名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第7回:『伝説巨神イデオン』
はじめに
『伝説巨神イデオン』(1980~1981年、以下『イデオン』と略記)および『THE IDEON 接触篇/発動篇』(1982年、以下『接触篇/発動篇』と略記)は、富野由悠季が『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)に続けて手掛けた衝撃作であり、放送および劇場公開から40年以上が経過したいまもカルト的人気を誇っている。
アニメスタイル編集長の小黒祐一郎はコラム「アニメ様365日」のなかで、「彼〔注:富野由悠季〕の作家性がもっとも色濃く出た作品は『伝説巨神イデオン』か、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のどちらかだろうと思う」と述べており(第64回)、完結編にあたるアニメ映画『発動篇』に対しては「今までの人生で、最も衝撃を受けた劇場アニメ」、「ドラマも、演出も、映像も、神がかったところのある作品」という評価を下し、「初見時には、劇場で背筋が凍った」と述懐している(第100回)。
評論家の宇野常寛も『母性のディストピア』(集英社、2017年;ハヤカワ文庫、2019年)において、『イデオン』を「戦後アニメーション最大の問題作」とまで呼んでいる(文庫版第I巻、329頁)。ただし、宇野は「富野由悠季は私にとって個人的にもっとも重要な作家である。かつて富野監督から受け取ったものを批評というかたちで返すことは、私の生涯の目標のひとつだ」と語るほどの「富野ファン」であるから(文庫版第II巻、350頁)、先述の大仰な物言いは割り引いて聞く必要がある。なお、宇野は『母性のディストピア』を二分冊で文庫化するにあたって、第一分冊に「接触篇」、第二分冊に「発動篇」という副題を追加している。これらの副題が『接触篇/発動篇』から取られたことは一目瞭然であり、副題の選択からも同作に対する宇野の強い思い入れが窺われる。
いま、私はやや極端な二例を挙げたにすぎないが、それでも『イデオン』がいわゆる「リアルタイム世代」を問わず特別視されていること、そしてその評価が概して『発動篇』の双絶なるインパクトに起因していることは明白に見て取れる。たしかに、『発動篇』は比類なき強度を備えた怪作であり、視聴者を威圧し徹底的に打擲しようとする気迫に満ちている。しかしながら、この完結編に先立ってTV放送され、シリーズ全体の約9割を占める『イデオン』を虚心坦懐に見たとき、見えてくるのが地球人とバッフ・クランという二つの種族間でだらだらと続く転戦の経過であることは無視できない。私はむしろ、戦争をいわば「散文的」に描くことによって、人々を戦争に駆り立てる「恐怖」という情念をえぐり出した作劇こそ、『イデオン』の特質なのではないかと考えている。以下では、「恐怖」という情念を切り口として、『イデオン』および『発動篇』に対する所感を述べることにする。
「恐怖」という情念をめぐって
古代ギリシャの歴史家トゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争の顚末を綴った『歴史』において、人々を戦争へ駆り立てる「恐怖」という情念を冷徹に見つめていた。トゥーキュディデースは第1巻第23章(Thuc. 1.23.6)において、「あえて筆者の考を述べると、アテーナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモーン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモーン人は開戦にふみきったのである」と述べている(トゥーキュディデース(久保正彰訳)『戦史(上)』岩波文庫、1966年、77頁)。