「人生の目的」を見失わなければ大丈夫
世界中みんな
たとえその関わりがさ細なことであっても、
「自分の思いを変えさせられる」
というストレスで今日も悩む訳ですよ。
そんな「こと」が無くても、
潜在的に「そう」なので、
何となく楽しくないなんてことになっているかもしれません。
いわゆる、マンネリですね。
それくらい、
私たちは自分の思いに執着していると言えます。
そのストレスの対象は、
「人や、お金や物、仕事、地位や名誉、過去の失敗などなど」でしょう。
何としても引き剥がされたくない訳です。
例えれば、
紙に付いてしまったガムテープ状態で、
そこからガムテープを引き剥がそうとされるようなものかもしれません。
紙が「自分の思い」で、
ガムテープは「対象全て」で、
ガムテープののりが「執着心」という感じ。
無理に引き剥がせば、
のりの力で「自分の思い」が破れる訳です。
要は
「執着心」が無ければ良いのですよね。
実にシンプル。
でも
あるものをなくするって、言葉では簡単ですけど難しいものです。
よく考えてみると分かることがあります。
それは
錯覚しているから、執着するということ。
そもそも、人は「生かされて生きている」訳で、
自分は自分ではなく、「生かされて生きている自分」ですよね。
何に?
その「元」を感覚するには、自分の真心に問うのが良いかもしれません。
すると
「元」と「自分」とが一つになって
本意に叶う在り方が授かるものですよ。
「そうか!」って、覚醒する訳です。
「人生の目的」に繋がる感じ。
誰でも経験したことがあることですよね?
「たまたまだ」と流していて、忘れているだけのことです。
幸せに生きる大切なことなんですよ。
もし、自分が楽しくない思いになったと気付いたら、
「あれ、人生の目的を見失っているかも」って、立ち止まること。
この「真心への問いかけ」という切りかえを努力していると、
執着心で悩む生き方から
必ず
抜けられますよ。
人はもともと
パーフェクト リバティーな現れですから。
人生は芸術である、楽しかるべきである。
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