バーナム博物館
スティーブン・ミルハウザーの第2短編集である『バーナム博物館』は作者独特の精緻な文章で綴られ、現実離れした幻想的な雰囲気を醸し出している。ただ、少々ペダンティックな香りがあり、深みを感じるとは言い難いところがある。それでも私には魅力的な短編である。
一般的に、短編はその短さ故に冗長な部分が少なく、作者の意図が巧妙に仕組まれていると言われる。ある人はその意図をハッとするほど強烈なものとしてうけとるだろう。またある人はそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。文学はメタファーだから読む者がどこで何をつかむかは一様でない。
『バーナム博物館』に次のように描写がある。
ある人々にとっては、博物館に足を踏み入れるときこそがもっとも悦ばしい瞬間である ー 悦ばしい世界へひと思いに飛び込み、はるか向こうの出入口が招く声を聞くときこそが。またある人々にとっては、徐々に道に迷ってしまうこと、ホールからホールへとさまようなかで、もう元には戻れないのだという思いに捉えられることこそが最高の快楽である。 (・・・中略・・・)そしてまたある人々にとっては、外に出る瞬間こそがもっとも胸ときめく一瞬である ー ぱっと開くドア、まぶしい陽の光、目もくらむようなショー・ウィンドウ、それらを前に、人は階段の上でしばし呆然と立ちつくすのである。
『バーナム博物館』スティーブン・ミルハウザー 柴田元幸訳 (福武書店)
文字通り入り口と出口であり、メタファーである。私には生と死に思われる。
高村薫の長編『土の記』では、人が登場して人の死で終わる。その死は風と共に自然に還る死であり、悲しみの次元に漂うものではない。死が存在するから(おかしな言い方だが)、物語の展開や意識の流れが完結する。なぜなら、死からみつめることによってのみ、生の諸相が浮上してくるからである。
死は完結の象徴となり、想起が生まれる。読んだ者は完結後を引き受け、言葉にならないものの存在を自己の内面に見いだす。見いだしたものとどう対峙するかは、その人次第である。感得できれば幸いであり、霧散してしまえばそれまでである。
言葉は不思議である。