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#461 大学は一度分解し、再構築される

 先日、知り合いの息子さんが大学に無事合格したという話をコラムの中でしました。正直に言うと、合格した大学(学部)は彼の第一志望ではありません。浪人するかどうかの相談を受け、色々と話をしました。

 彼に一番伝えたかったことは、どの大学に行こうとも、その中で自分が何を学ぶかが大事だということ。これは大学に通ったことがある人なら賛同していただけることだと思いますが、大学は中高と比較すれば、その自由は計り知れない。大学には中高のような校則(拘束)はないに等しく、学業に限らず、(経済的側面を除いては)自分がしたいいかなる体験も自分の意思があればすることができます。

 そんな話をしながら、ふと大学教育について考えてみます。思えば大学というのは日本の社会の中で異質な存在。「大学生」という記号がつくだけで、服装や髪型は圧倒的に自由になり、授業をサボってもよい(本当はよくないけど)。責任という名の下に、様々な自由を手に入れることができる。

 今の日本の社会は決してそんなに自由ではなく、中高からの延長線上の雰囲気がある。ともすれば、大学は日本の価値観とは、また別のどこかエアポケット感があります。

 大学は高等教育機関であり、本来自分の「学び」を深めたい人のためにある。一方、現実問題として、今の大学は、多くの学生にとって就職予備問の側面が非常に強い。大学で何を学んだのかということよりも、どの大学に入ったのかという記号的価値が優先されているような気がします。大学に入ることで、将来を約束される時代は、徐々に終焉を迎えつつあり、それは、大学に入る価値を再定義することにも繋がります。

 私の以前の職場には日本の最難関の国公立大学の理系学部を卒業した同僚も数多くいましたが、彼らに共通する大学のイメージは「研究機関」であるということ。大学教授は何も教えず、自分で考えて動くことだと。で、それはとても大切な観点だとは思うのですが、ただ教授側に学生の力を鍛える意思がないのはちょっと困る。逆に、中高では言われたことをやる価値観が蔓延している結果、大学での「自由」を学生は扱いきれず、何を学んだのかがあまり分からないまま卒業していくのです。

『日本人はなぜ勉強しなくなるのか?「世界最高の子供」が「低レベルの大人」になるワケ』という記事では、小中の学力レベルでは世界トップクラスである日本が、大学教育の通過することでその学力が低下していると指摘し、大学教育のあり方を批判しています。

 ちょっとまとまりがなくなってしまいましたが、大学という高等教育機関が果たすべき「教育的」な側面の欠如と、そして中高と大学で求められるもののギャップが「大学」というものの機能の価値を低下させているのではないかと。

 私たちは何を求め大学に行き、そしてどのような成長を経て卒業し、社会に出ていくのか。

 学歴社会が少しずつ崩れつつある今、大学名という記号だけではない、学びの価値が求められていくでしょう。

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