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映画『化け猫あんずちゃん』の創意工夫と人間愛について:「何も起こらない物語」から「喜劇」への飛躍

“LIFE,” wrote Charles Spencer Chaplin, “is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.”
人生は寄りで見れば悲劇のようなものだが、引きで見れば喜劇のようなものである。
――チャップリンの訃報記事より

(Derek Malcolm & Richard Roud, “The baggy-trousered philanthropist”,
The Guardian, 28 December 1977, p. 8)

 2024年7月19日に劇場公開されたアニメ映画『化け猫あんずちゃん』は大袈裟なドラマを排したいわば「何も起こらない物語」を「喜劇」として彫琢することに成功した傑作である(愉快で滑稽だという意味でも傑作と言うにふさわしい)。この映画は『コミックボンボン』の末期(2006年8月号~2007年11月号)に連載されていたいましろたかしの漫画を原作とした日仏合作のアニメ映画であり、南伊豆の池照いけてるちょうという架空の町を舞台として、人間の言葉を話す着ぐるみのような化け猫・あんずちゃんと東京からやってきたこまっしゃくれた少女・かりんのひと夏の同居生活ときどき冒険を描き出す。あんずちゃんはもともと池照町にある草成そうせいおしょーさんに拾われ育てられた子猫だったが、いつまで経っても死なず、30年が過ぎたころ化け猫になっていた。37歳(原作では32歳)を迎え、中身は中年の「おっさん」のようになったあんずちゃんは、按摩のアルバイトをしながら草成寺に居候を続け、釣りやパチンコを楽しむ気ままな生活を送っていた。そこへ、長年音信不通だったおしょーさんの息子・哲也が娘のかりんを連れて突然戻ってきたことから、本作の物語は動き出す(厳密に言えば、後述するように動き出しはしないのだが)。借金取りに追われ、金の無心をする哲也に立腹したおしょーさんは哲也を寺から叩き出す。実家の寺を追われた哲也は、死別した妻の命日までには戻ってくると言い残し、かりんを置いて姿を消してしまう。こうしてかりんは池照町に置き去りにされ、哲也が戻ってくるまでのあいだ、奇妙な同居人・あんずちゃんをはじめとした池照町の人々と過ごすことになる。

 実は、成長後の哲也とその娘かりんは原作にはいない登場人物である(*)。キャラクターデザインだけを見ても、ぱっちりと開いた目を持ち、細身で顔の小さなかりんは原作の絵柄におおむね準拠した池照町の人々のなかで明らかに浮いている(ちなみに、哲也も原作では父親であるおしょーさんに似た顔つきをしている)。この違和はかりんが池照町へのちんにゅうしゃであることをはっきりと示している。映画の冒頭で、カメラ・ポジションが池照駅舎の外から中へと引きながら、途中でかりんがぬっと画面に入り込んでくるとき、彼女はあたかも視聴者の代理人のように池照町に踏み込み、「見ない顔」としてひと夏を過ごす役割を帯びていると言える。しかしながら、本作はこの可愛らしい闖入者を創作的に生み出しながらも、非常に好ましいことに、彼女に聖女ないし娼婦としての特権的な力を与えようとしない。端的に言えば、かりんは世界を自分の意のままに操れるような力を持っていない。たとえかりんが池照町の男子小学生をメロメロにしたとしても、それは東京という大都会のイメージがいわゆる「田舎者」に物珍しく見えているだけであって、かりんの居心地がよくなるわけではないし、池照町は何ら変わらない(ここで『海がきこえる』、『Wake Up, Girls!』、『ラブライブ!サンシャイン!!』といった作品を想起するのは正当であろう)。

(*)ちなみに、原作とのもう一つの大きな相違点として、草成寺のおかみさんの不在が挙げられる。映画においては、おしょーさんはおかみさんと死別して、あんずちゃんと二人で暮らしていることになっており、この改変はひっそりと静まりかえった境内の俗世から切り離されたような異界感を強めるとともに、この世に取り残されたおしょーさんとかりんの心淋うらさびしさを印象づけている。なお、この改変について、原作者のいましろたかしは「かりんはいいんですよ。でも、あんずちゃんに唯一冷たい態度をとるおかみさんがいないのは、僕としてはなんか寂しい。ほかの人はあんずちゃんに甘いという対比がいいなと思ってたから」と語っている(『BRUTUS』第1012号、2024年、106頁)。

