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TVアニメ『異世界美少女受肉おじさんと』に見るホモソーシャルな欲望:「ボーイズクラブ」問題の表層/深層

はじめに

 ホモソーシャル関係では、儀式としての決闘など、多分に暴力を介しながら関係が培われていたし、男同士の絆の延長線と理解される範囲である限り、キス、相互オナニー、さらにはアナル・セックスに至るまで許容される。……ホモソーシャル関係の中では、異性愛社会と同性愛行為は見事に矛盾なく共存しあうのである。

(星乃治彦『男たちの帝国:ヴィルヘルム2世からナチスへ』岩波書店、2006年、16頁)

 ホモソーシャルとホモセクシュアルは紙一重の差である。2022年3月に放送が終了したTVアニメ『異世界ファンタジー美少女受肉おじさんと』(通称『ファ美肉おじさん』)はそんなことを改めて認識させてくれる作品だ。
 本作は「おっさんと元おっさんのラブコメ」である。小学生の頃からの幼馴染である会社員の二人・神宮寺司橘日向(ともに32歳)は合コンの帰り道、愛と美を司る女神によって魔王を打ち倒す勇者として異世界に召喚される。しかし、一つの大きな問題が二人の前に立ちはだかる。橘は合コン撃沈後に泥酔してぼやいた「この世のものとは思えないくらいの美少女になって死ぬほどチヤホヤされたい」という言葉を願望として女神に聞き入れられ、絶世の美少女の姿で異世界に召喚されたのである。女神はさらに、戸惑う二人に魔王を否が応でも倒させるため、二人にある呪いをかける。それは、お互いを高い価値のある魅力的な人間として認識させ、互いに恋愛感情を抱かせる呪いであった。こうして、「俺がこいつを好きになる前に」魔王を倒すための二人の冒険が幕を開ける。
 本作は第1話の冒頭から、後述する「ホモソーシャル連続体」(homosocial continuum)の文法に沿った二人の独白を挿入してくる。二人のあいだで男同士の絆自体は否定されないが、他方でホモセクシュアルな関係に入ることに対しては、著しい嫌悪感・恐怖感が表出される。

   (身体は女になったかもしれんが、俺は異性愛者――)
神宮寺 (俺は決して、こいつと男女の関係になりたいわけではない)
   (俺が男を好きになることなんてありえない)

 神宮寺は元々異性に興味が薄かったが、高身長・文武両道・容姿端麗であることから女性に言い寄られ続け、輪をかけて女性不信をこじらせるようになった男性である。神宮寺は親友の橘を眺めながら、心のなかでつぶやく――「お前は俺が認めた女としか付き合うことは許さんぞ。そんな女いるとも思えんがな」、「やはり男が安心する。俺の心のオアシスはいつだってお前だけだ」と。ここで考えなければならないのは、女神の呪いはあくまで二人の背中を押しただけではないのかということだ。本作がラブコメとして成立する根底には、25年にわたる二人の付き合いがある。一見すると、二人の男同士の絆は一方当事者の女性化によって危機的状況に陥っているように見えるが、実はこの絆は元来ご都合主義的なものであって、ホモセクシュアルな関係と紙一重の差であることは否定しがたい。女性にまったく興味がなかったり、女性よりも男性に惹かれていたりする可能性だってあるのに、それを頑なに否定するために、異性愛秩序の強迫によって女性に興味があるふりをさせられているだけかもしれないではないか。本作を分析するうえで、この点はどうしても看過できない。
 本稿はまず、英文学者のイヴ・コゾフスキー・セジウィック(Eve Kosofsky Sedgwick)が提出した「ホモソーシャル連続体」の仮説について整理を行い、本作に潜むホモソーシャルな欲望を炙り出す。それを通じて、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の評価をめぐって表面化したような、年老いた「ボーイズクラブ」(正確には「もはやボーイズではいられないおっさんクラブ」)のゆりかごのなかで非モテ/ミソジニー発言を繰り返す男性たちの問題を考える視座を提供する。本稿は「ボーイズクラブ」問題の決定的な処方箋とはなりえないが、問題を認識させる契機くらいにはなると信じて、筆を執ることにした。なお、「ボーイズクラブ」問題の概要については、ドイツ思想史家・評論家の藤崎剛人(北守)のブログ記事に譲る。本稿では詳細な説明は省くので、あらかじめご了承いただきたい。