また、第1巻第88章(Thuc. 1.88)においても、「ラケダイモーン人が和約は破られたと認め戦争開始を決議した理由は、同盟諸国の説得に動かされたことにも多少はよるにせよ、主たる理由はアテーナイがすでにひろくギリシア各地を支配下にしたがえているのを見て、それ以上のかれらの勢力拡大を恐れたことにある」という見解を示している(同書135-136頁)。ここでギリシャ語の原文を確認すると、第1巻第23章で「恐怖を」と訳されているのはφόβον (phobon)、第1巻第88章で「恐れた」と訳されているのはφοβούμενοι (phoboumenoi) という単語であり、いずれも「恐怖」や「怖れ」と訳されるφόβος (phobos) という単語に結びついている(*)。この単語はギリシャ語の語彙において、独特のニュアンスを帯びている。
トゥーキュディデースの校訂・対訳も行った古典学者のJacqueline de Romillyは、1956年に発表した論文において、トゥーキュディデースが著作のなかで「懸念/懸念する」を意味するδέος/δείδειν (deos/deidein) と「恐怖/怖れる」を意味するφόβος/φοβεῖν (phobos/phobein) を精密に使い分けていることを明らかにした。De Romillyによると、トゥーキュディデースの著作においては「その瞬間において精神と身体を襲う情念のレヴェルに位置する非合理的なφόβοςに、知的レヴェルの把握を意味するδέοςが対抗している」(Jacqueline de Romilly(木庭顕訳)「Thoukydidesにおける『怖れ』の観念」木庭顕編訳『トゥーキュディデースとホッブズ:真のリアリズムを求めて』みすず書房、2022年、1頁)。この対抗関係に関して、de Romillyは次のような説明を加えている。
また、古代ギリシャ史研究者のLuca Ioriは、2012年に発表した論文のなかで、前述したde Romillyの先行研究を下敷きとして、δέος (deos) とφόβος (phobos) の対抗関係をより明晰に整理している。
このように、外界からの何かしらのインプットに対して不安を感じる心理を「“frightened”(驚愕狼狽)と“prudential”(慎重な懸念)の間の両極性」(木庭顕「Thoukydidesによる情念の歴史分析」『トゥーキュディデースとホッブズ』、15頁)によって峻別してみると、ややもすれば単調に思われがちな『イデオン』というTVアニメの見通しははるかによくなる。何となれば、ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕が言うように、φόβος (phobos) は「底知れないエスカレーションと破滅へ向かう抵抗しえない力」と関係しており、φόβος (phobos) の背後には「人間の心理構造ではなく社会を動かす原理そのものが横たわっている」からだ(木庭顕「Hobbes, De civeにおけるmetus概念」木庭『憲法9条へのカタバシス』みすず書房、2018年、189頁)。木庭はトゥーキュディデースの捉えた「恐怖」の構造を次のように噛み砕いて説明する。
木庭は別の箇所において、「100%の安心を徹底的に欲するがために無限大の不安に駆られ、無限に予防し、全ドリを目指し、相手を殲滅しようとする。不安の道を進むのは安心がアプリオリの価値だからである」という表現も用いている。そして、「軍事同盟をエスカレートさせる抑止理論は不安を増大させ、双方同時破滅に至るだけである」と述べている(同論文193頁)。言い方を変えれば、de Romillyが言うように、「怖れは安定的で納得された秩序の形成には決して到達しない」。すなわち、「怖れはひたすら力を生み出すのみ」であり、「それ〔注:怖れ〕が一個の秩序をもたらすとしても、その秩序は、対立する力の不安定均衡状態であるにすぎない」ということだ(De Romilly「Thoukydidesにおける『怖れ』の観念」、7頁)。
