吸い込まれるような漆黒、または絶対的な虚無:『ふれる。』を穿つ永瀬廉の声
はじめに
その前ではすべてが瞬く間に静止する――永瀬廉の声は絶対的な響きをもって聞こえた。ここでは「聞き惚れる」などという表現は適切ではない。私は彼の声の前に、ただ呆然と立ち尽くすほかなかった。
2024年10月4日に劇場公開されたアニメ映画『ふれる。』は、端的に言って、アイドルグループ・King & Princeのメンバーである永瀬廉のために用意された演舞場のような作品だった。本作のオフィシャルな宣伝においては、長井龍雪が監督、岡田麿里が脚本、田中将賀がキャラクターデザインを務めるという布陣がその主軸をなしていた(*)。しかし、実際に蓋を開けてみると、本作においてはこの三人の「作家性」と雑に総括されがちな要素(主にはストーリー、メッセージ、絵の質感)よりも、主演を務めた永瀬の魅力のほうがはるかに際立っていた。
誤解のないように断っておくと、ここでいう「永瀬の魅力」とは、King & Princeファン(とりわけ永瀬ファン)が安全に堪能できるように成分調整された甘い蜜ではなく、観客に発見の喜びと不明の恥じらいをもたらすような強烈な心理的刻印を指している。後述するように、本作が内容の面で貧弱さ(それは「たわいなさ」でもある)を抱えているがゆえに、観客はストーリーやメッセージに振り回されることなく、結果として永瀬の声に集中して耳を傾けることが可能となっている。本作は芸術的に見ても、商業的に見ても、一つの作品として成功を収めたとは言いがたい。しかし、逆説的なことに、本作は永瀬に声優としてのキャリアの積み重なりを提供し、同時に観客にも永瀬の声を通じて予想以上の強烈な印象を残すことに寄与した。以下、本稿では『ふれる。』とその他いくつかの作品を取り上げながら、アニメに吹き込まれた永瀬の声について考えることにする。
『空の理想郷』から『ふれる。』への飛躍
永瀬にとって、アニメの声優を担当するのは『ふれる。』で二回目となる。永瀬の声について考えるうえで、永瀬が初めて声優に挑戦した作品である『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』(2023年、以下『空の理想郷』と略記)を振り返るのは意義深い作業である。永瀬は『空の理想郷』において、人の心を操る研究に取り憑かれたマッドサイエンティスト・レイ博士によって「パーフェクトネコ型ロボット」に改造されたソーニャという役柄を演じた。ソーニャはもともとは不出来なロボットであったが、捨てられていたところをレイ博士に拾われ、「パーフェクト」な存在となるための改造を施された。ソーニャは笑顔を失い、感情を大きく表出することもなくなる代わりに、レイ博士が支配する空中都市「パラダピア」の有能なガーディアンとなったのだった。
永瀬は『空の理想郷』の段階からすでに、精神的に虐待・抑圧される役柄にアジャストした虚無感を声によって醸し出すことに長けていた。ソーニャの無表情および柔らかな物腰と永瀬の憂いを帯びた声とが相俟って、ソーニャは物語の序盤から底知れぬ怖さを感じさせる。ここでいう憂いとは、ただ命令に服従するだけのマシーンと化すことに対する力及ばぬ抵抗から生じるものである。永瀬は完全なる諦念や納得ずくの冷酷さに安易に頼ることなく、内部の葛藤をむりやり抑え込むことに挑んでおり、その結果として声に憂いをまとわせることに成功している。だからこそ、ソーニャがレイ博士から「またガラクタに戻すぞ!」と怒鳴られて硬直する中盤のシーンと自らの心理的拘束を解いてレイ博士に説教を述べる終盤のシーンを両極として、永瀬は振れ幅の大きな演技を成し遂げることができたのだと言える。とはいえ、『空の理想郷』において、ソーニャはあくまでゲストキャラクターの一人にすぎず、永瀬の印象ばかりが強烈に残るようなアンバランスな事態は生じていない。それに、全人類の心を意のままに操るというレイ博士の野望が打ち砕かれた後、地上へ落下を始めたパラダピアを食い止めるため、ソーニャはパラダピアの始末を一身に引き受けるという勇壮な挙に出るから、永瀬も最後の最後にノーブルかつヒロイックな調律を行い、若干のわざとらしさ(俗に言う「いかにも感」)を残さざるをえなかった。永瀬が前述の虚無感をさらに煮詰め、声優として明確な爪痕を残すようになるには、『ふれる。』における主演経験を待たなければならなかった。
