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高咲侑と伝道する12人の使徒:TVアニメ『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第2期が示したアイドルアニメの新常態

※本記事は2020年12月28日に公開した『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第1期評の続編です。前回記事も併せてお読みください。

はじめに

それは、一言で言えば、virtualityとrealityの境界が見失われ、realな世界へactualにかかわることなしに、時には暴力的なまでに強引にvirtualな世界を現実化しようとする「変身」の倫理であると言うことができます。

(日比野勤「主体と制度:法主体と法制度」『法社会学』第64号、2006年、52頁)

新新宗教や新霊性運動においては、ひとびとは日々の生活やそれまでの人生の反省から出発しており、共通の根拠関係への依拠が志向されているように見えますが、関心はもっぱら自分自身に向けられ、自分が変わることで世界もおのずから変わると考えられている。そこでは世界へのactualな関心は稀薄です。

(同論文53頁)

 TVアニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(以下、『ニジガク』と略称)は「アイドルアニメ」ではない――筆者はそのように『ニジガク』第1期評を書き出した。しかし、筆者は『ニジガク』の真の実力を見誤っていたのかもしれない。2022年4月から6月にかけて放送された『ニジガク』第2期は「アイドルアニメ」の新常態ニュー・ノーマルを示していた。その出来映えに筆者は唖然とするほかなかった。

 筆者は『ニジガク』第1期評において、本作の主人公・高咲侑がスクールアイドルならざる立場でありながら、悩めるスクールアイドルのあいだに入り込み、自らを頂点とするセグメンテーション(枝分節)、すなわち理論上は無限に下位の項(子方)を作り出す底辺なき三角形の連鎖を形成・拡大する過程に着目して、侑をスクールアイドルの僭主(Tyrann, tyrant)と呼んだ。そして、融通無碍にスクールアイドルの身辺と客席を往来する侑の行動がかえって侑の支配圏を揺るがすことになり、第1期の最終回で侑は複数二人称(=you)で名指される群衆のなかに埋もれていったことを指摘し、スクールアイドルの僭主は暫定的に放逐されたと結論づけた。スマホアプリ「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS」のプレイヤーキャラクター=「あなた」から派生した侑というキャラクターは、再び「あなた」へと回帰していったというわけだ。さらに、このような構造がスクールアイドルを一方的にまなざし、意のままに操縦する特権的な地位に惹かれる消費者の欲望を浮かび上がらせていることも指摘した。

侑を頂点とするセグメンテーション(第1期評より再掲)

 以上要約した見立ては、侑が音楽科への転科試験に合格し、作曲のスキルを習得した場合には再考を余儀なくされる。なぜなら、侑がスクールアイドルに楽曲を授けられるようになったとき、ωオメガ(スクールアイドルに動機を与える輝き)が侑のトキメキというプリズムを経由して各人に放射されていくという前述のセグメンテーションは磐石の構造となるからだ。2022年4月、侑は音楽科への転科を果たし、作曲担当として戻ってきた。2年前の筆者の危惧はいよいよ現実のものとなるように思われた。しかし、不明を恥じなければならないが、僭主が正統性を備えてしまう危険性ばかりに気を取られるべきではなかった。一度強固に成立したセグメンテーションの末端は、あたかも自生しているかのように、ひとりでに枝を伸ばしていく。この点にこそ警戒を示すべきだったのだ。
 『ニジガク』第1期では、ラブライブ!という大会から切り離された同好会の内側に焦点が絞られていた。だから、侑とスクールアイドルの一対一の関係を前提として、スクールアイドルが一人また一人と侑に屈服し、侑の支配圏に引きずり込まれるだけで済んでいた。しかし第2期にいたって、三船栞子(CV: 小泉萌香)ミア・テイラー(CV: 内田秀)しょう嵐珠らんじゅ(CV: 法元明菜)という同好会にまだ入会していない3人のキャラクターが追加投入されると、同好会の内と外との境界が「鮮明」となり、 侑の一次的な支配圏に引きずり込まれた少女たちが侑を代位して、つまり侑自身はもはや動くことなく、勧誘を通じてセグメンテーションを二次的に拡大させる構図が前景化することになった。
 本稿は、『ニジガク』が歌って踊れる憧れの的という意味の「アイドル」ではなく、モノホンの「偶像アイドル」を取り扱った作品であること、換言すれば侑は真の意味で崇拝対象としての「偶像アイドル」となったのであり、彼女は僭主を超えてグルと呼ぶべき存在に羽化を遂げたのだということを明らかにするものである。

主人公格のイニシアティブとユニットの結成

 『ニジガク』第2期の前半(第1話~第6話)では、QU4RTSクオーツ(かすみ・彼方・エマ・璃奈)、DiverDivaダイバーディーバ(果林・愛)、A・ZU・NAアズナ(歩夢・しずく・せつ菜)という同好会内ユニットが鼎立するまでの過程が描かれる。筆者は第1期評において、エマ・愛・歩夢の3人を主人公格のキャラクター(問題を自己解決することができ、かけがえのない友人を「輝き」の世界に引っ張り込むことができる者)と位置づけた。第2期の前半におけるユニットの結成過程でイニシアティブを発揮するのが、主人公格の3人であることはやはり見逃せない。加えて、第2期の前半で侑の影は終始薄いため、表面的には、第2期の前半は「アイドル戦国時代」以降の標準的な「アイドルアニメ」文法に従っているように見える。
 第2話(以下、特に断りがない場合は第2期のエピソードを指す)において、かすみ・彼方・エマ・璃奈の4人は嵐珠の孤高の姿勢(後述)にあてられて、横一列に並んだ公園のブランコに腰掛けながら、アイドルとファンの望ましい距離、アイドル同士の適切な距離について語り合う。エマが「私たちのライブはソロだけど、どこか一緒って気持ちあるよね」と切り出すと、部長のかすみは「かすみんたち、普段はバラバラなんですけど、前のフェスティバルでは同好会みんなで歌いましたよね」と応じる。しばし無言が続いた後、エマは「ねえ、今度の合同ライブ、4人でやってみない?」とユニットの結成を提案する。このとき、バラバラに動いていた4つのブランコが同期して静止するのは冴えた演出である。こうして、エマの提案は他の3人に受け入れられ、第3話の合宿(お泊まり会)を経て、QU4RTSクオーツが結成される。以下に掲げるライブシーン直前の会話は、ソロアイドルからユニットへの飛躍の何たるかを端的に示している。