畢竟ずるに、非合理的な「恐怖」という情念は、疑心暗鬼のエスカレーションと威力による相互牽制を生み出す。だが、威力の誇示と実力の行使は紙一重の差でしかないため、威力による相互牽制を繰り返すうちに、偶発的な小競り合いが昂じて事変を招くのがオチである。そして、ひとたび戦端が開かれれば、対立する両陣営は対立の淵源たる「恐怖」を払拭せんと戦線を拡大し、「双方同時破滅」の結末に向かう泥沼にずるずると沈み込んでいくことになる。こうした「恐怖」の構造を、『イデオン』は執拗に提示してくる。『発動篇』のいわゆる「全滅エンド」は結果でしかない。その圧倒的な華美さに目を奪われるのは仕方ないとはいえ、「双方同時破滅」にいたる過程を丹念に追いかけることもまた重要であろう。
少し前置きが長くなってしまった。ここからは、『イデオン』で描かれる「恐怖」の状況を具体的に見ていくことにする。
『イデオン』における「恐怖」の状況
きっかけは、たった一度の爆撃だった。地球人とバッフ・クランの不幸なファースト・コンタクトは、地球の植民星・ソロ星で持たれた。バッフ・クランは自らの種族に伝わる「イデ」の伝説に導かれ、無限力とされるイデを求めて、ソロ星(バッフ・クランの呼び名では「ロゴ・ダウ」)に探索隊を派遣した。当初、バッフ・クランの探索隊はソロ星に築かれた地球人の街並みを見て、建物の外観から地球人は「中世期」程度の文明しか持っていないと甘く見積もっていた。ところが、実際にソロ星に降下して地球人を目にしたバッフ・クランの一兵卒は、地球人が自分たちの母星に攻め込むという不確定な状況を怖れるあまり、うかつにも先制攻撃を仕掛けてしまう。当然の運びとして、地球人も敵襲に応戦し、ここに長きにわたる戦争の火蓋が切られることになる。
表面的には、バッフ・クランの一兵卒が怖れたのは、自分が軍規によって処罰されることであったように見える。そもそもの問題は、探索隊に同行していたドバ総司令の次女・カララがお目付け役の静止を振り切ってソロ星に降り立ったことであった。万が一カララの身に何か不都合があれば、護衛を果たせなかった軍人は奴隷身分に転落するか自爆させられるか、どちらかを選ばなければならなくなる。だから、かの一兵卒は我が身かわいさから引き金を引いたとも言える。しかし、「恐怖」は個人的な次元を超えて、彼のなかで膨れ上がっていった。侮っていた異星人が自分たちと似た姿をしており、自分たちと同等の――レーダーや戦車を作れる程度の――科学力を有する種族であることが明らかになるにつれて、反対に自分たちが制圧されるのではないかという不安がじわりじわりと膨らんでいく。その不安は瞬時に、「俺たちの星を奴らに侵略されてもいいのか!」(第1話)という言葉となって、かの一兵卒の口から洩れ出たのだ。
「恐怖」はバッフ・クランのみならず、地球人もその支配下に置いている。コスモは端的にこう述べている。「俺たちはなぜ戦ったんだろう? 襲ってくるバッフ・クランが怖かったからじゃないのかな?」、「バッフ・クランもそうじゃないのかな? イデオンやソロシップの力がバッフ・クランを怖れさせれば怖れさせるほど、彼らは戦うよ」(第20話)。地球人もバッフ・クランもひとしく相手の勢力の全容が見えていない。この状態では、先に武装解除すれば敵に蹂躙・殲滅されるだけではないかという疑念を払拭できない。だから、武力行使や軍備増強を正当化するために、両陣営は競って自らを被害者の側に置こうとする。先制攻撃を行ったのは相手のほうだと主張して、自らの武力行使に自衛あるいは正当防衛というネームプレートをつけようとする。第8話において、生身で対峙したコスモとギジェの言い分が食い違うシーンは、そのことをよく示している。
コスモもギジェも戦闘の継続を望んではいないが、相手に対する不信感や猜疑心が晴れないから、双方引くに引けない。「やられたらやり返す」式の専守防衛を手放せない。しかし、専守防衛と言ってみたところで、不透明な障壁の後ろから何が出てくるかわからないという「恐怖」が残存するかぎり、「やられたらやり返す」は「やられる前にやる」にたやすく転化する。「恐怖」の構造のもとでは、被害者/加害者の立場はめまぐるしく入れ替わり、戦争はだらだらと引き延ばされていく。たとえ特定の地球人とバッフ・クランが「サムライ」の流儀を守り、一対一で正々堂々と決闘に臨んだとしても、戦況を大きく変えることはできない。格式張った儀礼だけでは、アモルファスな「恐怖」という情念の暴走を止められない。