『ふれる。』における永瀬の演技は、『空の理想郷』におけるそれの順当な発展形として理解することができる。『ふれる。』において、永瀬は小野田秋という口下手な青年を演じている。秋は幼少の頃から仕事で忙しい両親に遠慮して、自分の希望や感情を言葉に出して伝えることを躊躇するうちに、他人とうまく言葉を交わすことができなくなってしまった。秋が自分の気持ちを抑圧すればするほど、秋の心に積もった澱は吐出口を求めて暴れまわり、秋を衝動的な暴力へといざなうようになった。無口で、何かあればすぐに暴力に訴える問題児は当然ながら子供のコミュニティで孤立を深める。秋は同年代の子供たちの輪に入ることに強い憧れを持ち、彼の暮らす離島に伝わる「ふれる」の伝説に一縷の望みを託す。「ふれる」とは人と人の心を相互に通わせ、人々の諍いを収め、人々を一致団結に導いたと伝えられる神や妖怪のような存在であり、秋はその力を借りて友達を作ろうとする。秋は海辺の洞穴を探索するなかで、離島の伝説に語られる姿によく似たハリネズミのような生き物を見つけ、捕獲して子供たちのもとへ連れ帰る。すると、この生き物は膨れ上がり、秋・祖父江諒・井ノ原優太の三人を不思議な力で繋げてしまう。三人はお互いの肉体に触れ合うことによって、相手の考えていることが自然と流れ込んでくる体質になったのだ。お互いの心の声を聞くことができるという「秘密」を共有した三人は、この不思議な生き物を「ふれる」と名付けて世話をするようになり、親友の仲になっていく。「ふれる」を介した三人の友情は永遠に強固なままにも見えた。しかし、秋はバーテンダー、諒は不動産会社の会社員、優太は服飾専門学校の学生として、三者三様の人生が動き出すなかで、三人の関係は少しずつ変容を迫られていく。
永瀬は秋という役柄において、抑圧の強度をこの上なく高めている。秋は意思能力がないわけではなく、うまく意思表示をすることができないだけである。しかし、表示されないかぎり他人の意思を読み取ることは不可能なので、口下手でありながら暴力的な青年は「何を考えているかわからない」人間として不気味に映らざるをえない。永瀬は『空の理想郷』で片鱗を示した虚無感を今般も遺憾なく披露し、吸い込まれるような漆黒、絶対的な虚無を体現することによって、秋という役柄に抜群の説得力を与えている。全体としてはけだるげで、ボソボソと悪態をつき、不平不満を何度も反芻して濃縮し、自分のことを理解してくれたと錯覚できる相手が現れればたちまち舞い上がって饒舌になり、叫び慣れていないために興奮すると声が上擦ってしまう――そんな秋の感情の機微は、とにかくボラティリティを低く抑え込んだ永瀬の声によって丁寧に跡付けられている。しかし、同時に、強力なセルフコントロールを成し遂げている永瀬の声からは絶対的な冷たさとドライさが滲み出ている。この冷たさとドライさが観客の耳朶で炸裂するとき、観客はその場に釘付けにされることだろう。畢竟ずるに、永瀬の声は市ノ瀬加那や内山昂輝と並べうる自縛的・厭世的な志向性を持っているとも評しうるのである。
信頼関係の不在とフィルターとしての「ふれる」
永瀬はウェブメディア「FASHION PRESS」に掲載されたインタビュー記事(2024年10月1日公開)において、インタビュアーから声優業の魅力を尋ねられ、「声だけに集中して演技できるところ」と答えている。永瀬は続けて、「普段、音楽や俳優として活動させてもらっている中で、ビジュアルを大事にしている分、声優ではどんな表情をしてセリフを言ってもいいし、身だしなみや動きも意識せず、演じられるところが好きですね」とも語っている(強調は筆者による)。