かすみ ソロのときは、自分のやりたい自分だけど――。
璃奈  一緒になると、新しい自分を見つけることができる。
エマ  私たちで、新しい色を作ってみようよ!

 第4話では、唐突な新キャラクターの投入によって、愛の主人公格としての成長が促される。愛が「お姉ちゃん的な存在」と慕う川本美里(CV: 石川由依)は、病弱で入退院を繰り返す生活を送っていた。学校に通えないあいだ、美里の時間は同級生とどんどんズレていき、お見舞いに来る愛だけが彼女の支えになっていた。しかし、愛がスクールアイドル活動を始めて、やりたいことに邁進する姿を見て、美里は「私にはもう何もない。どこにも行けない。楽しいって気持ちもわかんなくなっちゃった」と自信を喪失してしまう。意気消沈する美里を前にして、愛は「スクールアイドルにならなければよかったの?」と思い悩む。スクールアイドルをやめるという決断の寸前まで追い込まれた愛に対して、果林はあえて突き放すような言葉を放つ。

  できない……できないよ! 楽しいことを教えてくれたお姉ちゃんを私が傷つけた。そんな私がスクールアイドルなんてできないよ!
果林 本当にやめるつもり? わかったわ。じゃあ代わりに、私がステージに立ってあげる。愛のファンをごっそりいただくチャンスだもの。きっと美里さんも私に魅了されて、ファンになっちゃうわね。
  嫌だよ、そんなの! お姉ちゃんやファンのみんなを、果林にとられちゃうのはやだ!
果林 でも、スクールアイドルやめるんでしょ?
  だったら、やめるのやめる! だって私、私……ホントはスクールアイドル、もっともっとやりたいよ!
果林 それがあなたよ。誰も傷つけないなんて、そんなこと、できる人いないわ。

 同じ方向で逆向きのベクトルが拮抗するときのように、愛の逡巡は円を描く。スクールアイドルをやめる、やりたい、やめる、やりたい……。果林が愛の深層心理を暴くカウンセラー然として振る舞って、「ホントはスクールアイドル、もっともっとやりたいよ!」という気持ちを吐露させる技法を用いているのは少し不気味ながら、完璧超人の愛がようやく壁にぶつかって、周りを巻き込んで成長を遂げる筋書き自体は特段珍しいものではない。ショックから立ち直った愛は、次のように述べて果林をユニットに誘う。「愛さんと一緒にステージに立ってほしい」、「私に火を付けてくれた果林となら、すっごいライブができる気がする」。果林は愛の誘いを快諾し、DiverDivaダイバーディーバが結成される。
 第5話において、しずくはせつ菜と歩夢を「歌とお芝居のユニット」にしようと構想するが、嵐珠の「今のあなたは周りに自分の夢を重ね合わせてるだけよ。あなたはそれで満たされたとしても、何も生み出してないわ」という言葉を受けて落ち込んでしまう。嵐珠はしずくではなく、侑に対してこの言葉を放ったのだが(後述)、しずくは自分にも当てはまる指摘だと受け止めたのだ。自分の妄想を周囲に重ねているだけではないかと落ち込むしずくに対して、せつ菜と歩夢はしずくの構想をモチーフにした即興劇を披露してみせる。即興劇は歩夢のアドリブを起点に紆余曲折を経て、劇作家のしずくも芝居のなかに巻き込んでいく。歩夢はしずくに対して、「私たちがここにいるのは、そもそもあなたの魔法がきっかけなんだもの」と語りかける。こうして、役柄としての台詞と歩夢本人としての言葉がオーバーラップして、しずくはせつ菜と歩夢のユニットに引っ張り込まれる。歩夢は続く第6話でも大きな役割を果たしている。生徒会長・中川菜々とスクールアイドル・優木せつ菜という二つの立場に引き裂かれ、生徒会長としての立場を優先しようとするせつ菜に対して、歩夢は「始まったのなら、貫くのみ」という言葉をそっくりそのまま返す。この言葉は、第1期の第12話でせつ菜から歩夢に対して向けられ、歩夢を侑の呪縛から解放するきっかけとなったものだ。せつ菜は歩夢の激励を受けて、スクールアイドル活動について母親に明かし、自身の正体(生徒会長と同一人物であること)をステージ上で明かす決意をする。こうして、歩夢を起点としてユニットへの突破が起こり、A・ZU・NAアズナが結成される。
 以上述べたように、「仲間でライバル」としてソロアイドル活動に邁進してきた同好会の構成員がユニットの結成にいたる過程は、アイドル同士の分節を前提とした横断的連帯という鉄板テーマに限りなく接近している。まずもって、ソロアイドルとして個性・人気を確立すること自体が困難な課題である。ソロアイドル同士で横並びになったときに、輝きがお互いに打ち消されないことが前提とならなければ、アイドル同士の連帯を取り結ぶのは難しい。次に、そのような連帯を達成できたとしても、個の寄せ集めではなく「一」なる単位としてのアイドル複合体、すなわちユニットの内部ではアイドル同士の分節が融解するため、ユニットの結成に耐えられるだけの信頼関係を構築するのは容易ではない。かかる二段階の困難を乗り越えた先に、ユニット同士の分節が成立する。端的に言えば、ソロアイドルからアイドル複合体への飛躍はアイドル同士の同僚制を前提としているのである。
 第2期の前半は、同好会の既存の構成員によるユニット結成の局面で侑の出番を極端に減らすことによって、精彩を欠くとはいえ「アイドルアニメ」の皮を被ってはいる。しかし、スクールアイドルならざる立場の侑が同好会にいる限り、スクールアイドルの同僚制の成立は阻害されてしまう。この問題を正面から問い質したのが、香港からの短期留学生・嵐珠であった。嵐珠の登場によって、クローズドな団体たる同好会の内と外との境界は「鮮明」となっていく。次節では、嵐珠の侑に対する問いを入口として、第2期の真骨頂であるセグメンテーションの二次的拡大を明らかにする。

