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ペルシア史解説① [先史~エラム史]

ペルシアという悠久の歴史をもった地域は、イランという国号を名称付けられた以降において、国民国家として統合してからの期間はほんの100年程と浅いように伺える。しかし、かの地域は我々人類が文明を開拓する基盤となり、やがてはオリエント(ヨーロッパからみて日が昇る所)を統一し
世界初の大帝国を築く国家へと発展していくのである。




イラン高原≒イランの領域


イラン高原とその隣接地域はアジア・ヨーロッパに
通ずる交流地域として歴史の始まり以前から
様々な集団が通過しており
その中でも牧畜を生業とする諸集団は
紀元前二千年紀の終わりから紀元前一千年紀に
移動を開始し始め、彼らは自らを「アーリア人」と称した。
この集団の一部はイラン高原に定住し、以後
彼らの民族名称がこの地域にあてられたのだ。
現在我々がこの国にあてられる名称としての
「イラン」という言葉はアーリア人の諸集団の名称からなぞられているというのがパフレヴィー朝以後の公式見解となっている。
ではアーリア人が来るまではどうしていたのだろうか?

イラン高原における集住・原始時代

イラン高原における原始時代の文献はさほど残っていない。
旧石器時代については表面採集によるものであり
評価が固まってる訳では無いと報告されている。
しかし、中期については少量程の調査報告が残っている。
ここからは集住初期中期〜エラム王国末期までの
通史を語っていこうと思う。

中期時代

べヒストゥーン洞窟では*ムスティエ文化の石器と人骨が報告されている。

*ムスティエ文化とはフランス、ドルドーニュ地方で発掘された出土品を元に定義された中期石器時代の代表的石器文化です。20-4万年頃にかけて
ヨーロッパから東部シベリア、西アジアに分布している。                                   [J.Cauvin 他]

動物相は現代とさほど変わらなかったとされています。特徴としてはガゼルやヤギなどが挙げられる。

後期時代

ザグロス山脈の洞窟遺跡からの発掘報告によれば
類オーニャック文化.*類ザルジ文化などが報告されている。

*ザルジ文化とはイラク、ザクロス山系に展開した
旧石器時代文化。D・ギャロッドが1928年に発掘した
ザルジ遺跡B層出土品をもとに定義された。
1960年に発掘されたイラン.ワルワシ洞窟出土品の再分析によって
細分されることが判明した。
前半では骨付き細石器や裁断細石器が
主体であるが、末期には半月形細石器が一般化する。
それぞれが文化として枝分かれして
レヴァント地方の・ケバラ文化
・幾何学ケバラ文化
・ナトゥーフ文化に対応する

エラム人の出現

そもそもエラム人とは?

イラン高原の先住民族であり
文献の数が少ないため、詳細は不明だが出土品から活動開始は前4000年頃

原エラム期

文献や遺跡資料が乏しいため、特筆すべきところはあまりない。エラム人自体民族系統も不明で言語も未だに解読されてない部分が多くある。
加えて、色んな民族の支配下に置かれ、独自の文化体系を築いてもすぐ消えるため語る要素が極端に少ないのだ。
とはいえ、さすがに「はい解散」と〆る訳にはいかないだろう。
ザクロス山脈周辺ではレヴァントに1000年遅れて農耕村落が広がりを見せており、南ではタレ・ムシュキ・ジャリ、中央ではテペ・シアルク
テペ・ザゲー、東北のタペ・サンゲ・チャハマックが発展の一例として挙げられる。

また、メソポタミアとの都市文化とも交わり始め
イラン高原は交易ネットワークの一部として組み込まれてはじめいた頃に
ようやく文献上に姿を現すのが
エラム人のグループである。
彼らがフーゼスターンやザクロス山脈などで貿易の窓口として機能していた事がスーサの調査で明らかにされており、他のオリエント国に劣らない規模で発展を続けていた。

一般には出土品の年代で
スーサⅠ期 (BC4000-3500)
スーサⅡ期 (BC3500-3000)
スーサⅢ期 (BC3000-2700)
と時代区分されるが、細かい内容は不明瞭な
部分も多々あり、一応語るとすれば
スーサⅡ期の時代には文化面でウルクの文化面が
色濃く反映されており、交易面では
この地方がウルクの実質支配圏に置かれていた事が読み解ける。

スーサⅢ期ではウルクの支配から脱して
土着民族との交易に専念するようになり
独自の文化圏を形成していった。
この時代の文化を原エラム文化と呼び
文字もウルクの絵文字とは異なる物が発明され
原エラム文字の粘土板は現在、イラン高原一帯で出土している。

古エラム王国

(紀元前2700~前1500年)にかけては
古エラムと呼び
スーサに次々と王権が築かれたのである。
一つことわっておきたいのは
エラム王国は統一された1つの地方を拠点にしていた訳ではなく、複数の都市が複数の時代で王朝を形成した王国であり、特に北部を中心にする
スーサと南部を中心にするアンシャンの二大勢力が凌ぎあっているのが特徴である。

超ざっくりしたエラム人の都市と領域

この時代にはアワン王朝シマシュキ王朝
スッカルマ王朝が挙げられるが、交易面でしか
登場しない存在感が薄い王朝である。また
互いに消耗を促している間に、他民族の侵略を
受けて、度々支配下に組み込まれていく。

