「理解する」ってセンスです
かわいい孫と
タブレット画面を通して関われるヒトトキが、
今の私には、
至福の時間かもしれません。
遠く離れて暮らしていても、こうやって繋がれるって
ありがたいことです、ほんと。
いつもいつもほとんどは
じーっと眺めているだけなのですけど、
いいもんですねぇ。(笑)
最近は、
会話が続くようになってきて、
その成長に驚くことも多くなってきました。
「人って成長するんだなぁ」
なんて、当たり前のことを
今更ながらにつぶやく訳です。
そして、
「もしかして天才かもしれない!?」
なんて、じじバカ?のようになっている私なのです。
世の中のじじは、みーんなそうなんじゃないですかね?
あ、ババも。(笑)
ここ最近気付いたことは、
「人って、自分という『存在』を理解するのって時間がかかるんだなぁ」
ということ。
そして、
「自分以外の人の『存在』を理解できるのはこれからの努力次第」
と、
改めて、学びました。
何からでも学べるって、ありがたいですよね。
理解する力。
言葉で書くと簡単ですけど、
現実では案外できていないかもしれませんよね。
自分自身の『存在』の理解。
そんな哲学的なことなんか考えたことも無いかもしれません。
もしかすると、「自分のこと」も理解できていないのですから、
それ以外の人の『存在』の理解なんて、
できるのでしょうか?
その証拠(?)に、
朝から晩まで不足不満が多いかもしれませんし、
自己肯定感が低いと悩む人が多いそうですし、
自殺者数は減りませんし、
人間関係での悩み、例えば、一番身近な夫婦や親子だって、
世界中、今も悩みは無くならないのですから。
要するに、
悩みになるくらい、お互いに「理解」ができないということなのでしょう。
自分以外の人の「気持ちや事情」などを
いつも、心から理解できるようになるには、
自分という『存在』の中に、自分以外のその人という『存在』が
当たり前に「含まれている」感覚が成長していかないと、
できません。(キッパリ)
できているつもりかもしれませんけど、
できていませんね。
だって、
理解しようって、
「ストレスをかかえておられる」のでしょうから、ね?
理解できたつもりでも、
その程度の関係という「現実」なのですから。
自分という『存在』の枠が「自分だけ」では、
目の前の人の『存在』はストレスになるのかもしれません。
どうすれば、「成長」できるのでしょうか。
感覚というかセンスというか、
方法を超えたセンスの問題なので、
これという方法は無い訳です。
ただひとつあるとすれば、
「理解できますよう」という謙虚な祈り心とその実践
という
「努力」あるのみ
です。
その努力無しでは、
体は大人でも
「理解力」というセンスはあまり成長しておらず、
自分の思い込みで生きることになっているのかもしれません。
残念ながらそのセンスでは、
いちいちストレスになり、
自分が楽しくないばかりか、
関わる人も楽しくなくなるのは当たり前の流れかもしれません。
孫と遊ぶ、同じ「サイズ」の子どもたちとの「世界」の映像を眺めていて
そんな哲学的なことを思った訳ですよ。
日々、理解するセンスを磨きたいです。
関わる「世界」が平和になりますように。
人生は芸術である、楽しかるべきである。
続きは教会で!