クローズドな原理にもとづく無限連鎖講の拡大

 香港からの短期留学生・嵐珠が新たに登場する第1話は、きわめてミスリーディングな作りになっている。スクールアイドルをやるために来日した嵐珠は、数ある学校のなかから私立虹ヶ咲学園を留学先に選んだ理由として、スクールアイドルフェスティバルの動画に「すっごくトキメいた」ということを挙げる。嵐珠にとって、第1期の終盤で開催されたスクールアイドルフェスティバルはω(輝き)として機能したのだ。その意味で、嵐珠が出演者の一人である歩夢に「会いたかったわ」と初対面で抱きついたことにさほどの違和感はない。ところが、嵐珠に対して「すっごく嬉しいよ! ようこそ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会へ!」と歓迎の辞を述べるのはスクールアイドルではなく、相変わらず侑なのだ。これに対して、嵐珠は歩夢(ωの構成要素)がチラシ配りについて侑と相談しているのを見咎め、歩夢と親密な関係にある侑が何者なのか興味を持つ。嵐珠・侑・歩夢の三者の会話は次のように続いていく。

嵐珠 ところで、気になっていたのだけど、あなたは新人アイドル? フェスの動画にはいなかったから。
  私はスクールアイドルじゃないよ。
嵐珠 どうしてスクールアイドルじゃないのに同好会にいるの?
  私はスクールアイドルから夢をもらったんだ。だから今は、夢をくれたみんなを応援したくて、同好会にいるんだ。
歩夢 私も同好会のみんなも、侑ちゃんやたくさんのファンに支えてもらえてるから、スクールアイドルでいられるの。
嵐珠 ファンがアイドルを支える、ね……。

 当然ながら、嵐珠は侑の回答に怪訝な顔をする。侑の言葉は「どうしてスクールアイドルじゃないのに同好会にいるの?」という質問に対する一般的な答えになっておらず(嵐珠からしたら意味不明)、同好会が畢竟独自の論理体系(原理)を持ったクローズドな団体であることを窺わせる。しかし、歩夢が「侑ちゃんやたくさんのファン」という言い回しで即座に補足説明を行ったことで、嵐珠(及び視聴者)は侑をファンの代表例として読み違えてしまう。その結果、嵐珠の話の焦点はアイドルとファンの距離へとシフトしてしまう――「誰かに支えられなきゃパフォーマンスもできないアイドルなんて、情けないわ」というように。
 嵐珠は同好会に入らず、個人として第2回スクールアイドルフェスティバルに参加することを宣言する。そして、嵐珠は再び同好会における侑の存在意義を問い質す。

嵐珠 もう一度聞くわ、侑。あなたはどうして同好会にいるの? 私はスクールアイドルにトキメキを感じて、やりたいと思ったからここまで来た。でもあなたの夢はスクールアイドルじゃないのよね。だったら同好会を離れて、その夢を真剣に追い求めるべきよ。

  でも、やりたいことをやりたいって気持ちだったら、私だって負けてないつもり。今はまだ、全然だけどね。私だって私のやり方で、この同好会で、夢を叶えたいって思ってる。

 ここでは、あくまで表面的には、スクールアイドルの同僚制と僭主のセグメンテーションという二つの原理が正面衝突しているように見える。この図式は第2期が第1期の延長線上にあるに過ぎず、やがて嵐珠も侑に籠絡されるのだろうという誤った予断を視聴者に抱かせる。第5話においても、嵐珠と侑のあいだで同様の議論が交わされる。侑は音楽科への転科を果たしたものの、初学者ゆえ授業についていくので精一杯という状況にあった。嵐珠は侑の音楽科の成績が振るわないことを指摘し、「見ててイライラする」と言う。続けて、嵐珠と侑のあいだでは次のような言葉の応酬が行われる。

嵐珠 いい加減、同好会の活動に付き合うのなんかやめて、もっと自分の夢に向き合ったら?(中略)同好会で夢を叶える――そう言っていたのに、今のあなたは周りに自分の夢を重ね合わせてるだけよ。あなたはそれで満たされたとしても、何も生み出してないわ。

  ありがとう、嵐珠ちゃんは優しいんだね。あのとき、嵐珠ちゃんに言ってもらえたから、今はまだ全然だけど、私、結構前向きに頑張れてるんだ。だから、もし気にしてくれてるんなら、もう少しだけ見ててくれないかな?