連続性なき連続体:セジウィックの「ホモソーシャル連続体」仮説

 セジウィックは『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire, 1985)という著作のなかで、「ホモソーシャル連続体」、すなわち「ホモソーシャルとホモセクシュアルとが潜在的に切れ目のない連続体を形成している」という仮説を提出している(イヴ・K・セジウィック(上原早苗/亀澤美由紀訳)『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出版会、2001年、2頁)。セジウィックはシェイクスピアからオスカー・ワイルドやD. H. ロレンスにいたるイギリス文学の通時的/共時的分析を通じて、「非同性愛の男性がホモフォビックな脅迫を受けて統制されていくメカニズム」、「非同性愛者の生活に侵入するイデオロギーの触手」を暴き出そうとする(同書138頁)。セジウィックは「男性が異性愛関係をもつのは男同士の究極的な絆を結ぶため」であると述べる(同書76頁)。つまり、男性のホモソーシャルな紐帯においては、男性性を確認し、それを強固なものとするために、女性が財・交換対象として不可欠とされているということだ。セジウィックは次のように述べる。

男性は、自分たちの間に権力差が存在するときでさえ、憐み/軽蔑の対象となる女性を媒介にして、権力を交換したり互いの価値を確認したりすることができる……女性は、男同士の絆を維持するための溶媒であり、資本主義と金銭交換とともに育まれた相対的な民主化を促進するばかりか、民主化の空白や欠陥をうまく繕う働きもするのである。

(同書244頁)

 セジウィックは別の箇所で、「『人妻を寝とる』とは定義すると実は、男が男に対してしかける性的行為である」とすら言っている(同書75頁)。「男のホモソーシャルな欲望と異性愛的欲望は必ずしも対立する必要はなく、まったくの共犯関係になりうる」のである(同書88頁)。このように、ホモソーシャル関係には女性から主体性を奪って男性に従属させ、女性を社会から排除しようとするミソジニー(女性嫌悪)が伴うが、それゆえに男性を女性化させ、ホモソーシャル関係を動揺させる現象に対する強烈な恐怖心、すなわちホモフォビア(同性愛恐怖)も生じてくる。セジウィックは次のように指摘する。

 女性の存在をうまく隠した状態で語られる異性愛は……比較的安泰で、男性が他の男性に対して女性化しても、異性愛は異性愛として存在しえた。ところが、女性が実在する枠組みで、男性が女性化したりジェンダーが混乱したりすると話は別で、それは悲惨な結果を招く。

(同書54頁)

 表現を変えると、「女性と違って男性の連続体には、『男を愛する男』と『男の利益を促進する男』を直感的に結びつけるような力がない」ということであり(同書4頁)、「現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆との間に比較的連続性があるのに対して、男性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しており、男の絆と女の絆は明らかに非対称的な姿を呈している」ように見える(同書6頁)。しかし、セジウィックが「ホモソーシャル連続体」に関する自説で強調するように、実際には「男性にとって男らしい男になることと『男に興味がある』男になることとの間には、不可視の、注意深くぼかされた、つねにすでに引かれた境界線しかない」。この「通常は表に現れてこない威圧的なダブル・バインド」が(同書137頁)、「ボーイズクラブ」に入り浸る男性たちを密かに苛むのだ。セジウィックは、20世紀の社会の最大の特徴は「男性のホモソーシャル連続体が、憎悪に満ちたホモフォビックな見方で鋳直された」ことだと指摘する(同書332頁)。

知的中産階級が数を増し、可視的存在となり、活動領域を広げるに伴い、男性同性愛の新たな形態と連動して、男性のホモソーシャルな絆の新しいあり方が姿を現し始めた。この階級の男性はそれぞれ、名目上は個人主義と実力主義を標榜しながらも、往々にして不安定であり、実際にはかなりの不安を抱えながら、経済的かつ社会的に人生を切り開いていかなければならなかった。そんな中にあって、男女の間に改めて境界線を引いて性の役割分担を強化することは、これといった特徴のないこの新しい階級に、明確なイデオロギー的特徴を附与してくれるように見えた。となるとその結果……青年たちは、形態も緊密さも多種多様なホモソーシャルな絆を男同士で結ぶにあたって、文化的に「女らしい」と定義されるような要素がその絆の構造のどこにも入り込むことのないよう、注意を払ったのである。この階級の男性は、男同士の関係をもつにあたって、たとえそれが明らかに性的な関係であろうとも、男性を相手にすることによって自分が女性化するとは考えず、むしろ私生活から女性を排除することによって自分がさらに男性化するとみなしたようである。