 このことは、映画の前半がかりん不在の原作に含まれているエピソードを中心に構成されていることからも窺われる。あんずちゃんがバイクの無免許運転を警察に咎められ、友達のよっちゃんと日当のために川鵜退治に出かけ、よっちゃんに取り憑いた貧乏神を「男の勝負」で退場させ、森の妖精ピーピーちゃんを拾い、自称大妖怪のカエルちゃんと知り合い、カエルちゃんの妖怪仲間たちを寺に招いて宴会を開く――この一連の流れにおいて、かりんは「いてもいなくてもいい」余所者にすぎない。かりんは自分が蚊帳の外に置かれていることに我慢がならず、徐々に「つまんねぇ」世界に影響を及ぼそうと行動するようになる。あんずちゃんの自転車が盗まれ、橋の下に投げ捨てられる展開は原作にも見られるが、それをかりんが手引きしていたというのは映画の創作的な想像力の所産だ。さらに、かりんは戻ってこない父親に苛立ち、母の命日に墓参すべく寺を抜け出して東京を目指すが、当然小学生一人では東京に辿り着くことはできず、やむをえず途中下車して遭難しかける。この失踪事件によって、かりんは令色と気前のよさによって他人の歓心を買い、嘘と誇張によって他人の同情を引くこまっしゃくれた子供の殻を破り、ようやく大人に迷惑をかける「めんどくさいガキ」になる。しかし、繰り返しになるが、かりんは無力・無思慮な子供であって、いくら世界を攪乱しようとしても限界がある。それに、かりんは破れかぶれの非行や自傷に及んだり、兇悪な事件を引き起こしたりすることができない程度には「いい子」なので、結局のところ池照町は何も変わらない。かりんの叫びは池照町、具体的にはあんずちゃんに「吸音」されて消えてしまう。

 かかる「吸音」という特徴は、あんずちゃんを演じる森山未來の「フム……」といった呑み込む声、すなわち言い返さない・反論しない様子によって与えられている。かりんがどんなに詰ろうが、わがままを言おうが、あんずちゃんは「さて、どうしたものかねえ……」とばかりに顔を上げ、かりんの言葉を受け止め(受け入れ、ではない!)、そのうち画面が暗転して次のシーンが始まる。この一つ一つの「吸音」がかりんの情操教育に資するものであると言っても、決して過言ではないはずだ。なぜなら、かりんはちゃらんぽらんな父親に振り回されることに慣れてしまっており、他人に対する期待と信頼の回路をひどく傷つけられているからである。かりんが掛け値なしに何でも言える相手、自分の弱さや苦悩をさらけ出せる相手としてあんずちゃんを見つけたのは幸いであった。あんずちゃんは要はかりんのサンドバッグかもしれないが、これまでかりんの世界にはいなかったタイプの成年者、すなわち庇護も同情も加害もしない、ただその場に居合わせるだけの壁打ち相手――それを「友達」と呼ぶべきかは難しいところだが――として、かりんが後に振り返って感謝すべき存在となることだろう。