 侑の「もう少しだけ見ててくれないかな?」という落差のある凜凜しい声に、嵐珠は面食らう。嵐珠が頬を紅潮させる様子を目の当たりにした多くの視聴者は、侑の攻略対象に加えられた嵐珠がいつデレるのか注視するようになることだろう。しかし、残念ながら嵐珠が侑に直接落とされる日は来ない。若干恋愛シミュレーションのような色彩も帯びていた第1期とは打って変わって、第2期では侑自身はもはや勧誘や説得を行わなくなり、新たな構成員のリクルートは既存の構成員に委ねられるようになる。すでに第2話において、同好会への入会を拒否する嵐珠を熱心に説得するのがエマを中心とした同好会の構成員であったことは示唆に富んでいる。とはいえ、この勧誘は侑の感知するところではないため、単純にアイドルがアイドル志願者を引っ張り込んでいるように偽装されている。第2期の真の実力はこんなものではない。第2期の真骨頂であるセグメンテーションの二次的拡大は第7話において明確な姿をあらわす。
 嵐珠の幼馴染であり生徒会に所属する栞子は、姉で元スクールアイドルの薫子(CV: 日笠陽子)に対する複雑な感情から、スクールアイドルへの憧れを押し殺した生活を送っていた。栞子にとってスクールアイドルの輝き(ω)とは、ステージ上で歌い踊る姉の輝きにほかならなかった。しかし、薫子は奮闘虚しくラブライブ!の予選で敗退し、ステージ上で落涙して引退を迎えた。その様子を目の当たりにした栞子は、姉が「後悔していた」と受け取り、スクールアイドルへの憧れを表に出さなくなった。そんな栞子の秘めた思いは、薫子が教育実習生として私立虹ヶ咲学園の音楽科にやってきたことをきっかけに、同好会の構成員の知るところとなる。
 第4話において、栞子は第2回スクールアイドルフェスティバルと文化祭の調整役に任命される。第7話の冒頭、フェスの運営に尽力する栞子に対して、薫子は「てっきりあなたもステージに立つんだと思ってたわ」と声をかける。栞子は姉の言葉を退け、「私の適性は、皆さんを応援し、サポートすることです」と述べる。その後、侑たちはふとしたことから薫子と栞子が姉妹であること、かつて栞子がスクールアイドルに憧れていたことを知る。せつ菜・愛・歩夢・侑の4人は、躊躇なく栞子を同好会に勧誘する。

せつ菜 三船さん!
栞子  どうしましたか?
せつ菜 水臭いじゃないですか、大好きな気持ちを抑えることはないですよ! 私たちと一緒に、スクールアイドル、しましょう!
栞子  なんですか、いきなり……。
歩夢  お姉さんから聞いたんだ、三船さんがスクールアイドルになりたがってたって。

 「なんですか、いきなり……」という栞子の反応はきわめて真っ当で、ここでは集団でスクラムを組んで勧誘されることの怖さが滲み出ている。ともあれ、栞子は自分にはスクールアイドルの適性はなく、挫折し後悔していた姉の轍を踏まぬよう、わきまえた人生を送るのが望ましいと主張して、その場を立ち去る。

私は、自分の適性を最大限発揮できる生き方をしたいと考えています。それは、皆さんの夢をサポートすることです。ステージに立つことではありません。

身の丈に合わないことに入れ込むより、向いていることだけに全力を尽くす。そうすれば、皆さんの役に立てるし、喜んでもらえます。それが間違っているとは思いません。

 栞子は自分の意思で同好会への入会を断った。それにもかかわらず、侑は同好会の構成員に対して、「それでも、放っておけないよ。向いていることだけするとか、みんなをサポートするとか、それだけ聞けば、正しいって思うよ。でも、それって……後悔、するんじゃないかな?」と講話を行う。侑の言葉を受けて、せつ菜は「もう一度だけ、私たちの思いを三船さんに伝えましょう!」と言い継ぐ。こうした一連の主張を果林は「お人好し」と評するが、最終的に構成員から自由な意思決定の機会を奪うような団体が入口段階では「お人好し」に見えるというのはよくあることであり、果林の発言は怖いながらも的確なコメントと言えるかもしれない。こうして、せつ菜・愛・歩夢・侑の4人は再び栞子にアプローチを行い、半ば強引に彼女を連れ出す。栞子は4人に連れられて、自分が姉に憧れるきっかけとなったステージの前に導かれる。すると、そこでは同好会の他の構成員も雁首を揃えて待ち構えている。栞子を同好会に迎え入れるための儀礼が今始まる。

   ここが、三船さんの夢が始まった場所でしょ?
せつ菜 三船さん、やりたいことを、してください。三船さんができることを大切にしているのはわかります。そのおかげで、フェスは素晴らしいものになりました。ですから、今度は、私たちに、三船さんを応援させてほしいんです。私が、スクールアイドルと生徒会長を両立できたのは、同好会、生徒会、ファンのみんな、そして三船さん、あなたがいたからです!
歩夢  あなたが私たちにしてくれたように、私たちも、あなたに何かをしたい。
璃奈  それは、当たり前のこと。