(同書317-318頁)

エロスであり同時に政治的欲望であったはずの男性のホモソーシャルな欲望を、部分的にあるいは分裂症的に捉えて、エロスと非政治とを、あるいは非エロスと政治とを結びつけた結果こそ〔注:前者の代表例がオスカー・ワイルド、後者の代表例がD. H. ロレンスとされている〕、ホモソーシャル連続体の今ある姿――連続性なき連続体――なのだ。

(同書334頁)

 セジウィックはこのように『男同士の絆』を締め括っているが、「ホモソーシャル連続体」の仮説を単純に『ファ美肉おじさん』という日本のTVアニメに当てはめることは慎むべきだろう。セジウィック自身も、「本書の公式を有益だと感じた読者に覚えておいてほしいことがある。この公式をヨーロッパに当てはめることはもちろん、文化を超えて当てはめたり、(さらに)普遍化したりすることは重要だけれども、その前にまず、各自が極めて綿密な分析を行う必要があること、仮にそれを怠れば、そうした行為のひとつひとつが非難されてしまうことを忘れないでほしいのである」と注意を促している(同書29頁)。この点については、批評家の四方田犬彦も同様のことを述べている。

 だが、イギリス文学への凝視から築き上げられたセジウィックの理論を東アジア映画に適応するにあたっては、両者の背景となっている文化的・社会的・ジェンダー的差異なるものを考慮に入れておかなければならない。また彼女が自分の立っているアメリカの(アカデミックな、ならびに非アカデミックな)社会的環境にむかって声高く主張しているメッセージを、東アジアという、彼女には予想もつかない文脈の側から相対的に捉え、その言説の文化的・イデオロギー的限界を正確に見極めておかなければならない。この作業を蔑ろにしてしまうならば、せっかくのホモソーシャリティという概念も、これまでの多くの「先進国」からの輸入理論の例にもれず、一方的な教義の権威的押しつけで終わり、数年後には忘れ去られてしまうことになるだろう。

(四方田犬彦「男たちの絆」四方田犬彦/斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画:
ホモソーシャルな欲望』平凡社、2004年、11頁)

 そこで、次に検討すべきは、日本におけるホモソーシャルな絆のあり方ということになる。この点については節を改め、日本のアジア映画研究におけるセジウィック受容を踏まえて論じる。

日本におけるホモソーシャル関係:男性の脆弱性と美少女表象

 映画研究者の岩見寿子は、前掲の論文集『男たちの絆、アジア映画』に収録された論文のなかで、現代日本においては男色的同性愛とホモセクシュアルが明確に区別されずに入り混じっていることを指摘しており、セジウィックの「ホモソーシャル連続体」仮説のローカライズを試みている。

男色的同性愛とホモセクシュアルとが無自覚に混在する現代日本における同性愛の表象のなかで、ホモフォビアはいまだ水面下に隠れており、セジウィックのいうような異性愛の多数派男性を強力に操作する道具にはなりにくくなっている。だが、それだけに日本社会に遍在するホモフォビアは糾弾を免れたまま、ミソジニーと手を携えて、日本のホモソーシャル体制をゆるぎないものにしているのである。

(岩見寿子「漱石から清順へ ホモフォビアの近代」
四方田犬彦/斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画』、152-153頁)

 現代日本においては、ホモセクシュアルが「男性を女性化させるもの」として忌避される状況であっても、男色的同性愛であれば「抽象化され美化されたエロティシズム」や「かつての特権的な男性性への強いノスタルジー」を感じさせるものとして受容されうるため(同論文152頁)、英米ほど極端なホモセクシュアル・パニックが起こりにくいと岩見は論じる。このような岩見の見解を受けて、映画研究者の斉藤綾子は歴史的経緯も踏まえて次のような整理を行っている。

男色の伝統を持つ日本では、理想化された師弟関係や主従関係が「男を愛する男」という情動的な欲望に対して明確な形で倒錯と正常という境界線を引けない一方で、明治末期以来の近代的な強制的異性愛文化が富国強兵策などとともに浸透し、強化されていくにしたがって、「男と性的な交渉を持つ男」という性器的な欲望を持つ男性は徹底的な排除と周縁化の対象となり、不可視化されてきたといえるかもしれない。だが、「男を愛する男」の場合は、性器的な側面を持つか持たないかは不問とされ(あるいは周到に回避され)、〈男同士の友情〉という形で性と情動が切り離され、〈ホモソーシャルな欲望〉のなかで回収されていったと思われる。その意味では、日本では、ソーシャルとセクシュアルとの間にエロティックな曖昧領域が文化的に存在しているともいえよう。

