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銀河鉄道みたいな数学だった

その塾は、町に唯一走る単線電車の線路沿いにあった。

広々とした田んぼに囲まれた、三角屋根の一軒家。
先生は中年のおじさんばかりが4人。
塾長の数学が特にわかりやすいと評判の、ちいさな個人経営の塾だった。

中学1年の春、2歳年上の兄が通っていたその塾に私も通うことになり、入塾テストを受けに行った。

「お兄さんも頑固やけど、妹さんはもっと頑固ですね」

当時40代後半くらいだったと思う。初対面のきつね顔の塾長は、さわやかに笑ってそう言った。

先生の手元には、1時間前に私が受けたテストの解答用紙があった。数学の解き方で子供の性格までわかるらしい。私は紛れもなく、頑固な兄に輪をかけて頑固な妹だった。

面談は簡単な内容だった。兄の話のほうが多かった気もする。

「そしたら、月曜と木曜の7時に来てください」

帰り際にそう言われた。7時はAクラスの時間だった。出来のいい兄と同じ上のクラスに入れて、私はすごくホッとしていた。


週に2日のその数学の塾を、私はすぐに大好きになった。

先生の授業は評判に違わずわかりやすかった。

グラフも、図形も、連立方程式も、流れるような説明を聞くと、当たり前のことのように理解ができた。

いまでは信じられないけれど、私はこの塾に通っていた中学の3年間だけ、自分は数学が一番得意で、好きなのだと思い込んでいた。
それくらい明確に理解できていたのだ。

図形の問題なんかで先生が一本補助線を引く。その瞬間にもう、ピカーっと答えが見える。そんなのが楽しくって仕方なかった。

そんな気持ちでいたのは多分、私だけではなかったと思う。

そのうち自然に、授業の前には宿題の答え合わせを、あとには教え合いを、クラスメイト同士でするようになった。
まるで気になって仕方がない漫画の話でもするテンションで、ゲームの勝ち負けのように盛り上がりながら。

授業前の職員室も、楽しみのひとつだった。

授業前に顔を出すと、先に来ていた友人たちが先生たちとお喋りしている。
塾長がそこにまじるのは稀で、大体は、ふたりいた熱狂的な阪神ファンの先生たちと、野次半分にナイターの状況を見守っている。

親戚の理解あるおじさんとでも話すようなテンポのいい気楽な会話。笑いたいときに笑い、黙って聞いているのが許される緩さ。

それは学校とも家とも違う、ちょうどいい場所だった。
同級生や親子のように、余計なものが挟まっていない。ほどよい斜めの人間関係。

その小さな塾は、いつのまにか私のオアシスになっていった。

塾のクラス9人全員が同じ中学だったけれど、他のみんなも、どこか学校よりも寛いでいるように見えた。


先生の授業では、よく話が脱線した。

1時間半の授業のうち、集中して問題を解くのは最初と最後の30分くらいで、あいだの30分くらいは先生の雑談になるのが常だった。

当時は「お喋りな先生」だと思っていたけれど、今思えばそれも、中学生の集中力を一番うまく引き出す構成だったのだろう。

脱線の内容はさまざまだった。

政治家の不祥事の話、ディズニーランドなんて子供騙しだという話、先生自身の色盲の話(先生は赤が黒に見える人で、授業では白と黄のチョークしか使わなかった)。
先生が若かった頃、人に話しかけられない自分を変えるために、商店街の端から端までナンパして歩いた、みたいな話もあった。

