合理主義の幻想
近年、合理化や効率化といった言葉をよく聞くようになり、そういったものを重要視する意見が増えてきたように思う。
論破王と言われるひろゆきこそまさに現代の‟合理主義”的考えの代表なのではないだろうか。最近では本やYouTube、様々な番組でひろゆきを目にすることも急激に増えた。暇人が学生の頃からひろゆきは有名ではあったが、まだアンダーグラウンドなイメージの人物だった。それが時代の考えの象徴のようになり、もてはやされ始めている現状に若干の驚きがある。
しかし今我々が向かっているその‟合理化社会”とはどんなものなのだろうか。‟合理的に”そのことへの疑問や危険性を投げかけていきたい。
まず合理化とはなんなのか、辞書で調べてみよう。
1 道理にかなうようにすること。また、もっともらしく理由づけをすること。
2 能率を上げるためにむだを省くこと。特に、企業などで、省力化・組織化によって能率を上げ、生産性を高めようとすること。
3 心理学で、たとえば言い訳のように、理由づけをして行為を正当化すること。
(―デジタル大辞泉より)
調べると、こういったことが出てくる。現在では2の意味で使われることが多いだろう。また、それに伴いここでも2の意味の場合での合理化について話していく。
合理性とは何か
合理性とは現状確立している理論や考えに基づいて意思や行動を決定していくことだろう。例えば今何かと話題になっているFAX問題がそうだ。「いちいち紙に印刷してそれをFAXに通して相手に送る、というのは手間だ。だからそんなことをせずにデータを直接メールで相手に送るようにしよう。」こういった考えを合理的と呼ぶ。
一見こういった合理化には批判の余地がなく、まさに正論、といった論理性を感じる。
だがそれは現状確立している理論が正しい場合に限る。
変わる常識
現状確立している理論、考えというのはいわば常識とも通ずるところがあるだろう。だがその常識とははたして永遠不変なものなのだろうか。
例えば常識と思われていた考えの一つに「卵は1日一個まで」といったものがあった。暇人が子供の頃は親から散々「1日1個まで!」と言われたもので、オムライスなどどうしても卵1個じゃ済まない料理を食べるときや、どうしても美味しくて2個目以上の卵を口にするときは健康を害さないかと酷く怯えていたものだ。
だがどうして、最近ではその理論が間違っていたというではないか。そのことに関しての詳細は各々調べていただけたらと思う。
とにかく現在では卵は1日個以上食べても良いと言われている。でははたして子供の頃感じていたあの罪悪感のようなものは一体何だったのだろうか。だったらもっと食べればよかったな、とふと思う。
科学や常識とされている理論は時として全くの逆に転ずることすらもある。今正しいとされている「卵は1日1個以上食べてもいい」といった理論も、もしかしたら数十年、いや、数年後にはまた「やっぱり卵は1日1個まで」となっているかもしれない。そういった変転は、世の中で往々として起こっている。
架空の理論
次はそもそもそんな理論はない、間違っている、といった場合について考える。いわば架空の理論と言ってもいいだろう。これは個々人での都合のいいように作られていく性質がある。
例えば最近「赤ちゃん言葉(母親語)を教えるのは非効率(ムダ)だから最初から大人の言葉を教えるようにしている」といった話をきいたことがある。まさに合理化といったことだ。(赤ちゃん言葉とは車をブーブーと呼ぶことなどである。)
だが、「赤ちゃん言葉はムダ」などというそんな理論は存在しない。
例えば生後2週間の赤ちゃんのは授乳の際の乳首を吸う動作を通して母親とコミュニケーションしていると言われており、生後4か月の赤ちゃんはクーイングという意味不明の音声を発しながら母親の発する言葉を模倣し始めている。
また、初語はどこの国でもm,p,bから始まると言われており、この音は乳首を吸う口の形と同じことから、この理論の裏付けとなっている。
つまり赤ちゃん言葉というのは幼児にとって最も自然であり、喋りやすい言葉なのだ。
そして赤ちゃん言葉を使った方がいいというのはアメリカの研究で既に結論が出ている。研究の結果では、赤ちゃん言葉を使った方が使わなかった場合より2.6倍の言葉を覚えるということが分かった。つまりは赤ちゃん言葉で育てられた方が早く、且つたくさんの言葉を覚えるということなのだ。
喋りやすい言葉は発しやすく、親や周りに「よく言えたね~」と褒められる。そういった成功体験を獲ることで学習意欲が増し、さらに言葉を発してみよう、といった気持ちになるのだ。
わざわざ難しい大人の言葉を使わせることによって間違いを指摘されるなどしたら、赤ちゃんの意欲は著しく低下する。
こういったことは後の自尊心や自己肯定感の獲得にも繋がってくる話だろう。
これらのことから考えると、本当に合理化、効率化を図るのならむしろ赤ちゃん言葉は使うべきなのだ。
少し話は逸れるが、もうひとつの例えとして面白い現象がある。
手元にお湯と水があって、早く氷を作りたい場合は、きっと誰でも水を冷凍庫に入れるだろう。しかし、これも間違いなのである。実は水とお湯ではお湯の方が早く凍るのだ。これは最近まで解明されていなかった謎であり、ムペンバ効果と言われている。
こういったように、勝手にそうした方がいいに決まってる、当たり前だと決めつけていることが実は間違っている、ということは珍しい話ではないのだ。
そもそも世の中わからないことだらけ
ここまでは時として理論は変わることがある、理論が間違っていることがある、といったことについて書いたが、そもそもすべての決定や行動において理論や科学に基づいて行えるなどという考え自体がおこがましいのだ。
例えば宇宙の謎は数%~十数%、進化論は10%程度、種の数に至っては1%程度しか解明されていないと言われている。
つまりは世界にはまだ解明されていないことの方が多いのだ。
こんなにわからないことだらけの世の中なのに、さもすべてを知ったような気になってやれ合理化だ、効率化だ、などと叫んでいるのが不思議でならない。
真の合理主義を目指して
確かに合理化については間違っていることはない。進めていった方がいいのも事実だ。だがそれはすべてにおいて当てはまるものではなく、物事には程度というものもある。
現在唱えられている‟合理主義”とは、人間にあるべき知的探求心、知的好奇心から目を背けているだけで、わからないことや間違っていること、考えないといけないことに目を瞑っているだけのように思えてならない。
また、現代では世界的に多様性社会を推し進めているが、現在言われている合理主義と多様性社会というのは全く反するもののように思えてしまう。
真の合理主義とは何なのか。合理主義を逃げの一手として使うのではなく、より良い社会に向けて使えるようになることを祈る。
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参考文献
「子どもの社会力」岩波新書(1999) 門脇厚司
https://benesse.jp/kosodate/201909/20190920-1.html(ベネッセ 教育情報サイト)
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