(斉藤綾子「ホモソーシャル再考」
四方田犬彦/斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画』、303頁)

 斉藤は別の論文のなかでも、やくざ映画の分析を通じて「エロティックな曖昧領域」に触れている。

やくざ映画ではホモセクシュアリティが表象されることはほとんどない。にもかかわらず、男同士の関係は一見して倫理的なコードに裏打ちされているように見えて、実はそれを取り巻くエロティックなエネルギーに満ち満ちている。……過剰に強調された〈男性性〉と過度にナルシシスティックな審美化ゆえに、エロス化された男の身体が友情と愛情の間を、つまりホモエロティックとホモセクシュアルの境界線上を曖昧に揺れるのだ。

(斉藤綾子「高倉健の曖昧な肉体」
四方田犬彦/斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画』、66-67頁)

 ただし、斉藤の指摘する「エロティックな曖昧領域」の存在は、日本がホモセクシュアルな関係に対して寛容であることを必ずしも意味するものではない。斉藤自身も「まさにこの〈曖昧な領域〉の存在こそが潜在的なホモフォビアの隠れ蓑にもなっているし、またその〈曖昧さ〉が露呈してしまうと、途端にホモフォビックな規制が攻撃性となって、たとえば暴力やパニック的な状況を引き起こすといえるだろう」と述べており(斉藤「ホモソーシャル再考」、304頁)、日本におけるホモセクシュアル・パニックの発生について、岩見よりも若干強い警戒感を示していることが窺われる。
 ここで本稿の主題である『ファ美肉おじさん』に話を戻すと、本作はセジウィックや斉藤の指摘を素直に受け入れられない視聴者の脆弱性を美少女表象によって巧みに突いているように見える。多くの男性、特にアンチフェミや表現の自由戦士はホモソーシャル/ホモエロティックとホモセクシュアルが紙一重の差であるという指摘に拒絶反応を起こすだろう。彼らは美少女表象を愛好する自分たちは当然「女好き」であり、「男を好きになることなんてありえない」と信じている。いや、万が一にも自分たちが差別されるマイノリティの側に転落することがあってはならないという強迫観念によって、そのように信じ込まされているというのが正確だろう。新自由主義的な「勝ち組」信仰が伏在するホモフォビアと合流して「エロティックな曖昧領域」を覆い隠しているというわけだ。それでは、中身は32歳のおっさんだが、ガワ(アバター)だけは美少女という表象があったとして、その美少女表象に男性が恋慕することは異性愛なのだろうか、それとも同性愛なのだろうか。こうして再び、中身とガワの不一致によって「エロティックな曖昧領域」の問題が浮上してくる。本作は美少女表象を活用することによって、ホモソーシャル/ホモエロティックとホモセクシュアルが紙一重の差であるということを、異性愛秩序のなかに偽装して溶け込ませることに成功している。この点についてはさらに節を改め、セジウィックが後進に要求する「綿密な分析」を行うことにする。

『ファ美肉おじさん』の構成美:「ボーイズクラブ」問題の深層に迫る

 本作における神宮寺と橘の関係は、二人が異世界に召喚される以前からずっと、ホモソーシャルな欲望に満ちあふれている。二人の25年にわたる関係は、小学生の時分、橘がいじめられていたところを神宮寺に助けてもらったことに端を発する。神宮寺は幼少の砌から祖母に厳しくしつけられ、凛とした振る舞いを強いられてきた。そんな優秀だがずっと気を張って生きている神宮寺に、橘は「まるでヒーローみたいだなって、憧れて」(第12話)、寄り添って歩んできた。しかし、その寄り添いは傍から見れば「金魚のフン」あるいは「コバンザメ」のような恰好に映り(第11話)、橘は同級生の男子から「橘くんさあ、そんなんでよく神宮寺さんと一緒にいられるよな。迷惑かけてるとか思わないわけ?」などと嫌味を言われる始末であった(第10話)。他方で、神宮寺の側も橘に入れ込んでいることは明白である。第4話では、神宮寺が橘の自炊用にダマスカス包丁をプレゼントしたこと、ならびに橘が彼の好意を無下にしたことが明かされる。神宮寺は自分のプレゼントが活用されずに橘のキッチンに眠っていたことを根に持っていた。第6話では、すねる当事者が神宮寺から橘に入れ替わるが、すねる親友の扱いについて、神宮寺は次のように独白する。