さらに悪いことに、「恐怖」に呑まれた人間は、自分があくまで冷静沈着だと錯覚することもある。カーシャは、コスモとベスがギジェを踏み潰さずに逃がしたのは「くだらない男のヒロイズム」であり、「戦いは生きるか死ぬかでしょう」と主張して二人を責め、シェリルもカーシャの見解に同調する(第9話)。こうして、男のヒロイズムに対して女のリアリズムが対置される。だが、カーシャが「なぜあのとき、あの男を逃がしたの? やっつけられるときにやっつけておかないと、いつまたやられるかわからない」(第8話)と述べて、いち早く「やられる前にやる」式の戦略を採用していたことに鑑みて、このリアリズムは「恐怖」を払拭せんとする先制攻撃の衝動にすぎないと言わなければならない。むろん、ヒロイズムだけで戦争を止めることはできないが、リアリズムと称する主戦論は相手にさらなる「恐怖」を与え、相手の反撃を招き、相互の応酬を引き起こして、戦争を泥沼化させるだけである。また、相手が反撃できなくなるまで、相手を完膚なきまでに叩きのめせばよいと考えるのも愚かなことだ。何となれば、そうした愚考をする者は自分たちが先に殲滅されるという可能性を考慮に入れていないからである。
『イデオン』において、「恐怖」のエスカレーションはとどまるところを知らない。ここまでの記述では、地球人とバッフ・クランという種族名を固有の主体のように扱ってきたが、実際には地球人もバッフ・クランも一枚岩ではない。「恐怖」は地球人とバッフ・クランを激しく対立させ、泥沼の戦争に引きずり込むのみならず、地球人の内部にも侵入して、種族内の凝集力を弱め、亀裂を生じさせる。コスモ一行はやっとの思いで辿り着いた地球の植民星・アジアンで背後から銃を向けられる。アジアンの軍人は「お前たちもバッフ・クランと同じようなもんだろう」と言い放つ。シェリルの「ご覧なさい! ここの星の軍隊は両方〔注:コスモ一行とバッフ・クラン〕に攻撃をしているのよ」、「住む星が違えばすでに同じ地球人ではないのよ」という言葉は悲しく響く(第18話)。第37話では、アジアンの指揮官はバッフ・クランと野合して、コスモ一行の非戦闘員を人質に取り、人質に向かって発砲する挙にさえ出る(このとき、流れ弾によってシェリルの妹・リンが斃れる)。さらに、コスモ一行はバッフ・クランを地球圏に呼び込んだという理由で、母星である地球からも帰還を拒否される。第28話では、「たったひとつの 星にすてられ」(戸田恵子「コスモスに君と」)という歌詞がカララのみならず、コスモ一行にも当てはまるという絶望的なシンメトリーが描かれ、余韻を残したままエンディングに流れ込んでいく。この悲愴な流れは鋭く胸を刺す。
アジアンや地球本星がコスモ一行を怖れたのはなぜだろうか。それは、彼らがイデオンとソロシップという得体の知れない圧倒的な戦力(war potential)を有しているからである。『イデオン』における「恐怖」のエスカレーションは、イデオンとソロシップを動かす無限力・イデと密接に関わっている。ここからは、イデが純粋な自己防衛本能に反応する理由について、「恐怖」の観点から再解釈を行うことにする。
「恐怖」のエスカレーションと無限力・イデ
『イデオン』における「恐怖」の重力は、画面を突き抜けて視聴者も捕らえている。イデオンとソロシップは地球人が設計開発した巨大ロボット・宇宙船ではなく、過去に滅亡した第6文明人がソロ星に埋蔵した「遺跡」であり、そのメカニズムの全容は物語の開始時点では解明されていない。コスモ一行はイデオンとソロシップが何を動力としているのかさえ把握できないまま、バッフ・クランとの戦いに巻き込まれていく。それどころか、ソロシップはエンジンの始動前から宙に浮かび上がり、イデオンは肝腎なときに乗組員の操作を受けつけず、勝手にドッキングや攻撃を行うなど、乗り込んだコスモ一行を翻弄する。イデオンとソロシップはバッフ・クランの重機動メカを退ける圧倒的な戦力でありながら、コスモ一行のコントロールに服さない「わがままな力」(第27話)であるため、その力を向けられるバッフ・クランのみならず、その力を振るうコスモ一行も、そして潜在的な殲滅対象となりうる他の植民星や地球本星の軍人もひとしく驚愕狼狽の「恐怖」に叩き込む。しかも、イデオンとソロシップを動かすイデなる力の正体は物語終盤になるまで明かされないため、視聴者もイデオンの破壊力が回を追うごとに増幅されるさまに戦慄しながら、見通しの悪い破滅への一本道に付き合わされる。この視聴体験は「恐怖」のエスカレーションの疑似体験と言っても過言ではない。