何より、私たちの中学校の教育体制のまずさへの嘆きは、何度も繰り返し聞かされた。

確かにその中学では、学級崩壊が常態化していた。

定期テストまでに学習が終わらず、習っていない、あるいは無理矢理履修したことにした内容が、テスト範囲になるのが常だった。

これについて、先生たちは本気で怒っていた。
授業をまともに進めることのできない教師たちに。見て見ぬふりの教育委員会に。

それは義憤だった。
産業のない町で、勉強もせず、地元の受ければ受かる高校に入り、大人になっていこうとする、私達や町の将来を憂いていた。

きちんと教わればできるはずの子たちが、公立中学の質の悪さのせいで、隣の市の子供たちよりも知らず知らず、不利な人生を歩むことになるのが我慢ならないようだった。

先生の怒りにに気圧されるたびに、朧ながらに、しっかりしなきゃという気持ちになった。



いろいろな雑談にヒートアップした先生の言葉が切れて、やがて、教室がしずまる一瞬がくる。

「まあ、言ってもしょうがないんですけどね。
君らはちゃんとやりましょうね、っていうだけですね」

言い聞かせるようにため息をつき、一拍。
空気を入れ替えるように一気に声のトーンを上げて、

「そしたらそろそろ、行くぞー」

先生が後半の授業に戻る。
ばちん、と、そのとき私の中のスイッチも入る。

見慣れた問題集とノートに目を落とす。
先生が問題を読み、ポイントを拾い、黒板に書きながら一気に解いていく。
私はノートに写しながら解説をメモして、先生より早く答えを出すために必死になる。

「だから、答えは==」
答えに辿り着き、チョークの音がやんで、教室が静まり返る。

おもてを走る車の音や、30分に1本しかない電車の音が、一気に耳になだれ込んだ。
窓の外は真っ暗で、教室の中だけが煌々と明るい。
問題を解いた高揚で脈は速く、集中力が次の問題を急かしている。

夜の中に立ち止まったその一瞬、私はいつも、ものすごく遠くまできたような気がした。
もしも銀河を走る鉄道があるなら、それはきっとこんな感じだろうと、いつも思った。


中学2年の時、私たちのクラスに新しいメンバーが入ってきた。
お調子者でいじられキャラの男の子。先生の雑談中にも、臆することなく発言する子だった。

ある日の雑談中、その子が唐突に質問した。
「先生、僕がさ、今からチベンに行きたいって言ったら入れると思う?」

チベンというのは、智辯和歌山高校のことだ。野球が有名だけれど、そこは毎年東大に何人も受かる県内トップの進学校。当たり前に行けないのだと思っていたし、クラスでも誰もチベンに行きたいだなんて言わなかった。

先生は、ひと呼吸考えて言い切った。
「ちょっと頑張ってもらうことも多いと思うけど、いけると思いますよ」

クラスの全員が、息をのんだ。
私の胸も、大きく高鳴った。だってその子がいけると言うのなら、自分もいけるんじゃないかと思えたから。

先生はそのまま、どのくらいの成績の子が、どのくらいの勉強量で、どのくらいの高校に受かったのか、いくつも事例を話してくれた。
それは私たちが希望を持つには、充分な内容たちだった。

「まあだから、君たちも普通に頑張ればいけます」

その言葉に受けたインパクトを、どうすれば上手く伝えられるだろうか。

それまで私は、自分の将来にどんな光があり得るのか、全く見えていなかった。

両親は高卒で、工場の作業員と介護のパートをしていた。親戚にも、夜間大学以上を出た人はいなかった。

毎日洗濯物を取り入れて、晩御飯の支度をして、できていないと親から木っ端微塵に怒鳴られた。
勉強はそこそこできたけれど、できた先に何があるのか、両親も私もわかっていなかったし、それよりも日々の家事の方が大ごとだった。

私よりも成績は悪いはずの子たちが、日々のびのびと楽しそうにしているのを横目に、いったい彼女たちの何が羨ましいのか、どうして自分はこんなにも不安を感じているのか、苦しいのか、自分でもよくわかっていなかった。

精神が全体的に萎縮していて、四方八方、見えない壁に覆われていた。

開ければ光に満ちた扉があるとして、その扉のありかが、扉があるということすら分からなかったし、期待するのは恐ろしかった。

そして大なり小なり、塾には同じような子がたくさんいた。

成績は学年トップなのに、両親が高齢だからと私立の進学校を希望していない子もいたし、
学校ではリーダー格のしっかり者の顔をして、家では両親や家業のややこしい状態を黙って我慢している友人もいた。


先生は私たちの環境を、細かく知り、あるいは肌で感じている人だった。

教えるのが本当に上手な先生だったから、隣の大きな街で塾をすれば、もっとたくさんの生徒が、もっと高い月謝で集まったと思う。
たくさんの賢い子たちで、たくさんの進学実績でキラキラした塾ができていたと思う。

だけど先生はそちらを選ばなかった。
「いまでもたまに誘われる」というのを断りながら、小さな町で、他よりも安い月謝で、月謝が安いからこそ通える子供たちの将来を案じながら、教えてくれていた。

私たちが到底、連れて行ってもらえなかったディズニーランドに「ネズミーランド」なんて毒舌を吐きながら、その後の人生を大きく左右する時期に、「君たちはできます」と言い切って、頑張らせてくれた。