 そんなあんずちゃんのものぐさな様子やけだるげな雰囲気は森山未來という役者の肉体に多くを負っている。この意味を明らかにするためには、本作がロトスコープという技法で制作されているということに触れておく必要がある。本作はまず、役者が生身の体を使って現実のロケーションで演技をする様子を撮影し、続けて、その実写映像をトレースしてアニメーション用の作画を行うという工程で作られている。ここでは、声優がある程度仕上がったアニメーションに声を同期させるわけでも、反対に声の演技が先行して作画にインスピレーションを与えるわけでもなく、役者の肉体およびそれと密接不可分に結びついた声、換言すればすでに映像と同期された声(無言のシーンであれば同期された「間」)が絵の方向性を決める。声優もとい役者の声はいつだって匂い立つけれども、ロトスコープの場合にはその匂いは「体臭」とも言うべきものになって際立っている。国内外のアニメーション映画作品の配給を手掛ける土居伸彰は、本作のロトスコープを「現実と虚構のあわいを揺らぎながら、たゆたうような人間観を描き出すための方法論」と説明し、「一般的にマンガやアニメーションは、見た目と内面がイコールになるような揺れのない記号としてのキャラクター表現を得意とするが……〔注:映画『化け猫あんずちゃん』においては〕キャラクターたちは実写とアニメーションのあいだで揺れ動き、定義されず何者でもない状態の揺らぎを保ちながら、しかし存在感だけは保ち続けることで流動性・匿名性のある人間のあり方を現出させる」と評している(土居伸彰「連載時評 まだ見ぬアニメーションを求めて」第13回、『キネマ旬報』2024年8月号、2024年、157頁)。土居の言葉を踏まえると、「現実と虚構のあわい」における「揺らぎ」と「存在感」の同居が先述した「体臭」を発している、と言うこともできる。すなわち、ここでは視聴者がしばしば幻視するキャラクターと役者の二重写しの確度は極限まで高められている。あんずちゃんは猫耳をつけて撮影に臨んだ森山未來の着ぐるみというよりも皮膜に近づいているし、後述する閻魔大王の落ち着き払った怖さは宇野祥平のネイティブ関西弁とバイプレイヤーに徹する胆力に起因している。同様に、闖入者かりんの見てくれとスレ加減もとう希愛のあの容貌と表情ありきの部分は大きいと言わざるをえず、この点に関しては未熟な美少女を愛玩し着想源とすることの是非をめぐって批判的に捉える余地もある。

 ともあれ、かりんの失踪事件を皮切りに、映画は独自の展開を見せる。かりんは母の墓参のためにあんずちゃんをお供につれて東京に戻り、父のいない自宅、ボーイフレンドの通う学習塾、母の納骨堂をめぐる。かりんは父の料金滞納によって納骨堂に入ることができず落胆するが、あんずちゃんが東京で貧乏神と再会したことをきっかけに、貧乏神の力を借りて地獄へくだり、地獄の清掃員をしている母と久々の対面を果たす。しかし、生者が地獄を訪れるのはルール違反であった。獄卒の鬼たちに見咎められたかりんは、思わず母を連れたまま現世に戻ってきてしまう。こうして、かりんたちと鬼たちの追いかけっこもといカーチェイスが始まり、かりんたちは徐々に閻魔大王の手の者に追い詰められていく。最終的にかりんの母は厳罰を一身に引き受ける覚悟でかりんたちを庇い、閻魔大王を納得させて地獄へと戻っていく。劇場販売のパンフレットによると、地獄に行く展開は「アニメーションとして飛躍のあるシーンがほしい」というシンエイ動画の近藤慶一プロデューサーの発案によるものとのことだが、この一連のシーンは本作を「喜劇」と呼ぶにふさわしい水準へと押し上げることに成功している。というのも、映画の後半は徹底的に人間の愚かさと弱さを描き出しつつも、それらを逃れがたい人間のさがとして温かく見つめているからである。かりんの冥府行きは蛮勇と言っても差し支えない。かりんは地獄の恐ろしさを知らないがゆえに地獄へくだることを選択してしまう。かりんは後先の考えもないからこそ死んだ母の手をとって走り出してしまう。また、かりんの危機に駆けつける妖怪たちも鬼たちには敵わない(かりんからも弱いと言われてしまう始末である)。だが、かりんにとって地獄へ行くのは「今」でなければならなかったし、待ち焦がれた母との再会を果たして、母の手をとることは必然であった。妖怪たちにとってもかりんの一大事に馳せ参じるのは「今」でなければならなかった。そこには切迫感があり、熟考する余裕も勝算を吟味する時間もない。後になって冷静沈着に判断すればいいなどと悠長に構えていたら、かけがえのないものが永遠に失われてしまうかもしれない。保全するのは「今」しかないのである。この切迫感に駆られた、真摯とも言うべき行動も、引きで見れば愚かで滑稽に映ることがある。それこそが「喜劇」の可笑しさであって、自称中立を決め込んだ冷笑や意地の悪い嘲笑とは別種のものである。そう、本作は映像の快楽と人間愛(philanthropy)を見事に両立している。昆虫や小動物を使った伝言のシークエンスは単純に目を引くし、妖怪おばばが宝くじで当てた3億円で買ったカウンタックがかなり気合いの入った作画で閻魔大王の前に滑り込んできたと思ったら、一瞬でスクラップ同然になってしまうシーンも、高価なモノを無駄遣いして台無しにしてしまうという破壊的な逸脱そのもので笑いを誘う。しかし、本作は決して人間関係・愛情・友情を浪費的に茶化したりはしない。本作は他人に期待を抱き、他人を信頼することの尊さは前提としたうえで、期待・信頼のあらわれ方を面白おかしく演出しているのである。まさしく、「人生は寄りで見れば悲劇のようなものだが、引きで見れば喜劇のようなものである」という警句を彷彿とさせるクライマックスだったと言うことができる。