ここで、φόβος (phobos) が「底知れないエスカレーションと破滅へ向かう抵抗しえない力」と関係しているという木庭の所説を思い出すと(木庭「Hobbes, De civeにおけるmetus概念」、189頁)、イデという無限エネルギーを「恐怖」の無際限のエスカレーションから読み解くことが可能となる。イデは幾億の意思の集合体であり、純粋な自己防衛本能に応えるとされている(第27話、第34話)。イデはパイパー・ルウのような赤ちゃんの泣き叫ぶ声に特に強く反応して、恐るべき力を発揮する。イデは驚くべきことに、卵から孵化したばかりのドウモウ(後述)の生命の危機にさえ反応する。イデが人間と動物を区別していないということはこの上なく重要である。何となれば、理性を持たない怪物の幼体の自己防衛本能とは、動物的で非合理的な「恐怖」の純粋形態と言えるからだ。この純粋形態において「恐怖」は最大の強度を持ち、外敵をはねのける力を無際限に生み出すエネルギーとなる。すなわち、無限力・イデとは「恐怖」を培地とした循環参照的な軍拡のメタファーだと解釈することができる。
『発動篇』において、イデは悪しき知的生命体を滅ぼして、善き知的生命体を育てる超越者のように扱われる。狂気の女性研究者となったシェリルはパイパー・ルウを供物のようにイデに捧げる。ドバ総司令は「知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられんことだ。欲、憎しみ、血へのこだわり、そんなものを引きずった生命体がもとではイデは善き力を発動せん」と語る。しかし、イデを預言者なき時代に沈黙を保つ神のように捉え、『発動篇』をノアの方舟の物語のように「宗教的」に解釈するのではなく、イデを「恐怖」の観点から再解釈するほうが、総合的な理解には資するように思う。人間の赤ちゃんは外界からの脅威に対して無力であり、大声を上げて泣き叫ぶことしかできない。脅威に思慮深く対処するすべを一切知らない人間、それが赤ちゃんである。だからこそ、イデは人間においては赤ちゃんを「恐怖」の純粋形態として選好した。『イデオン』における「散文的」な戦争の続行も、『発動篇』における地球人とバッフ・クランの「双方同時破滅」および輪廻転生も、いずれも人間が「恐怖」という情念を克服できないがゆえの哀悼劇であり、赤ちゃんの純粋さ(あるいは可塑性)に希望を託すことは、純然たる「恐怖」に対して免疫を持たない人間の度しがたさを憐れむことと表裏一体である。『発動篇』のいわゆる「全滅エンド」が後を引かない清々しさを感じさせるのは、そこに「恐怖」を蝶番にして希望と絶望が同居しているからである。
『発動篇』の劇場公開から40年以上が経過し、日本政府が専守防衛をかなぐり捨てて「敵基地攻撃能力」の保有に踏み切った今こそ、死に様のバリエーションを徹底的に追求した偏狂的描写はスパイスとして楽しみつつも、「恐怖」から出汁を取った深い味わいをじっくりと堪能する態度がいっそう重要になってくる。私はそのように確信している。
結びに代えて
以下では、本稿の結びに代えて、項目を立てて十分に語ることができなかった雑感を書き残しておく。
1. 『イデオン』に登場するクリーチャーについて
『イデオン』には、イデオンとソロシップを手に入れたコスモ一行が宇宙の逃亡者(space runaway)としてさまざまな惑星を渡り歩く過程で、さまざまな生態を持った魅力的なクリーチャーが登場する。『イデオン』が地球人とバッフ・クランの戦記物語を描きながらも、人間同士の武力衝突や諍いばかりにフォーカスするのではなく、宇宙や生命の神秘を想起させるイマジネーションも取り入れているのは好感が持てる。クリーチャーというかわいげのある夾雑物を混ぜ込むという気取らなさもまた、『イデオン』の特筆すべき点の一つである。