橘のメンタル面もしっかりサポートしてこその俺だ。フッ、手のひらで踊らされているのが自分だと気がつかない。お前にはそんなふうに生きててほしいなんて思うのは、俺のエゴだな。

 このようにホモソーシャル/ホモエロティックとホモセクシュアルの境界線上を揺れ動く二人の関係を逆手にとって、本作の物語は進展していく。異世界召喚の際、橘が単に女性化するにとどまらず、愛と美の女神の加護を受けて絶世の美貌を手にしたことを思い出そう。橘は物語の序盤こそ、自らの美貌で異世界の住民たちを籠絡したり、親友の神宮寺をからかいまじりに誘惑したりする攻めの位置にいた。中身が32歳のおっさんのまま、ガワだけは金髪碧眼の美少女になった自分に男性たちが魅了される様子を、橘は内心まんざらでもない気持ちで眺めていたのである。本作において重要なのは美少女のガワである。異性愛の見せかけなしには、25年をかけてもホモソーシャル/ホモエロティックとホモセクシュアルの境界線は踏み越えられなかった。この点には異性愛秩序の強靭さを看取せざるをえないが、異性愛の偽装によって、これまで抑圧してきたホモセクシュアルな可能性が表出してきたことは注目に値する。本作は終盤に向かって、神宮寺と橘のあいだで不可視化されてきたホモソーシャルな欲望を詳らかにし、亢進させていく。
 二人は旅の過程で王都に辿り着き、王女のユグレインと出逢う。橘は王女として公務に追われ、厳重に監視されて鬱屈した毎日を過ごすユグレインにかつての神宮寺を重ねる(第9話)。ひょんなことから橘はユグレインが先導する反乱に巻き込まれ、内乱を奇貨として暗躍する魔王軍幹部・カームの術中に陥る。橘はカームの術によって神宮寺に対する最初の感情を憧れから嫉妬へ塗り替えられてしまう。他方で、橘に置いていかれた神宮寺も嫉妬をこじらせて凹んでいた。神宮寺は「男同士で嫉妬も何もあるかあ!」と嫉妬心をなんとか否定しようとする(第10話)。こうして二人の嫉妬が正面衝突する構図が生まれ、本作はクライマックスへ突入する。カームはユグレインと橘の力を利用して古代の国防兵器・メーポンを起動させ、橘を動力源として王都への侵攻を開始する。神宮寺たちが防戦に徹するなか、橘はカームの術で嫉妬心を増幅させられ、小学生以来、神宮寺に褒めてもらうために一緒にいたことを錯乱しつつ告白する(第11話)。

いくら見た目が可愛くなったって、お前にとって無価値なら何の意味もない! 俺がいまこんなに苦しいのも、お前が友達であることくらいしか自慢できない、何もない人間だからだ!