前24世紀では領域の一部をアッカド人
サルゴン大王に支配されるが
サルゴン大王死後に一時的には独立を果たす。
前21世紀にシュメール
ウル第3王朝に支配され、前2000年頃に
また独立する。

前1764年にはバビロンのハンムラビ王との戦いで
大敗を期しており、ハンムラビ死後に勢力を
盛り返しを見せる。

中期エラム王国

(前1500~前1000年)にかけては
中王国時代とされ
主な王朝は、イゲ・ハルキ朝
シュトルク王朝などが盛り返しを果たし
栄華を誇る。

今回も毎度の事ながら
メソポタミアに挑むが
肝心のバビロニアがヒッタイトによって
滅亡し、しばらくしてザクロス山脈から
移動してきた
遊牧民のカッシート族に支配される。

しかし、前13世紀後半にエラムはイゲ・ハルキ朝の元で勢力を回復し
王朝創設者のイゲ・ハルキが
前1320年頃にバビロニア人支配に対する
反乱に成功させ、イゲ・ハルキの後継者達は
カッシートとの政略結婚により
同盟関係へと誘導し
国家基盤を整えていく。

第5代王のウンタシュ・ナピリシャ王によって
様々な改革がなされていき、その一環で
新都のチョガー・ザンビールが設立され
現在では世界遺産に登録されている。

聖都「チョガ・ザンビール」
ペルシャ語で「龍の丘」となる

ウンタシュ・ナピリシャ王の治世の下で
南北が統一された以降は
王権が前1200年頃にシュトルク王朝に移り
シュトルクナフンテ王とその後継者の時代に
エラム王国は絶頂期に達したのである。

前1168年、シュトルクナフンテはバビロニアに侵攻し
首都のバビロンを征服、略奪を行った。
略奪品にはハンムラビ法典も含まれていた。

また、前1154年にクドゥル・ナフンテ王の治世に
エラム軍は再びバビロニアに侵攻し、カッシート
最後の王 エンリル・ナディン・アヒを廃位させ
カッシート王朝を滅亡させることに成功する。
その際にバビロンの主神マルドゥクの像を
戦利品として兵が持ち買ったのである。

しかし、このような功績があるにも関わらず
以降の治世では
「驕れるもの久しがらず」となり
前12世紀近くには、バビロニアの
ネブカドネザル1世が
スーサを征服し、略奪された品々を奪還されてしまう。

エラム新王国時代

(前8世紀頃)
一言で言うと、エラム文明の末期である。
前720年頃には文化復興の兆しを見せていたが
アッシリアとバビロニアの抗争に巻き込まれ
前7世紀半ばにアッシリアのアッシュルバニパル王に攻め込まれ
実質、属国化してしまう。


前6世紀に入ると新バビロニアの
ネブカドネザル2世による圧力を
大いに受け、弱体化が加速していき
やがてはアーリア民族、主にペルシア人に
支配され、前8世紀以降は自立とは程遠い
宙ぶらりんな立ち位置に追いやられたのである。

最後に

エラム人の宗教観

エラム人は独特の宗教観を築いていた。
多神教文化であり、エラム文書でエラム人の宗教観が色濃く現れている。
エラム人は自らの土地を(ハル・タム・ティ)と呼び
これは「太陽の大地」を意味する。

しかし、これは単にオリエントのような
安直な地域名称ではなく、彼らにとって太陽
というものが、神と崇められていたことを理由に
ペルシア語で検索をかけると
「神の土地」となる。
彼らの宗教では都市にそれぞれ神がおり
自然崇拝的な側面が多く現れている。

シャーテンと呼ばれる司祭が儀式を取り仕切り
祈りや礼拝、生贄を捧げる際はいつでも
最前列に位置していた。
例として挙がる神殿の1つが
チョガー・ザンビールであり

・大地神フンバン (フンババ)
・フンバンの伴侶キリリシャ(ピニキル)
・インシュシナク

の三位一体理論が中王国時には定義されていた。
スーサの神はインシュシナクと呼ばれる太陽神であり、対になる神が
アンシャンの主神ナピリシャである。
このような宗教観を読み解いた上で
太陽の大地=神の大地として
位置づけが可能であり、エラム文化に根付いた太陽崇拝がペルシアでは火炎崇拝に変容して、火が人々の信仰の対象として啓蒙と道徳的浄化の象徴となっていったのではないかと考えられる。


あとがきと参考文献


  • 東洋書林 古代オリエント辞典

  • 朝日新聞社編 世界史を読む辞典

  • 青木健 ペルシア帝国

  • 八尾師誠 世界の教科書シリーズ イランの歴史

  • 東洋書林 世界の碑文

  • 阿部拓児 アケメネス朝ペルシア帝国

あとがき
参考文献収集がとても大変で
勉強と並列がかなり難しいです。
とくに古代史は奥が深すぎますね
中世のまとめの方が気が楽かもしれないです。
次回はメディア人関連のnoteを書きます。多分
指摘や訂正などして頂けると助かります。
イラン文化を理解するきっかけを作りたいですが
古代史って人を選びますから
中世から近代をまとめる時期になれば、本国から資料を用意して
本格的な解説をやろうと思います。
文化、政治、宗教、民族、歴史に区分して
いずれかは企業系が真似出来ない解説チャンネルを作りたいです。
Xアカウント→https://x.com/Gayboy__Yamada

#世界史がすき

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