ミオラ氏とイタリア軒
皆さん、こんにちは!
フラビオです!
今日はいよいよイタリア軒とその創業者であるピエトロ・ミオラ氏のことについてお話ししようかと思います!
新潟の開港
イタリア軒はイタリア人青年ピエトロ・ミオラ氏が150年前に誕生させた「新潟初の西洋料理店」です。
しかし、イタリア軒が誕生する最初のきっかけは、まさかの新潟開港です!新潟の開港がなければ、イタリア軒の創業者であるミオラ氏がおそらく新潟を訪れることなく、結果としてイタリア軒を創業することもなかっただろうからです。
ミオラ氏物語の始まり
ミオラ氏はイタリアの軍艦でコックとして勤めていたらしいです。イタリアの軍艦で経験を色々積んで、とても上手になったそうです!
ちなみに、船上のコックはとても腕が良いと言われているんですけど、なぜか分かりますか?船内のコック達はわずかな食材で毎日異なる料理を作らなければならないからです(ミオラ氏はまるでONEPIECEのサンジさんのようですね笑)。
イタリア軒の創業者物語で最もすごいことは、ミオラ氏の運命の強さだと個人的に思います。それはなぜかというと、ミオラ氏が経験したことのすべては、未来の出来事と絡み合い、その後の可能性を生み出していたからですね。その例の一つは、イタリアの軍艦に乗船していたことで、優れたコックになれただけでなく、数年後「スリエ曲馬団」(サーカス団)のコックとして働くことができ、1874年に新潟にやってくることにもなりました。
新潟に残ることから、最初の店を設立することまで
1874年にミオラ氏がサーカス団と一緒に新潟に着いて、そのすぐ後はサーカス団の公演が始まりました。新潟での公演も終わりを迎えようとするころ、ミオラ氏は足に大怪我を負いました。この事故により、ミオラ氏はしばらくの間休養を余儀なくされて、公演が終了となった時にサーカス団の団長は、動けなくなったミオラ氏のもとを去ることにしたそうです。
上述したように、ミオラ氏の物語ではすべての出来事がつながっています。実際、この怪我は新潟市での長期滞在を招き、その結果、ミオラ氏にとって非常に重要な人物となる父と娘である「権助」と「おせん」に会い、親身になって介抱してもらいました。
新潟に食の西洋化を図る為、当時の県令・楠本正隆がミオラ氏に開店資金200円を与えて「牛肉の小売と仕出屋」を開業させました。その目的は「食文化の西洋化」だったらしいです。しかし、新潟の市民たちが牛肉などに馴染みがなかったので、買ってくれるお客様がほとんどいなかったそうです。開店休業状態が続きましたが、当時の新潟の県令自らが牛肉を注文し、市民に牛肉を推奨し、店の発展に援助を惜しまなかったそうです。
そして、1875年にミオラ氏がいよいよ「牛鍋屋と牛乳の配達」としての店を始めて開店します。また、当時の医師だった「竹山屯」は、医学的視点から牛乳の栄養価を高く評価し、ミオラ氏の店の牛乳を病院の患者に飲ませることで店の繁盛に貢献したとも言われています。
そうしたら、1878年にやっと、ミオラ氏の店は場所と業態を変え、新潟初の西洋料理店を開店させました。
イタリア軒誕生
それ以来、ミオラ氏のビジネスは順調に進みましたが、1880年にはまったく予期できないことが起きました。店が火事で全焼してしまいました。この出来事によって、ミオラ氏は流石にすべてを捨ててイタリアに帰ろうと思っていましたが、この不幸さえも新しいことを始めるきっかけとなりました(やっぱり運命の強い人だなとしか考えられません!)。周囲の新潟の市民たちが彼のことを支援し、新しい店を開く手助けをしたのです。こうして翌年、ミオラ氏は3階建ての洋館に「西洋料理イタリヤ軒」をオープンさせました。この日、現在のホテル名が考案されました。
ある意味で、火事さえ起きなければ、イタリア軒が誕生しませんでしたね。
イタリア軒伝統料理
イタリア軒が誕生したら、今まで口伝えで受け継がれている「ミートソースパスタ」と「デミグラスソース」も登場することになりました。個人的な意見かもしれませんが、これもイタリア軒の大変良いところだと思います。創業時に登場していた料理を150年後、まだ提供しているレストランは極めて少ないと思います。食べた瞬間、その料理の歴史を味わうことができますので、とてもお勧めします!先週のNoteでこれについてもっと詳しく書きましたので、まだ読んでいない方はぜひ以下のリンクをクリックして読んでみてください〜
創業後は?
イタリア軒の設立で、ミオラ氏はナイフとフォークの使い方を紹介し、その時まで日本で食べられなかった料理も導入し、日本人の食文化を変えることができました。
1894年にイタリア軒が県内外の名士達の社交場になっていくうち、「日清戦争」が始まりました。その時に、イタリア軍艦が新潟に来港し、ミオラ氏が久しぶりに同胞に会い、不思議な気持ちになったそうです。これは、ミオラ氏が帰国を考えるきっかけの一つになったと言われています。
イタリア軍艦がイタリアに帰って、しばらくするとミオラ氏の元に従軍徴章が届きました。これはミオラ氏にとって良いことで、とても喜んでいたそうです。そして、1906年に、ミオラ氏はやっと故郷に帰ることにし、イタリア軒の営業を日本人に任せましたとのことです。
150周年経った今もなお、新潟初の本格西洋料理レストラン「イタリア軒」は、新潟市民に親しまれ変わらぬ味を守っています。
皆さん、いかがでしたでしょうか。
僕にとって、イタリア軒は歴史的な事業であり、とても興味深いと思います。特に、ミオラ氏は外国人なのに、日本にやってきて、日本人の食文化を変化させて、とても素敵だと思います。
皆さんの意見もお聞きしたいです!よろしければ、コメント欄で教えてください。
次回は、新潟のみなとまちについて書きたいと思いますので、それまでよろしくお願いします!
それじゃ、alla prossima!
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