興味深いことに、ウェブメディア「クランクイン!」に掲載されたインタビュー記事(2024年10月23日公開)においては、少しニュアンスの異なる踏み込んだ発言が見られる。永瀬は俳優業と声優業の違いを尋ねられると、「声だけが僕の要素として出るわけなので、そういう意味ではどういう表情をして、セリフを言ってもいいし、動きや見え方を気にしなくていいのは、すごく楽チンだな」と思ったと述べている(強調は筆者による)。
声の芝居は表情・動き・見え方を気にしなくていいから楽だという発言は、声優業を(さらに言えば、テレフォンオペレータのような仕事も!)甘く見ているとも受け取れる。しかし、この発言を他の発言に照らして考えると、永瀬の音声に対するドライな認識が透けて見えてくる。永瀬は前述の「クランクイン!」のインタビュー記事のなかで、自分の声については「何も思わない」、「自分では声に対して良いとも悪いとも感じない」、さらには「自分の声に対しても、他の人の声に対してもそんなに。声は声だなって」というきわめてドライな発言を繰り返している。前述の「FASHION PRESS」のインタビュー記事のなかでは、「声ってその人の個性だから、いいも悪いもないと思う」というニュートラルな表現にとどまってはいるが、これも音声に関する美的基準を持ち合わせていないと言っているようなものであり、共演者である坂東龍汰・前田拳太郎のコメントとの温度差は著しい。インタビュー記事の書き手の作為をどの程度差し引いて考えるか、そして語り手をどの程度信用するかという問題はあるにせよ、永瀬のドライな認識が秋という役柄からわざとらしさを剥ぎ取り、ひいては『ふれる。』という作品が拠り所とする人工的な感傷を遠ざけているのだとすれば、これほど小気味よいこともあるまい。
『ふれる。』の中盤において明かされるのは、「ふれる」の能力が他人の心の暴露というよりはむしろ他人の「秘密」の尊重に関わっていたという事実である。「ふれる」は人と人の心にトンネルを掘って、相互にあけすけな丸見えの状態を作り出すわけではなく、実は人と人のあいだに入り込んで、相手に対する恨み・嫉妬・害意といった悪感情を相互にフィルタリングする性質を持っていた。秋・諒・優太の三人も「ふれる」を介して、お互いにお互いのことを聖人のような全き人格者と誤認しており、後ろ暗い感情を抱えているのは自分だけだと思い込んでいた。しかし、三人の置かれた立場や生活リズムにズレが生じ、あまりに人工的に作出された男女間の複数の三角関係も相俟って、お互いに不平不満が募るなかで、三人はお互いの心の声を聞くことができない場面が増えていく(実際には「ふれる」が悪感情をフィルタリングしていただけである)。もちろん、「ふれる」とて言語によるコミュニケーションを阻害するものではないから、不平不満を口に出して相手に伝え、相手と話し合って落とし所を見つけることは妨げない。しかし、「ふれる」を介した肉体的接触に依存していた三人にとっては、お互いに「本音」を打ち明けず、ただ表面的に揉めないだけの関係を友情と勘違いしていたことが許せない。相手の隠し事を含めて心の底まで、裏側まですべて明らかになったほうが楽だという心理である。意思とその表示(行為)のあいだにズレがあることを許容できず、「表側」にちょうど対応する「裏側」があることに固執するのは、相手の「秘密」を尊重しない態度であり、このような者たちのあいだに信頼関係は成立しない。そして、相手の「本音」に裏切られることを過度に恐れれば恐れるほど、かえって「表側」を調整さえすれば確かな「裏側」があるかのように偽装できると考える詐欺師に騙されやすくなる。
ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕は、横浜市の桐蔭学園での講義録である『誰のために法は生まれた』(朝日出版社、2018年)のなかで、信頼関係について次のように述べている。『ふれる。』に関する議論の補助線として紹介しておこう。
木庭は受講者のEさんが「授業で一生懸命ノートを書くじゃないですか、そのノートをみんなよく写真に撮りに来るんですよ。ごめん、ちょっとここ聞いてなかったから見せて、みたいな。それがときどきすっごい嫌なんですね。私が頑張って書いたノートをなんでそんなに気楽に撮ろうとするのかって思って」(同書130頁)と発言したことを受けて、次のような補足も加えている。
ここでいう「親密な部分」とは、「秘密」と言い換えてもよい。そして、重大な「秘密」を他人に打ち明けるためには死を覚悟しなければならないというのが、夏目漱石『こころ』が示した重要な定式である(アウティングが被害者を自殺へ追いやることを思えば、この定式は容易に理解できるはずだ)。したがって、『ふれる。』の主要登場人物たちに見られる相手が「秘密」を持っていることに耐えられない、それでいて相手の「秘密」が暴かれたときには動揺を隠せないという心理は貧弱極まりないとしか言いようがない。優太を演じる前田拳太郎のふてくされる様子、言ってはいけないことを言ってしまうことに拍車がかかる様子は、この貧弱さを際立たせるうえで非常に効果的であった。なおかつ、優太が被害妄想を膨らませ、言葉を荒らげれば荒らげるほど、感情の表出を堪えながらも自暴自棄になる秋の様子が際立ち、そこに息を吹き込む永瀬のドライな感性が作品に対する密かな批判としてキラリと光ることになる。
秋・諒・優太のあいだの信頼関係の不在は、周囲の人間にも悪影響を及ぼしている。特筆すべきは、優太が思いを寄せる浅川奈南を巡る一連の描写である。奈南は秋に惹かれているにもかかわらず、優太と二人きりになったとき、優太にキスを許してしまう。優太は秋・諒に奈南とキスしたことを話してしまい、秋・諒は優太と奈南が付き合ったと判断して、勝手にサプライズパーティーを企画する。パーティーに招かれた奈南とその友達が優太との交際を否定すると、諒はキスを許したなら性的同意があったに決まっていると言わんばかりの反論を述べ、秋はどれだけ流されやすいんだ、そんなんだからストーカーも寄ってくるんだと奈南を詰る。『ふれる。』の明確に良くない点は、女性を媒介項とした男性同士の絆、すなわちホモソーシャリティを批判的に描き出すのではなく、中途半端なイメージをもって現状肯定的に見せていることである。本作は性的同意の件を除いても、「ふれる」の能力のために男性同士で肉体的接触があることをもって「できてる」とからかい混じりに描いたり、基本的に男性はバカでデリカシーがないという既成概念を上塗りしたりするなど、「そういうものだから仕方ない」という迎合的なメッセージを発することに陥っている。奈南に対する二次加害の描写は、いかに本邦で信頼関係が成立しえないか、なあなあでずるずるべったりな「空気」が充満しているか、そしてそれに対する批判が機能していないかを嫌というほど垣間見せてくる。したがって、本作が結論としては胸襟を開くこと、すなわち思いの丈を言葉を尽くして相手に伝え、ときに言い合いになって傷つきながらも、「本音」でぶつかりあえる関係を築くことを奨励するのは、信頼関係の何たるかを弁えていないという意味では一貫していると言える。言葉を尽くすことと軽々しく「秘密」に踏み込むことの区別がついていない点こそ、本作が抱える「たわいなさ」の核心なのである。