 さらに、姉がスクールアイドル活動を「後悔していた」と受け取っていた栞子は、姉の薫子自身から「してないよ、後悔なんて」と告げられる。ここで、なんと薫子は「高咲さんたちが言うとおり、私はあなたが応援してくれたから、幸せな高校生活を送れたと思ってる。それで今は教師になって、たくさんの生徒を、あなたを、応援できる人になりたいって思ってる」と侑を代表例にして説得するのだ。前掲のとおり、栞子のサポートに対する感謝の念を述べているのは侑ではなく、せつ菜をはじめとする同好会の他の構成員だ。それなのに、彼女たちの発言は薫子から「高咲さんたち」の発言とまとめられてしまう。すなわち、薫子のような同好会の外側に位置する人間から見たときに、同好会は「高咲さん」を代表とする団体に見えているということだ。かくして、第1期で侑に救われた近習たちが侑を代位して、侑を中心とするサークルに新たな構成員を引き込もうとする構図が前景化する。一度強固に成立したセグメンテーションの末端がひとりでに枝を伸ばしていく様子は、無限連鎖講(いわゆるねずみ講)の拡大と呼ぶにふさわしいものだ。同好会は「ともかくだれかをできるだけたくさん救わなければならない」という動機を与える「導き系統組織」に接近しているとも言える(*)。

(*)「真如苑では、信者に対する日々の実践修行のうち、『お助け』と呼ばれるものがあり、誰か知人を教団に勧誘して不幸な道から救うことを意味する。このお助けによって新しい信者が獲得されると、その新信者は勧誘した信者の『導きの子』として教団組織に組み込まれ、勧誘した信者は『導き親』になる。……導きの子が信仰の面で立派に育ち、さらに自らも導きの子をもつと、この新新信者は導き親からみて『導きの孫』にあたる。こうした子孫全体のことを真如苑では『所属』と呼んでいる。」

(ジュマリ・アラム「新宗教における『カリスマ的教祖』と『カリスマ的組織』:
真如苑と創価学会を比較して」島薗進編著『何のための〈宗教〉か?
現代宗教の抑圧と自由』青弓社、1994年、178-179頁、185頁)

 以上述べた過程を経て、第7話の映像は栞子のライブシーンにシームレスに移行していく。スクールアイドルをやりたいという気持ちを抑圧していた栞子は入会儀礼を通じて解放され、何らかの目標を達成したことではなく、ただ輝き(ω)に惹かれて活動を始めたこと自体を称賛され、同好会の構成員として祝福を受ける。栞子は「三船さん」ではなく「栞子さん」と呼ばれるようになり、渾名もつけられる。こうして、栞子の救済は遂げられる。そして、その様子を陰から見ていた嵐珠は、一人悲しげな表情を浮かべるのだった。
 嵐珠の問いと栞子の入会によって、同好会の内と外との境界は「鮮明」となった。同好会の内部では侑を頂点とするセグメンテーションが不可視化され、アイドル同士の同僚制が偽装される一方で、同好会はちょうど「導き系統組織」のように、潜在的な構成員を求めて外部を無限に蚕食する。それでは、侑が嵐珠に対して「今はまだ全然だけど」と二回も言いながら、同好会で叶えたい夢とは何なのだろうか。嵐珠が問い質した同好会における侑の存在意義について、節を改めて考えていこう。

「偶像」、あるいはグルとしての高咲侑

 侑が同好会で叶えたい夢を解き明かすためのヒントは、第2期の前半にすでにちりばめられていた。第3話で、侑は音楽科の作曲課題を完成させる過程で「みんなみたいに自分を表現できる人になりたかった」と独白している。第5話では、侑は歩夢たちの即興劇からトキメキを受け取って、「次はきっと、私の番なんだ」と語っている。スクールアイドルならざる立場のまま、スクールアイドルと並ぶ表現者となる――そんな無理筋を追求する過程で、侑は第1期とは比べ物にならないほど驚異的な存在へと羽化を遂げることになる。
 第8話において、侑は自分の夢を明確に言語化するにいたる。フェス最終日にお披露目を予定する同好会のためのグループ楽曲が難産となった侑は、「この曲が嵐珠ちゃんと約束した、私が同好会にいることの答えにふさわしいのか」と一時的に自信をなくしてしまう。ニューヨークからの短期留学生であり、嵐珠に楽曲提供も行っている天才作曲家のミアは、思い悩む侑にスクールアイドルと作曲家の違いを説く。スクールアイドルは「自分の存在すべてをステージに懸ける」ものだが(嵐珠は「私は私を知らしめるためにステージに上がる」と言う)、作曲家はそのようにある必要はなく、「求められる曲を作って評価」してもらえばよい――ミアのドライな考え方に対して、侑は「そう、なのかな……?」、「いま、私が感じているこのトキメキは、もっと、なんていうか……」と疑問を呈しながら、自分の欲望を言葉にしていく。

そっか……私は、ファンの私は、スクールアイドルのパフォーマンスや音楽だけにトキメいてたんじゃなくて、歩夢、せつ菜ちゃん、しずくちゃん、愛ちゃん、果林さん、かすみちゃん、璃奈ちゃん、彼方さん、エマさん、自分を目一杯伝えようとしているみんなの姿にトキメいていたんだ。私も、みんなに近づきたい。みんなと一緒に、今ここにいる私を伝えたい。そうなんだ、これが私のトキメキ――。