シリーズ序盤でまず強烈な印象を残すのは、第10話に登場するバジンであろう。第11話の冒頭ナレーションでは「巨大な蜂」と説明されているが、外見上は鳥のように見えるこの凶暴な生命体は、仲間の復仇を行うという性質を持っている。アバデデが異星の怪物を利用してイデオンとソロシップを追い詰めようと画策するも、策士策に溺れて落命する一連の流れは、私にはきわめて新鮮に映った(「なぜ、こんなバカな死に方を……」というアバデデの断末魔の言葉も、自業自得とはいえ哀れを誘う)。バジンがイデオンとソロシップに群がって装甲を破壊する様子を見て、私は巨大ロボット同士の白兵戦や空中戦(およびそれに付随する人間ドラマ)を「ロボットアニメ」の華と思い込んでいた自分の短慮を反省した。
第33話に登場する鉱物生命体・ヴァンデもなかなか秀逸である。第33話において、バッフ・クランは再び危険な生命体が棲息する空域にイデオンを誘い込む作戦に出るが、ヴァンデはバジンとは異なり、隕石に似た物質感の強いデザインのため、似たような作戦とて見飽きることはない。
しかし、何と言っても素敵なのは、第34話に登場するドウモウという巨大生物だ。ミミズのような見た目の巨体、低い鳴き声、名前に反しておとなしいという遊び心など、さまざまな観点において『イデオン』のベストクリーチャーと言っても過言ではない。ドウモウはイデの発動にも一役買い、『発動篇』でも終盤に少しだけ画面に映るなど、意外にも活躍を見せている。単なるクリーチャーと侮るなかれ、ドウモウは『イデオン』の隠れた「愛されキャラ」なのだ。
その他、カーシャに悲鳴を上げさせたソロ星のヒル(第1話に登場)、バッフ・クランの攻撃によって吹き飛ばされたかわいそうな恐竜や爬虫類(第9話に登場)も忘れがたい。巨大な恐竜とロボット・宇宙船が並び立つ絵面も、『伝説巨神イデオン』から得られる大切な栄養の一つだと思う。
2. イデオンのデザインについて
「イデオンのデザインはカッコいい」と心から言える人はどれほどいるのだろう。イデオンのデザインについて、富野由悠季はインタビューのなかで「こんなひどいデザインのもので物語なんか作ることができないでしょうという前提があった」と述懐している(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社、1999年、174頁)。『イデオン』で脚本とSF考証を担当した松崎健一も、当時の周囲の反応を振り返って「イデオンのデザインなどについて色々言われましたね。『巨大ジム』とか(笑)」と語っている(『グレートメカニックG 2021 AUTUMN』双葉社、2021年、34頁)。私は『イデオン』の初見時には、特にダサいともカッコいいとも思わず、「デカい!」という感想が先立った。画面のなかの登場人物と比べて明らかに巨大なスケールの車が合体して、全高100m超の立像となるのは見応えがあった。とはいえ、物語の進展に伴って、バッフ・クランの重機動メカのスケールも肥大傾向を強め、スケール上のイデオンの優位性は薄れていってしまった。物語の終盤に登場するバイラル・ジンとガンド・ロワはさすがに荒唐無稽なスケールとしか言いようがないが、こうした肥大化も「恐怖」のエスカレーションと軌を一にしていると考えれば納得できるのかもしれない。
先日、サブカルチャーに明るい先輩のQ氏と『イデオン』について話す機会があった。Q氏はイデオンのデザインについて、『イデオン』と『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年)を対比しながら、「拘束具で抑えつけられた禍々しい見た目の人型兵器が暴走したり、神だと言われたりしても『まあそうなりますよね』という感じがするけど、ジムみたいな顔をして、箱や牛乳パックで作ったようなデザインのロボットが人智を超えた力を秘めているというのは面白いよね」と言っていた。たしかに、イデオンのデザインと実態の乖離は、第6文明人の「遺跡」としてのイデオンの不気味さをより際立たせており、結果的に「恐怖」という情念を強く喚起するちょうどいい塩梅になっているのかもしれない。