だとすると、「ふれる」は偽りの友情を手に入れるための「ズル」などではなく、実はお互いに「秘密」を尊重し合う信頼関係の重要性を訴える鍵だったとも言える。秋・諒・優太の三人を間近で見守り続けた「ふれる」自身は、最初から最後まで言葉を発することのない生き物である。また、三人は「ふれる」の能力で繋がっていても、言葉を発しない「ふれる」自身の感情や思考を読み取ることはできない。その意味で、「ふれる」は三人にとって決して「本音」や「秘密」を知ることのできない絶対的な他者として存在している。したがって、物語の終盤で三人が和睦を遂げ、もはや「ふれる」の能力を必要としなくなり、「ふれる」が暴走して東京中の人々の心を無差別に繋げ始めたとき、「ふれる」をこの世界に呼び込んだ張本人である秋が「ふれる」に対してこれからも一緒にいようと語りかけたのは、本作の土俵際に残された一縷の希望でもある。秋の申し出に「ふれる」が何を思ったのか、「本音」はわからない。しかし、「ふれる」が瞳を輝かせる描写だけで観客には十分伝わるだろう。『空の理想郷』でソーニャがドラえもんという友達を得たように、『ふれる。』で秋は「ふれる」というかけがえのない友達を手に入れた。秋にとっては、「本音」を打ち明けられる気の置けない仲間たちよりも、実は「秘密」を尊重できる「ふれる」のほうが重要だったのだ。三人の共同生活が終わりを迎え、三人がそれぞれの道に散っていくとき、秋に寄り添うのは「ふれる」である。「ふれる」と釣り合う作中唯一の人間である秋という役柄に、見通せない深淵を与えた永瀬の功績はあまりに大きい。永瀬の声が持つ冷たくドライな虚無感こそが、かえって人間の信頼関係に目を開かせる潜在的な力として、『ふれる。』という作品を内部から突き崩しているのである。
おわりに
閉鎖的な環境における三人の青少年の友情・衝突・和睦を描いたアニメ映画といえば、いしづかあつこの監督作『グッバイ、ドン・グリーズ!』(2022年)が記憶に新しい。この作品を引き合いに出すことによって、『ふれる。』の美点も改めて明らかになると思うので、最後に比較対象として取り上げることにする。『グッバイ、ドン・グリーズ!』は関東の田舎町を舞台として、コミュニティにうまく馴染めず孤立している二人の少年がアイスランドからやってきた少年を迎えて経験したひと夏の冒険を圧倒的な映像美で描いた作品である。『グッバイ、ドン・グリーズ!』の難点は、なんといっても音声面のわざとらしさに尽きる。田舎町で鬱屈した日々を送る冴えない少年・ロウマ役に花江夏樹、東京の高校に進学したがそこで馴染めずに田舎町への郷愁を深める少年・トト役に梶裕貴、アイスランドからやってきた現実味のない煌めきを放つ少年・ドロップ役に村瀬歩が配されているのは、確かな腕を持った声優に優良なパフォーマンスをさせるという安全な布陣にも思えるが、実際に蓋を開けてみると、自己主張の過剰さばかりが目立つ結果となった。未成年者が田舎町のなかでいかに自分たちが無力かを思い知るという「何も起こらない物語」を感傷的に彩るにあたって、花江・梶・村瀬という三人の声は灰汁が強すぎる。田舎町の通俗性を軽蔑しながらもそこから脱出することはできず、仮に脱出できたとしても外側の都市で水平的な人間関係を新たに構築することは難しいという煩悶、そして心理的距離の縮減によって世界各国・各都市間(作中では日本、アイスランド、アイルランド、ニューヨークが登場する)の物理的距離を主観的に度外視するようになる飛躍した慢心――こうした「若気の至り」というものは臨場感たっぷりに演じようとすればするほど、アドレセンスを特権化・追憶する中年的な嫌らしさを強調することになる。『グッバイ、ドン・グリーズ!』から言えるのは、人工的に作出された繊細さ――語義矛盾なのは百も承知だが――すなわち「貧弱さ」や「たわいなさ」を抱えたわざとらしい作品を輝かせるためには、少なくとも音声面ではわざとらしさを削らなければならないということだ。その意味で、永瀬・坂東・前田を主要登場人物に配した『ふれる。』は均衡を完全には失していないし、ストーリーやメッセージがいくつかの問題を含んでいるとしても、全くの駄作というには惜しい、可愛げのある作品にとどまっていると言いうるのである。
参考文献
木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年。