 「私も、みんなに近づきたい。みんなと一緒に、今ここにいる私を伝えたい」――侑は緑色の瞳をきらめかせて、「これが、同好会のなかで、私のやりたいこと。スクールアイドルのみんなと一緒に、叶えたい夢」と述べる。スクールアイドルにならずに「みんなに近づきたい」というのは何度聞いても凄まじい発言である。ミアとは異なり、侑は裏方にとどまらない作曲家として、スクールアイドルではない役職においてスクールアイドルと連帯しようとする。僭主を一時的に放逐した世界で、侑は僭主として復権するのではなく、フィクサーとして返り咲いたのである。侑は同好会の構成員が一堂に会するステージの対岸に降臨し、客席を挟んでピアノ演奏を始める。それに続けて、無事完成したグループ楽曲の「TOKIMEKI Runners」が披露され、フェスは盛況のうちに幕を閉じる。
 ここで指摘しておかなければならないのは、作詞家・畑亜貴の手になる既存楽曲「TOKIMEKI Runners」(2018年)が侑の作った楽曲という設定を帯びたことで、歌詞のキナ臭さが増したということだ。この楽曲の歌詞も侑が書いたものなのか、作中で明らかにされてはいない。しかし、「生まれたのはトキメキ 惹かれたのは輝き/あの日から変わりはじめた世界」、「夢ってステキな言葉/言ってるだけでイイ気分」、「出会いって それだけで奇跡と思うんだよ」、「みんなで楽しくなろうよ/生きてる!ってココロが叫んじゃう/そんな実感欲しいよねっ」といった詩句が、クローズドな団体の構成員による信仰告白のように聞こえてしまうのはもはや避けられない。
 「TOKIMEKI Runners」の披露に続く第9話で、ミアと嵐珠も同好会への入会を果たす。フェスのクライマックスで侑のフィクサーとしての覚悟を見せつけられ、自身の限界を思い知った嵐珠は、ソロアイドルとしての活動はやりきったとして帰国しようとする。ミアは嵐珠を思いとどまらせようと、嵐珠のために新曲を書くが、それでも嵐珠は頑なな態度を崩さない。二人は物別れとなり、ミアは嵐珠から拒絶されたことに深く傷つく。そんな彼女をカウンセリングするのは、侑ではなく璃奈だ(ここでも侑は直接手を下さない)。ミアは傾聴の姿勢を示す璃奈に対して、音楽一家であるテイラー家の娘としての重圧を打ち明ける。ミアは人前で歌うことから逃げ出し、代わりに作曲で自分の価値を認めさせようと努めてきた。嵐珠に対して楽曲提供を行ってきたのも、ミアの自己実現の一環であった。璃奈はありのままのミアを肯定するような甘言を弄して、ミアに無限連鎖講の枝を伸ばす。

璃奈 どうしてそんなに結果が欲しいの? ミアちゃん、とっても苦しそう。苦しんでまで、結果が必要?
ミア 必要だよ! 僕はミア・テイラーなんだから。音楽で認められなきゃ、僕に価値はない。
璃奈 ミアちゃんはミアちゃんだよ。価値がないなんてこと、ない。

璃奈 でも、ミアちゃんは今、ここにいるよね。ここは、ミアちゃんの居場所にならない? 私、ミアちゃんの歌、聴きたい。(中略)ミア・テイラーじゃなくて、ミアちゃんの歌が、聴きたいな。(中略)ミアちゃんにもっと、楽しんでほしい。ここなら、きっとミアちゃんが望むものを叶えられる。

 しかも、璃奈からミアに向けられた「ミアちゃんの歌が、聴きたいな」という表現は、第1期で侑から璃奈に与えられた言葉に近い構文であり(**)、侑の言葉が璃奈のなかで咀嚼されて、璃奈の血肉となっていることが窺われる。侑の言葉に救われた璃奈が酷似した表現で悩めるミアを救おうと尽力することも、同好会が「導き系統組織」に接近している証左である。結局、ミアは「歌いたい……歌いたいんだ!」と真情を吐露し、璃奈の差し伸べる手を取って、同好会の一員としてスクールアイドルになる決意を固める。

(**)
 ありがとう、璃奈ちゃんの気持ち、教えてくれて。
 うん、愛さんもそう思うよ。
 私、璃奈ちゃんのライブ見たいな。今はまだ、できないことがあってもいいんじゃない?

(第1期第6話より)