なお、イデオンの起動時に顔に走査線が走る演出も、イデオンがあくまで機械であることを視聴者に忘れさせないという点で好感が持てる。バッフ・クランから電流攻撃を受けたときに、イデオンの顔の表示がバグったようになるのも優れた想像力の所産だと思う。
3. 『接触篇』について
『接触篇』は『イデオン』のダイジェスト映像とさえ呼びがたい、独立した作品として評価しようがない代物である。『富野由悠季 全仕事』の検証コーナーでも、「『接触篇』はTVシリーズの完璧な総集編たりえないパラレルワールド的な作品となり、『発動篇』はそのどちらも受け止め切れていない完結編になってしまった」と総括されているとおり(『富野由悠季 全仕事』、204頁)、『接触篇』は単に話を端折っているだけではなく、登場人物を減らして話をつぎはぎしているので、正直見ていてわけがわからない。『イデオン』と『接触篇』の細かな異同については『富野由悠季 全仕事』の検証コーナーに譲り、ここでは『接触篇』に対する不満を「恐怖」の観点から二点に絞って述べることにする。
第一に、当初よりイデという単語が地球人側から出てくるのは、『イデオン』が持っていた不透明さという魅力を損なっている。ちょうど劇場版『機動戦士ガンダム』(1981年)でニュータイプが所与のものとなったように、『接触篇』でおいてイデは大前提となってしまっているが、これは得体の知れない力と「恐怖」がインタラクションを起こしながら膨れ上がっていくダイナミズムを失速させている(しかもそれで話が明快になっているわけでもないから擁護しようがない)。コスモ一行が宇宙の逃亡者としてジグザグに逃避行を続ける過程が省かれたり、異星人のギジェが好奇心・向学心からシェリルに接近し、特に揉め事もなくソロシップに受け入れられたりするのも、「太初にイデあり」で話が進んでいるからである。
第二に、地球人とバッフ・クランの対立の構図が単純化され、コスモ一行とバッフ・クランの直接全面対決にすぐに発展することによって、「恐怖」の感染力の強さも見失われている。「恐怖」は種族間の相互不信を煽るのみならず、各種族の内部も漸次侵食し人々の心を制圧していく卓越した浸透力を持っている。『接触篇』が地球人同士の諍いを正面から描かなかったことは、『発動篇』の冒頭シーンにも影響を及ぼしている。『発動篇』はバッフ・クランの攻撃でキッチンの生首が飛んでいき、コスモが「バッフ・クランめー!」と絶叫する衝撃的なシーンから始まる。コスモは『イデオン』第25話とは異なり、幸か不幸かキッチンの死に立ち会えたわけだ。しかし、コスモがキッチンとともに戦えたのは、イデオンとソロシップを擁するコスモ一行と他の地球人の対立を捨象した結果でもある。私はむしろ「恐怖」が「わかりあえなさ」を生み出すことを見抜いていたという意味で、コスモが重傷を負って苦しんでいるあいだに、キッチンが人知れず殺されてしまうという絶妙なすれ違いを描いた『イデオン』のほうを推したい。
次回更新は2023年6月、主題は『機動戦士ガンダムF91』を予定している。
参考文献
宇野常寛『母性のディストピア I 接触篇/II 発動篇』ハヤカワ文庫、2019年。
木庭顕『憲法9条へのカタバシス』みすず書房、2018年。
木庭顕編訳『トゥーキュディデースとホッブズ:真のリアリズムを求めて』みすず書房、2022年。
『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社、1999年。
トゥーキュディデース(久保正彰訳)『戦史(上)』岩波文庫、1966年。
『グレートメカニックG 2021 AUTUMN』双葉社、2021年。
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