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#215 痛みがあるからこそ人は誰かに優しくなれるが、痛みは時に他者への攻撃衝動を生み出す

人が変化を求める時、そこには何かしらの「負のエネルギー」が存在します。

人種差別の是正、アパルトヘイトの撤廃、女性の社会進出、LGBTQへの理解などを懸命に推し進めた人たちは、彼らが「社会」に受け入れられない「怒り」と向き合い、より良い社会を目指して戦ってきたと言えます。

一方、「怒り」のエネルギーは制御することが難しい。「社会をよくするため」という大義を隠れみのにして、他者への攻撃衝動を正当化することもまたあるのでしょう。

怒りを持つ人が、その怒りを消化し、それを自分のためではなく、同じ苦しみを持つ誰かのために活動できることでより良い社会が生まれるのではないかと個人的には考えています。

先日、元不登校で定時制高校を経て夜間高校の教師となり、文部科学省に入省、キャリア官僚となった藤井健人さんの記事を見つけました。

「ほとんどの人は全日制を卒業します。社会って、学校のあり方も教育のあり方も全日制を基準にまわっていて、教育行政を考える学者も文科省も、全日制に通っていた自身の経験をベースに考えてしまいがちです。だから当然、そっちの方向へしか物事は動かない。“それが当たり前ではない”と教育行政の中で発信できる人間は、誰一人いないようにみえた」

と語る藤井さんの社会をより良くしたい気持ちと同時に

東大大学院時代の藤井さんの先輩である宮口さんの

「彼には“正統性”への強い憧れやこだわりがあります。社会のメインストリームに行くとか、影響力のあるポジションに行くということに強いこだわりがあるんです。
 東大の院を卒業するとき彼が僕に言ったのは、“宮口さん、東大生という肩書を捨てるのはつらいです。何かを語るとき、一教員という肩書になっちゃいますから”と。半分冗談、半分本気といった感じでしたけれども(笑)」

というコメントも記事の中では紹介されていました。

彼は自身の経歴から、同じ境遇にあった人を救いたいという意思と同時に、社会におけるメインストリーム(主流)に乗り切れなかった自分の欲求を満たしたいという気持ちも同時に持ち合わせているように私には感じられました。

前述したように、自分自身の負の体験は、より良い世界を創造するための大きな力になります。自分自身が体験してきた「痛み」は、誰かに優しくあるための大きな要素だと言えるでしょう。

一方、私たちはどこかで「自分自身が社会に受け入れられたい」という気持ちを持つもの。自分に足りない部分を求めていった結果、自分がこうあるべきではないと思う存在に自分がなってしまうようなこともあるのです。ミイラ取りがミイラになるようなものですね。

今、一人ひとりの多様性が叫ばれてる中、学校現場は未だその価値観に追いついていないように思います。

不登校や自殺する児童・生徒も年々増加しています。

学校現場が、多様な子どもたちの「存在」を受け入れられる体制は未だ整っていません。だからこそ、同じような痛みを体験している藤井さんの活動は、そんな学校を変える上で価値あるものだと思います。しかしながら、自分の痛みを消化するための活動になってしまえば、彼の想像する世界は決して実現しないのではないかとも思います。

これまで藤井さんがさんざん感じていた現実。だが官僚となり、教育行政を動かす立場になった以上、成果がなければ自分が感じていた憤りは、これからは自分自身に向けられるものとなる。キャリア官僚への転身は、自ら背水の陣を敷いたともいえる。
 藤井さんが、自分自身に言い聞かせるかのように言う。
「自分が感じてきた教育への批判や憤りを、自分自身で受け止められるか─。
 そう自問しながら、働いていこうと思っています」

という内容で記事は締めくくられています。

私自身も、自分の人生の中において、嫉妬・怒り・悲しみ・不安・否定などの様々な負の体験をし、それによって生まれた「怒り」をコントロールできなかった時期があります。

自分が今の活動をするに当たって、自分の怒りと向き合い、その怒りを自分の中で時間をかけて処理することを大切に思っています。

いつか私と藤井さんに何かしらの接点が生まれ、今の教育現場をより良きものにできる機会が生まれることを望んでいます。


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