 本作には、悩める我々を助けてくれる英雄的人物も、我々の人生の指針となるような模範的人物も登場しない。かといって、いわゆる「ダメ人間」ばかりが出てくるわけでもない。本作は過剰さや華美さを排した「何も起こらない物語」である。かりんは地獄に行って戻ってくるという珍しい経験をしたけれど、結局死んだ母は生き返らないし(仮に母が地獄の責め苦に苛まれるとしても、かりんがその様子を逐一見ることはないし、母の死という現実はそもそも動かない)、父の素行や父との関係が根本的に是正されたわけでもない。全体として見れば、池照町の日常は平衡を保っており、かりんは最後までたいした影響力のない闖入者のままであり続けている。安易な奇跡は起こらず、かりんは日々の練習の結果、逆立ちができるようになったという真っ当な自己成長を遂げたにすぎないのである。しかしながら、この「何も起こらない物語」がこの上なく丁寧に人生の機微・喜怒哀楽を描き出したひだの深い作品でもあるということは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。本作は女子中高生が駄弁る様子ばかりを映した恣意的な「日常」風景などとは無縁であるし、過剰装飾の人工的な(それでいて脊髄反射的な)「繊細さ」やひりつく「青春」などといった虚飾とも一線を画している。だからこそ、本作は永続しない一瞬の煌めきを捉えることにかえって成功している。あんずちゃんは地獄では物言わぬただの猫に戻ってしまった。つまり、あんずちゃんがチャーミングな化け猫として地域のなかで暮らしているのもたまたま「今」そうなっているだけの不安定な状態にすぎないということだ。実は、本作最大の奇跡とは、あんずちゃんが特に何をするでもなく、ただそこにいてくれることなのである。「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」とあんずちゃんは言う。その言葉に影響されたのかはわからないが、かりんは借金を清算して戻ってきた父とともに東京へ帰るのではなく、電車を降りてあんずちゃんのもとへ駆けていくことを選んだ。かりんに池照町を立ち去らせなかった制作陣を、モラトリアムを延長して「終わらない夏休み」を享受させ、階段をのぼらずに踊り場を低徊し続けることを肯定するものとして批判するのは簡単だろう。しかしながら、人間の弱さや憐れさを見つめる意味でも、もうちょっとだけあんずちゃんと会えたこの奇跡に甘えてもいいよね、という立場を私は支持する。そして、このタイミングで『化け猫あんずちゃん 風雲編』の漫画連載が新たに始まった。まだまだ新しいあんずちゃんの活躍(?)を拝めるとは僥倖である。

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参考文献

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社、2007年(Kindle版:2024年)。

『キネマ旬報』2024年8月号、2024年。

『BRUTUS』第1012号、2024年。

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髙橋優
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