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真夜中の屋上に風「さみしさ」の「さ」と「さ」の距離のままの僕たち|千葉聡【一首評】

数ある好きな短歌から、今日はこちらの短歌をいただきます。

真夜中の屋上に風「さみしさ」の「さ」と「さ」の距離のままの僕たち

引用:千葉聡「微熱体 (現代短歌クラシックス06) 」|書肆侃侃房(2021)

ほかの短歌鑑賞(一首評)は、こちらからどうぞ。


STEP1:ひとくち食べた印象やイメージ


千葉 聡さんの歌集を読むと、学生時代を思い出す。

最初に読んだ時はすごくお若い方なのかなと思ったが、1968年生まれの50代だ。

先輩だということに、ちょっと驚く。

そして歌集を読み進めると納得する。

歌集全体にほんのりとなつかしい青春の香りを感じるのは、千葉さんが中学校や高校で先生をしているから。立場は違えど、あの空間に今もいらっしゃるのだ。

大学の先生じゃ、きっとこうはならない。中学っぽいな、ちがうなら高校。

千葉さんご自身がたまに中高生に戻っているんじゃないかと思わせるほどリアルな色味。

不思議とセピアな…いや、セピアじゃないな。

アオハルというほどさわやかでもない。

黄色っぽい青、そう、浅葱色だ。

「真夜中」という単語が出てくるにもかかわらず、うすい浅葱色のセロファンを通したようなクリーミーな光を醸し出しているこの歌は、やっぱりちょっとほかとは違ってみえた。

風のせいもあるかもしれない。

***

わたしが通っていた中学校は、屋上にはかんたんに上がれなかった。

だから屋上という場所は、なんだかとても神聖で。

そう言えば、体育祭の応援団になった時、期間限定で屋上に上がるのが許されたことがある。

校庭はサッカー部だの、野球部だのが占領していて、しょうがなく応援団に屋上があてがわれたのだ。

屋上の風は心地よく、たった4階分上にのぼっただけなのに空が近かった。あの頃は未来が遠すぎて、希望だらけだったけど、同時にどこか孤独だった。

まだ、人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬことに実感がなかったのもある。

だからこそ他人とつながっていることがあたりまえだと思ってて、それがあのころ独特の「さみしさ」を作り出していた。

「さみしさ」に特に敏感だったあのころは、今よりもずっと屋上の空の近さがうれしかった。


STEP2:食べ続けて見えた情景や発見


わたしは解釈が割れる短歌が好きだ。

だからあえて、問いたい。

この短歌に出てくる「僕たち」とは、いったい誰を指しているのか。

最初にイメージしたのは、「僕」と「キミ」。

僕たち=「僕」と「キミ」

近づき方を知らないふたりは、屋上に忍び込んだ時の「さみしさ」の「さ」と「さ」の距離から1ミリも移動することなく、同じ距離を保ったままかえってゆく。

その距離、二文字。

縮めるのが難しいのには理由がある。

「僕」と「キミ」の双方が同じタイミングで縮めようとしないかぎり、その距離は縮まらないからだ。

「僕」は「さ」から「み」へ。
「キミ」は「さ」から「し」へ。

この距離は、僕だけが縮めようとしても縮まることはない。

***


もうひとつの解釈についても触れておきたい。

もしかしたら屋上に上がってきたのは、「僕」だけという可能性はないだろうか。

「僕たち」とは、「僕」と「もうひとりの僕」。

僕たち=「僕」と「もうひとりの僕」

どうしても「風」がすこしひっかかる。「キミ」とふたりだとしたら「風」はそんなに感じない。

距離が縮まらないとしたら(あくまで、近づき方を知らないふたりだとしたら)なおさら、そのさみしさはふたりをつつんでいるもの。

「風」の存在が、ちょっとだけいびつに感じる。

これが「僕」と「もうひとりの僕」だとしたら、日常からはじき出された孤独な「僕」は、屋上で思い悩んでいるわけだから、そりゃ心の中は風まみれだ。風がびゅーびゅーに吹いていてもおかしくない。

中学生のころって、未来の自分との距離がすごく遠くに見えたり、近くに見えたり。ずっと風が吹きあれていたような気がするし。

でも、ふたりの空間で「さ」から「み」へ移動しようと一所懸命に考えている時に、風を意識している余裕、あるかなぁ…?

考え始めると、「僕」と「キミ」なら「さみしさ」もちょっと不思議。

個人的にはふたりなら「さみしさ」より「せつなさ」な気がするけれど、もしかして近づけないのには「幼すぎる恋愛だから」という理由以外に、なにか別のもっと重要な理由があるのだろうか。

引っ越しちゃうとか、はたまた死んじゃうとか??

なんか、理由がある気がしてきた。笑

千葉さんはちょっと「さみしさ」にこだわりがありそうな歌人でもある。

夕凪の渚でしりとり「ささ」「さかさ」「さみしさ」なんて笑いとばせよ

引用:千葉聡「微熱体 (現代短歌クラシックス06) 」|書肆侃侃房(2021)

大人になってしまったわたしの心が受け止める「さみしさ」は、実はめちゃくちゃ切実で。なんだかちょっとどろどろしてたり、かみ砕けなくて飲みこまなくちゃいけないかたまりが混ざっていたりするけれど。

学生の「僕」の「さみしさ」は、ちょっと違ったような気もする。

ああ、わたし、学生時代の気持ち忘れちゃったのかな。
なんだかとても、大事な気持ちだったような。

学生たちを日々見ている千葉先生。

そりゃ40代独身女のわたしの「さみしさ」とは違う「さみしさ」をみているはずだ。

そこにある「さみしさ」には、どんな風が吹いているのだろうか。

まとめ:好きな理由・気になった点


・「さみしさ」に隠れた距離感をみごとに見える化(映像化)した表現方法
・「さ」と「さ」の距離という絶妙かつ共感性の高い言い回し
・「さみしさ」を感情として文章の中で使うのではなく、単語として、きりとって使う表現方法


とても好きな短歌のひとつです。

ごちそうさまでした。


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