 第12話(最終回)にいたって、神宮寺は葛藤の末ようやく正直になり、橘に対して「俺はお前が羨ましかった! まわりにいつも人がいて、お前のまわりにはいつも笑顔があふれていた」と叫ぶ。続けて、神宮寺は「何もない人間だ」と自嘲する橘を否定し、自分の持っていない美点をたくさん持っていると反駁する。この親友の言葉をきっかけに、橘は自分の力で正気を取り戻し、とうとうカームの術から解き放たれる。しかし、口喧嘩を経て、橘をメーポンのなかから救出するシーンでも、神宮寺は見目麗しい橘の外見に心を奪われてしまう。ブロマンスにはとどまらない恋愛感情が美少女のガワ、異性愛の見せかけによって後押しされているのは明らかである。極めつけはその後に続く神宮寺の褒め殺し長台詞だ。およそ3分にわたって息つく間もなく橘の美点を列挙したあげく、「お前は俺にもっと褒めろと言ったがな、いいのか!? 一度お前を褒めだしたら止まらんぞ、俺は!」という念押しで締め括られる一連の流れは、神宮寺役を演じる日野聡の「さすがに感」に満ちた噛まない技巧を堪能できるエロティックな時間であるとともに、25年間も親友に言えずに押し殺してきた神宮寺の感情が氾濫する衝撃的な時間でもある。
 そして、この救出劇を経て、今度は橘のほうが神宮寺に魅了されるようになってしまうのだから、本作の構成は美しいと言わざるをえない。本作は橘の「俺が男を好きになることなんてありえない」という独白に始まり、神宮寺が美少女のガワをまとった橘に翻弄される様子をコミカルに描いてきた。しかし、視聴者は知らず知らずのうちにホモソーシャル/ホモエロティックとホモセクシュアルの境界線を踏み越えさせられ、最終的には橘がおっさんのガワのままである神宮寺に魅了されてしまうという結末を目にすることになる。ここで男性を自認する読者は考えてみてほしい。もし、あなたの隣にいる「ボーイズクラブ」の仲間が本作と同じ状況に置かれたら、あなたは彼(女)に恋しないと自信を持って言い切れるだろうか。自分のことを理解してくれる気が置けない仲間、理解不能な他者ではない(と思える)同性の友人が美少女のガワをまとったら(しかもM・A・Oの声で喋りだしたら!)あなたたちの関係はいまのままでいられるのだろうか。
 以上述べたところから明らかなように、本作は「女体好きのミソジニスト」に対する意趣返しと言いうるが、それと同時にルッキズムやミソジニーを強化する危険性も孕んでいる。だからこそ、本作を相対化するために、いわゆる「僧侶枠」のTVアニメ『黒ギャルになったから親友としてみた。』(2021年)も紹介しておきたい。大学生ナンパ師ペアのシオンとルイは女性を媒介項とする典型的なホモソーシャル関係にあるが、シオンが謎の女に一服盛られて女性化したことで、ルイはシオンを「マジ口説き」にかかり、二人は男女の仲になる。この作品で重要なのは、シオンが男性の身体に戻ったあとも二人の性的交渉は続くという点である。「男とか女とか、もう関係なくね? 俺らもう一線越えちまってんだよ」という率直な台詞――これこそ、『ファ美肉おじさん』に欠けている最後のピースなのだ。

おわりに

 ある人間のなかで、願望と行動が矛盾していることはままあるものだ。そのときにはいったん、その願望が本当の願望なのか、疑ってみてはいかがだろうか。たとえば、毎日のようにポテトチップスなどの間食を繰り返しながら「痩せたい」「健康になりたい」と発言するとき、それは本当に「痩せたい」「健康になりたい」という願望を示した言葉なのだろうか。実は心の底から「痩せたい」「健康になりたい」とは思っていないが、「別に痩せなくてもいい」「不健康でも構わない」という自堕落なセルフネグレクトが外部から批判されることを恐れるあまり、一応「痩せたい」「健康になりたい」という体裁をとっているだけということはないだろうか。
 「ボーイズクラブ」に入り浸り、非モテ/ミソジニー発言を繰り返す男性たちについても同様のことが言えそうである。客観的に見て女性から選ばれにくくなるとしか言いようがない非モテ/ミソジニー発言を垂れ流す人は、本当に「モテたい」と思っているのだろうか。自己を改善する行動の伴わない「モテたい」発言は、実は自分が女性にまったく興味がないという可能性を排除するための建前にすぎないのかもしれない。とすると、彼らが気にしているのは女性の目ではなく、言うなれば世間の目だということになる。自分はホモセクシュアルやアセクシュアルであるはずがない、差別されるマイノリティであるはずがないという潜在的なホモフォビアが、彼らをして女性に興味があるふりをさせている可能性は否定しきれない。非モテ/ミソジニー発言が実在の女性に対して有害であるというのは「ボーイズクラブ」問題の表層にすぎず、この問題の深層は自分自身のセクシュアリティと向き合えない男性の不覚悟にあると言わなければならない。『ファ美肉おじさん』は、「ボーイズクラブ」の構成員たちが最も愛しているのは「中身がおっさんの美少女表象」だという不都合な真実を暴いているように見える。畢竟、非モテ男性同士のいがみ合いは強烈な好意の裏返しかもしれないのだ。
 なお、念のため断っておくと、本稿は「モテたい」という願望を叶えるための直接行動を推奨するものではない。恋愛工学やナンパテクに傾倒して、昏睡レイプや痴漢行為を実行することに肯定の余地は一切ない。

参考文献

星乃治彦『男たちの帝国:ヴィルヘルム2世からナチスへ』岩波書店、2006年。

四方田犬彦/斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画:ホモソーシャルな欲望』平凡社、2004年。

イヴ・K・セジウィック(上原早苗/亀澤美由紀訳)『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出版会、2001年。

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