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高校一年生
90年代初頭、私は東京下町の偏差値の高くない高校へ単願入試を経て入学しました。
自分は勉強ができないということが受け入れがたくて、入学した女子校に通うことを恥じていました。
東京のはずれの賢くない学校。
自分が通うにはふさわしくないと思いたかったのです。
校舎建て替えのためのプレハブ校舎、先生の乱暴な口の利き方、レベルの低そうな教科書、楽しそうなクラスメイト達、何もかも気に入りませんでした。
特に先生達の、意見を押し付けるような、自分を大きく見せたいかのような態度には過敏に反発しました。
先生の体育会系な振る舞いを問題に思う仲間がいないことと、先生が虚勢を張って言うことごとに、「○○って頭いいよねー」と先生を褒め、共鳴する友人にがっかりし、どこか軽蔑していました。
バレーボール部とバスケットボール部が強い学校でした。
冬の体育の授業は来る日のも来る日も、50分丸々ランニングです。
体力が有り余っている、体が丈夫な運動部のクラスメイトは苦もなく走りタイムなど気にしていましたが、私は学校に行くだけでもへとへとです。
ぼろぼろでくたくたでした。
日々の疲労と、歪んだプライドの納め方を間違ったせいで、だんだん学校にも通えなくなりました。
目が覚めて、今日は登校しようとどうにか自分を励ました朝も、授業中に発展途上国に対して差別的な発言をするような日本史の担任から、「今日は登校できるか?準備してくるように。」と電話があれば、今日登校したらこいつが電話してきたからだと思われる、と登校を取りやめ、せっかく登校しようと頑張っていたのに邪魔しやがって、と逆恨みしていました。
数学の担当は質問しても、余計なことは考えずに覚えるように、という先生でしたが、私は自分の記憶力の枯渇を棚に上げて、薄っぺらい、表面的な程度の低い教師だ、とさげすんでいました。
しかし今思えばどれもこれも、15歳の少女には抱えきれない苦しみを訴えるサインであり、不器用な叫びであったと思えます。
大人になった私が過去に戻って当時の自分に会ったら言ってあげられる言葉がたくさんあります。
素直に聞くかどうかは分かりませんが、それらは当時誰も私に言ってあげられなかったものです。
翻って、30年後の自分が現在の私を思い返した時、伝えたい言葉は何だろうと考え考え生きています。
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