中学3年になり、夏休みになり、受験に追い込んだ夏期講習が始まる数日前、突然、先生が倒れたと連絡があった。
詳しいことはよくわからなかった。
事務の人から電話があって、一週間くらい夏期講習が延期になった。

久しぶりに塾に行った日、事務室で見た先生は、いつもと同じように見えた。

「すみませんね、夏期講習飛ばしちゃって」

先生はつとめて和やかにそう切り出した。

「たまーにね、あるんですよね、こう、ふら〜って気が遠くなってね、ありません?」

いつもと同じような剽軽さで。
周りの先生たちもちょっと茶化して、友人たちもやいやい笑って、なーんだ、ってその場が収まった、その瞬間、私は猛烈に心細くなった。

先生はきっと死ぬ前日でもこんなふうに言うんだと思った。

結局本当に先生が大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか、全然わからなかったし、それを教えてもらえる距離じゃないことだけがわかっていた。

無理をしないで欲しかったし、だけど先生が倒れてこの塾がなくなったらと思うと、蜘蛛の糸が切れるような心細さをひゅんと感じた。その時だった。

ぽん、と、温かな手が私の頭上をさっとなでた。
なでたというのも違うくらい、ぽんと置いて、すぐに除かれた。

びっくりして振り返ると、きつね顔の塾長が、少しだけ困ったように、でもいつものようにニコニコしていた。
絶対にそんなことをしないような塾長の、一瞬だけあふれでた優しさに、私は思わず2粒ほど泣いた。へらへら笑いながら、ごまかしながら、授業が始まる教室に戻った。


結局そのあと夏期講習は予定通りに進み、普段の授業も、冬期講習も何事もなく進んだ。
気づけば私たちはみんな、それぞれの志望校に合格していた。
通学の遠いチベンには結局誰も行かなかったけれど、チベンに並ぶ進学校か、公立のトップ校、クラスの全員がどちらかの進路を獲得していた。

3月の終わり、最後の授業も淡々と進み、先生は教団の上でテキストをトンと揃えて、
「そしたら皆さん、お元気で」
先生らしいような、少しそっけないくらいの言葉で授業を終えた。




塾を卒業した後、何度も何度も帰りたくなった。

高校の数学がわからなかったとき、大学受験にくじけそうになったとき。
大学に合格した時、希望の出版社に就職したとき、初めてベストセラーを担当したとき。
母の病気で帰省していたとき、結婚したとき、出産して、心底いまが幸せだと思ったとき。

特に幸せだと感じるときに、たびたび先生たちを思い出した。

この今の幸せを手に入れることができたのは、あの塾のおかげだと、先生の、あなたのおかげだと、いつも思った。

先生たちにとっては、続けていくことのしんどい塾だったのかもしれない。
結婚していたのは塾長だけだったし、途中で先生が一人辞め、事務の人もいなくなった。
経営的にも豊かではない状態だろうと、みんな薄々は知っていた。(というか、先生も自分で経営が向いていないと言っていた。)

それでも、先生たちが人生を張って生徒たちを受け止め続けてくれたおかげで今の自分があるのだと、事あるごとに感謝していた。
伝えたいと、顔を出してみようかと、何度も思っては、後回しにしてきた。



先日、たまにしていたようにGooglemapでその塾を見ようとすると、塾名の後に「閉校」の二文字がついていた。

愕然とした。

冷静になれば、それは当たり前のことだった。
私が通っていた頃からもう二十年だ。先生たちも二十年ぶん年を取ったら、もう閉校もするだろう。

それでも私は諦めがつかなかった。Googlemapの黄色い人間をストリートビューの道路に飛ばして、何度も塾の前をうろうろした。

なんとか塾の中が覗けないか、人影が見られないかと、1クリック分を往復し、地面を3Dにして、斜めに揺らしてみたりした。

塾の中には、なんの人影もみえなかった。

見えていたのはただ、相変わらずの単線の線路。田んぼ。建物の真裏に茂った青々とした竹藪。

そこはきっと、いまも夜になると真っ暗なのだろう。
電車や車の音が、静寂にそっと響くだろう。


私はもういろいろなことに胸がいっぱいでなんにも云えず、最後には、過ぎてしまった「閉校」の文字を、ただ眺めた。






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黒木郁
私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。