 こうしてミアの苦悩が解消された後、同好会は最後の砦である嵐珠の切り崩しに取り掛かる。同好会の構成員は空港で嵐珠を呼び止め、「少しだけ、時間をくれないかな?」という侑の言葉を合図に、嵐珠の前に人間バリケードを作って、彼女の移動の自由を奪う。かすみ・しずく・璃奈の3人が横一列に並び、両手を広げて「行かせませんよ!」と立ちはだかる光景からは、東京大学の新歓行事として悪名高いサークル勧誘の「テント列」さながら、犯罪の香りすら漂ってくる。その場に釘付けにされた嵐珠に対して、ミアと栞子も手を差し伸べる。ミアは「歌が好きだったのに、自信がなくて、目をそらしていた。でも、教えてもらったんだ。スクールアイドルは、やりたい気持ちがあれば、誰でも受け入れてくれる」と洗脳されたような言い草で、栞子は「私は、あなたと一緒にスクールアイドルをやりたい」という素直な言葉で、かけがえのない友人である嵐珠を勧誘する。
 嵐珠はミアと栞子の真心のこもった説得を受けて、とうとう本音を漏らす。嵐珠がソロアイドルとしての活動にこだわり、同好会を避けていたのは「どうやっても人の気持ちがわからない」からであり、「相手の気持ちがわからなくても、認めさせることはできる」と考えたからであった。嵐珠は「ソロのスクールアイドルたちが同好会として絆を深めていたことに驚いたわ。互いに信頼し合って、ユニットもそれ以上のこともできる。それがスクールアイドルなら、私にはできない……」と言う。「絆」とは言い得て妙だ。筆者は第1期評のタイトルに「侑と9人の絆」という表現を採用したが、それは「牛馬などの足をつなぐなわ」または「自由を束縛するもの」という字義(新漢語林 第二版)――「はん」というときの「絆」の用法――に即して、ダブル・ミーニングを込めるためであった。同好会の構成員は侑に括りつけられた近習なのだ。そんな近習たちは嵐珠をひたすら肯定し、嵐珠に対して感謝の念を何度も伝える。嵐珠はとうとう押し切られ、同好会への入会を決める。そして、嵐珠の入会儀礼は「ようこそ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会へ!」という侑の言葉で締め括られる。この言葉は第1話で侑が嵐珠に述べた歓迎の辞と呼応しており、第2期は第1話から第9話にかけて綺麗に話が閉じられている。それは、同好会が栞子・ミア・嵐珠の3人を新たに構成員に加え、侑を除いて12人に増員を遂げる過程であるが、クローズドな原理に共鳴する者が12人といわれると、侑と12人の使徒による原始教団の誕生に立ち会ったような心地がする。それはそうと、嵐珠が「まだデビューもしてないのに、私に張り合うなんて」とミアに言うのは、目標の達成を度外視し、ありのままの姿を肯定しようとする『ニジガク』の構造を図らずも言い当てていて、さすがに面白い。
 第9話をもって、当初は同好会の外側に位置していた栞子・ミア・嵐珠が同好会の内側に包摂されると、同好会の外側を描く必然性がなくなる。そのため、第10話から第12話にかけては、第1期に続いて再び同好会の内側に焦点が絞られていく。ここでは同好会の構成員数――12人なのか、それとも13人なのか――に着目することで、最終回(第13話)につながる重要な点が見えてくる。増員後、13人という人数を最初に強調するのはかすみだ。第10話の合宿(お泊まり会)の終盤で、かすみは「この13人ならきっと、もっといろんなことに挑戦できそうです!」と述べる。合宿から間もない第11話の冒頭では、侑も「私たち13人だからこそやれること」の追求を強調している。しかし、時間の経過とともに、侑の認識は12人という人数へと傾いていく。第11話の中盤、どうしたら同好会の構成員のように、仲間と高め合ったり、ファンと一体になったりできるスクールアイドルになれるかと尋ねる嵐珠に対して、侑は次のように答えている。その後の会話と併せて見てみよう。

  きっとすぐできるようになるよ。そしたら、個性的でバラバラで、でも心を合わせて一つにもなれる、最強の12人になっちゃうね。
歩夢 12人じゃないよ。
嵐珠 13人でしょ!

 ここでは、主と使徒の非対称が図らずも露呈しているように見える。同好会の構成員は侑を同僚制の枠組みで認識しているが、外側から見ると侑と12人のあいだには厳然たる序列があるように見えるというズレはなかなか怖い。第11話の終盤、果林が同好会のファーストライブを提案したときも、せつ菜が「私たち13人の全部を詰め込んだステージ」にしようと発言しており、侑は平然と同僚制のなかに含まれていることが窺われる。こうしたズレは明確に意識されないまま、侑が「よーし、最高のライブ、つくるぞー!」と音頭を取りつつ、ファーストライブの準備は着実に進んでいく。「そして、私たちのライブは開演の日を迎える。ファンとアイドル……あなたと作る、新しい始まりのステージが!」――第12話の終盤になって、第1期で僭主を一時的に放逐するために使われた「あなた」というキーワードが再登場し、とうとう同好会の“FIRST LIVE with You”の幕が上がる。
 最終回において、侑はフィクサーという立場さえ軽々と超えていく。侑はもちろん一人だけステージ衣装を着用せず、制服のまましれっとスクールアイドルの円陣に混ざる。また、侑は生徒会副会長と「こんなにたくさんの人が、同好会のアイドルを好きになってくれて、なんだか嬉しいな」と総合プロデューサーのような目線で話をする。これらの点だけ見れば第1期と大差はないが、第2期はこれでは終わらない。なんと侑に対してファンから応援の意を込めた楽屋花が届くのである。そして驚くべきことに、侑は同好会の構成員から「スクールアイドル」の一員として認められる。

嵐珠  あなたは私が思っていた以上にすごかったわ!
   私たち13人でスクールアイドル同好会だしね!
歩夢  うん、侑ちゃんもスクールアイドルだもん!

 歩夢の言葉に慌てふためき、「違うって!」と否定する侑に対して、彼方としずくは重ねて侑の変質を指摘する。

彼方  違わないよお。
しずく 侑先輩は、もうたくさんの人にトキメキを与えられる存在なんですから。

 侑に贈られた楽屋花には、「高咲さんの曲を聴いてファンになりました! これからも応援してます」とか、「侑ちゃんのピアノを聴いて感動しました」といったメッセージが添えられていた。侑はしずくの言うように、輝き(ω)に魅了されるトキメキの主体から、トキメキを与える・生み出す輝き(ω)の主体へと変質を遂げた。その意味で、侑は確かにスクールアイドルと並び立っているようにも見える。しかし、侑は作中において歌って踊れる憧れの的としてのスクールアイドルとなることはなく、あくまで作曲家としてスクールアイドルに歌を授ける特別な立場であり続けている。侑は同好会の構成員に「13人」という幻想を植えつけているが、実際には「12人」を束ね教導するグルなのである。ファンからのメッセージに感銘を受けた侑は、次のように独白しつつ、ライブ会場に向かって駆け出していく。いよいよ、侑の羽化が始まる。

(私は、歩夢たちみたいにステージでキラキラ輝けるわけじゃないし、同好会の一員として、スクールアイドルがいろんな人たちに好きになってもらえる手伝いができたら、最高だなって……そう思ってた。だけど……)こんなの、めちゃくちゃ嬉しいに決まってるじゃん!

