがこうなったらいいとか、ある?」
と妙に堅苦しく聞き直すことですれ違いを防ぐことにしている。
誰が最初に使いだしたのか知らないけれど「どうしたいのかわからない」はわりと高度な日本語だなというイメージ。
「ちょっと何いってるかわかりませんね」も同様で、使い方や場面しだいでスパイスにもなれば毒薬にもなる。
また、書きことばと話しことばでは印象もだいぶ変わってくる。
そういうことをいちいち考えていると会話はどんどんしんどくなる。
そして何を言いたいのかわからなくなってくる。
そう、今の私のように。またわかんなくなっちゃったよ!実況でもしてるのか、私!
ちょっと紅茶を飲んで落ち着いてきました。
えーと、まあ、言いたいことはたぶん、これでも一応は気をつけて書いたり話したりしているので、まわりくどくなりがちなんです。かな。
だから必要以上に長くなってしまう。必要な長さなら良いんです。必要なんだから。必要以上だからね。やれやれね。
なるべく正確に伝えるために余計な例を出したりもするから本題から遠ざかってるよね。ね。本当にね。もうね。困ったね。
これ、半分ぐらいで切り上げて、途中から「私がnoteを書くときに気をつけていること」みたいな話にしようとしたんだけど、もしかして今もう書いちゃった?
あ、それとですね。もうここまで来たらついでなんで、もうひとつ。
むかし読んだ赤川次郎の話で忘れられない表現がありましてね。
「それはあるペリカンのような朝の出来事であった」
すごい……全然わからない……ちょっとどころじゃない、まったくわからないです……。
当然ながら、赤川次郎が大まじめにこの一文を織り込んだわけではない。
確か、何かの都合で四人のサラリーマンが一人の名義でミステリ作家として活動していて、わりと売れてはいたけれど彼らはあまり満足していなかった。
何故ならそれぞれ誰もが単独で作家活動をしたかったから。
四人で合作をする時は大衆に売れるよう個性をつぶして編集指示に従わなければならない。
けっこう稼いだあたりで、もうやめよう、ということになり、最後の一作は自分たちをネタにしようと合意。
つまり「四章だてで、一章ずつそれぞれの持ち味のまま書いていくことで読者を混乱させ、オチで実は四人は別人でした、しかも実話ですで度肝を抜く」といった主旨。
その四人のなかにどういうわけか純文学派の中年がまざっていた。
常より周囲は誰しも愚民と見くだしているようなところのある彼は、ここぞとばかりに筆を迸らせるのである。
その最初の一文が「ペリカンのような朝」。
それを読んだ残りの三人の反応もさまざまで、
「いやあ……さすがだなあ。僕なら一生かかっても思いつかないよ」
とどこまで本気か彼を尊重する者、
「ペリカンみたいな朝ってどんな朝?」
とひとまず尋ねてみる者、
「ちょっと何いってるかわかりませんね」「何したいんですか」
と、既にほぼ見捨てている者。
なお私が想像するペリカンのような朝とは、何かこう昭和風の木製のベランダの上を何故かマンボウが横切っていきます。空は晴れ渡っています。マンボウには子どもが数人のっています。ペリカンどころか鳥類ですらない。なんでだろ。くじらぐもとかスイミーの影響か?まあでも、何か申し訳ないからせめてペリカンに脳内修正したいんだけどペリカンってどんなだっけ?ペリカン便って今もある?
で、何を言いたいんだったっけ。
ああ、そうです。
比喩表現もほどほどにねってことです。
もしかしてこの後、何かペリカン的な事件が起きて、改めて読み返すと「ああ……確かにペリカンのような朝だ」と心うたれるのかもしれないけれど、読み返してもらうには読み進めてもらわなければならない。しょっぱなからいきなり飛ばすのはあまりうまくないかもね。ていうか私のスマホさんてば飛ばすを都バスと変換するとは。今宵の記事はあたかも都バスのようだ。
ふだん私はエッセイ風の記事や小説を書いている。
その際に、比喩表現を使ったり、漢字をひらいたり、結構くせのある文体かも、と自分で案じている部分があるんだけど、さじ加減は本当に大事にしなくてはと自分によくよく言い聞かせています。
言い聞かせているけど成功しているとは言い難い。
そもそもですよ。
自分の本来の文体がわかってない。
書いてみると複数のノリというか調子で書けるけど、どれが自分のものかはよくわかってなかったんです。
だからこの一ヶ月はどの文体が自分に一番しっくりくるか、探る期間でもありました。
意識している手持ちの文体はとりあえず全部やってみたと思います。
やってないものだとガンダムのセリフだけで書くとかもあるにはあるけどそろそろ記憶力もお年を召してきたのでやめておきます。冷や水よくない。
三週間目あたりで、これが書いていて心地いいな、と何となく把握しました。
昨日と今日、そして手紙以外の、最近の記事がそれです。
もともと文章を書いてきた癖を引きずった文体です。
それについて今日は書こうと思ってたんだけど、もうここまで書いちゃったらねえ。
これからもそんな感じでよろしくお願いします、でいいんじゃないかな。
というわけで一ヶ月まいにち書きましたよ、の記事がこれなので、このひと普段もこんなんのかと思われそうだけど、内容はたいして変わらないのでその理解で大丈夫です。
でもね。本当はね。コメントでもお答えしたんだけどもたまには知的な横文字とか使ってみたいのよ!ローンチとか言ってみたい!キュレーションとかエクシアとかクリスタとか使ってみたい!大丈夫ですわざとです!それくらいカタカナの語彙を持っていないだけです。
私は実態のないことばを使うと自分がもやもやするので「トラウマ」あたりも使いません。だってこれで本当に苦しんでる人がいるのに、何かぼやっとしたイメージのまま扱いたくないもの。
そういう自分だけのルールで封印していることばはいくつかあります。近年、徐々に解放傾向に。小文字のダブリュー連打と「推し」の封印解除には手こずりました。
で、けっきょく何を言いたいのかよく分からないまま終わります。何文字だろう。わくわくするなあ。
しつこいけど最後にひとつ。
読まれたいなら読まれるような記事を書けばいいんだよなと考えてたら、
「まず『鬼滅の刃』を履修するところからか」
と最もいただけない方法に着地しそうになったので思考および思惑を停止します。
これからもどうぞよろしくお願い申しあげます。