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日常がなくては学問は存在しない
気持ちの良い生活を送るには、(あ、暮らし系の文章ではないです、)大小さまざまな実験を繰り返すこと。最近は、そんな心持ちで物事にとりかかるようにしている。
いまは車を買ってみようかと思っている。買ってみてあまりにお金がかかるようなら、原付に買い替えればいいし。
『そして、星から動物まで森羅万象の出来事を考察した「万学の祖」であるアリストテレスも、庭の植物や動物の形態変化に魅せられて、そこから独自の哲学を形成したゲーテもそうであるように、あらゆる問いは、日常の些細な現象の観察から始まっている。その観察の担い手には、無関係なようでいて、あなた自身も含まれる。学問がなくても生活はできるが、日常がなければ学問は存在しない。』藤原辰史(共著)「自由の危機」
僕は何度か引越しをしている。その実験の結果、眺望がよくて風呂とバルコニーがあると最高だとわかった。
転職も繰り返した。デスクワークよりは身体を動かす仕事のほうが自分には適していると感じている。
で、学問とは何か?
せっかく入った大学は、3年目あたりから就職予備校と化してきたので辞めた。(親と友達には申し訳なかった😥)
ゼネコンで重宝される、優秀な社員になるために建築学科に入ったわけじゃない。建築物の素晴らしさ、豊かな空間のつくり方、デザインの社会的な意義、ものづくりの面白さを学びたかった。(だからそれらは独学で学ばざるを得なかった。)
設計課題はとても有意義だったが、プレゼンボードに立派なCG写真と完璧な図面を載せた、あまりにもつまらない作品が評価されるようになってからは興味を失い、せめてもの反抗として(集合住宅の設計課題で)壁に古紙を貼り付け、名作森山邸を縦横無尽に増殖させたような複雑怪奇なダンジョン(模型)を作り上げ、学生からは歓声を浴びたが教授陣からは黙殺された。
その次の共同設計では、3人でひとつの課題(今度は劇場)をつくることになり、はじめは大人しく話し合いをしていたがあまりにもストレスが溜まり、作品提出2週間前にゲリラ的に模型の屋根をダイナミックな高低差のあるものに替えてやった。すると意外にも賛同を得、その勢いで全ての壁開口をやり直し、結果、外側はド派手になったが中身は時間切れで空白のままだった。(共同設計者の友人が、立派なプレボをつくってくれたのは救い。)
そんな感じでした。
『それでも多くの仕事では、たとえば一年のうちに売り上げ目標を達成するといった特定の目的に逆らう発言の自由は実質上許されず、多くの人が大なり小なり自由を侵害されながら生きている。それゆえ、このような現実が際限なく人々の自由を蝕むことがないように、歯止めとして「学問の自由」を保障された職業があるというのである。その職業に就く彼ら彼女らは、いわば社会全体が享受できる自由の度合いを下支えするために、意見を発信し続ける役割を担っていることになる。』隠岐さや香(共著)「自由の危機」
これは、菅首相による学術会議6名任命拒否の問題にかんする文章。
学問ってなんだ?
学ぶことで、ひとは面倒臭くなる。
意思をもつ人間は、よく怒るから面倒臭い。
他人を批判したり、言うことを聞かなかったりもする。
だから、自分の頭で考えることをしない、従順な奴隷をつくろうとするんだよ。上の人たちは。
権威には逆らわない、長いものに巻かれる、現状に疑問を持たず追認する。「オリンピック、いろいろあったけどやって良かったよね!」
ねぇ?