 侑は会場に到着するやいなや、最後列から客席に向かって「みんな、大好きー!」と叫ぶ。すると会場は静まり返り、観客が一斉に侑の方を振り返る。副会長の采配でスポットライトが降り注ぐなか、侑は同好会を代表して観客に対して説教を始める。

えっと……今日は同好会のライブに来てくれて、ありがとう! 私、本当に嬉しくて……同好会を始めてから、楽しいことばっかりで……こんな幸せでいいのかなって。でもね、これってきっと特別なことじゃないんだと思う。みんなだってそうだよ! もう走り出してる人もいっぱいいるはずだし、向いてないとか、遅いとか、そんなの全然関係なくて、うまくいかないこともいっぱいあるかもしれないけど、そのときは、私たちがいるから! 元気がほしいときは、会いに来て!

 侑は「私たち」という複数一人称で語り、「みんな」という集合名詞で観客に呼びかける。侑の説教によって、モーセの海割りよろしく客席は左右に割れ、できた道を通って侑は最前列に辿り着く。侑は歩夢に手を差し伸べられ、スクールアイドルとともにステージ上にのぼる。もはや侑は群衆のなかに埋もれる「あなた」ではなくなり、「あなた」という言葉を発する側に回った。こうして無数の「あなた」=視聴者は侑に屈服することになる。スクールアイドルたちが「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、ずっとあなたと一緒にいるよ。みんな、ありがとう!」と観客に呼びかけるとき、もはや侑は「あなた」及び「みんな」のなかに含まれていないのだ。
 第2期最後のステージにおいて、侑は「Future Parade」を歌い踊るスクールアイドルの背後でピアノを弾く。いや、実際に弾いているのかどうかはこの際どうでもいい。重要なのは、侑がスクールアイドルのヴェールに守られ、観客から不可視の地位に就いたということだ。「侑ちゃんもスクールアイドルだもん!」という楽屋での歩夢の言葉は、侑がスクールアイドルにとってのアイドル、すなわち真の意味での「偶像アイドル」であることを示している。侑は観客(=ファン)、スクールアイドルと並列の作曲家(=フィクサー)、スクールアイドルに守られる真の意味での「偶像アイドル」(=グル)という三つの立場を自由自在に使い分けられるように羽化を遂げた。侑はスクールアイドルを陰から見守ることも、スクールアイドルを代表することも、スクールアイドルの壁で自分の身を隠すこともできるという唯一無二の特権的な地位を占めている。『ニジガク』の世界において、スクールアイドルという形態を取らない自己実現を果たすことができるのは、侑ただ一人なのである。そう考えると、“with You”という表現は、同好会のファーストライブが「あなた」を励まし元気づけるためではなく、同好会の12人が侑とともにあることを示すために開催されたことを意味するようにすら見えてくる。第2期のオープニングムービーは、侑の弾くグランドピアノから12個の光球(スクールアイドルの輝き)が飛び出し、侑が第四の壁越しに視聴者を一瞥するシーンから始まる。「あなた」から乖離して独立した人格(persona)となった侑は、その蠱惑的な視線でスクールアイドルのみならず、視聴者すら自らのサークルに引きずり込もうとしている。
 最終回は「次は、あなたの番!」という侑の言葉で幕を閉じる。これは普通に解釈すれば、「視聴者も各自の夢に向かって頑張ってください」というエールと受け取るべきなのだろうが、第2期で顕在化した無限連鎖講の拡大に鑑みると、次は「あなた」が侑の虜になる番だという予告にも聞こえて恐ろしい。『ニジガク』第2期は分節を前提とした横断的連帯を描く「アイドルアニメ」を脱臼させ、クローズドな原理に依拠した「アイドルアニメ」の新常態ニュー・ノーマルを示した。これは過去10年にわたって量産されてきた、デモクラティックな価値観で読み解ける「アイドルアニメ」の敗北と言えるのかもしれない。安倍晋三元首相の暗殺事件をきっかけに、政治と新興宗教の問題が久々に取り沙汰されている今こそ、「やりたいこと」に邁進した結果、得体の知れない「関連団体」に絡め取られてしまう危険性を再認識すべきなのではないだろうか。

おわりに

 筆者は第1期評のなかで、トキメキと輝きの関係について次のように書いていた。

『ニジガク』のキーワードである「トキメキ」とは、自分自身が「輝き」を放つわけではないという意味で、僭主の主観、換言すれば消費者の仄暗い欲望をよく示している。

 第2期にいたって、もはや侑は視聴者の欲望の受け皿とはなりえず、視聴者すら信徒に組み入れようとする「偶像アイドル」へと羽化を遂げたことはすでに述べた。それに伴って、トキメキは無限連鎖講の枝を介して、外へ外へ伝染していくことになる。信徒たちはグルの主観を内面化し、活発に伝道を行っていく(歩夢のロンドンへの短期留学は民衆教化の一例と言えるだろう)。同好会が部への昇格を辞退するエピソードである第11話において、せつ菜は「これから入る誰かのためにも、いまの私たちでいたいです!」と述べていた。この発言から明らかなように、同好会にはジョイント(これから入会する人が接合できる部分)が残されている。同好会の12人の伝道は今後も続いていくことだろう。
 これは与太話に過ぎないが、『ラブライブ!』のμ’sミューズがギリシャの神々を、『ラブライブ!サンシャイン!!』のAqoursアクアが「我らが海」(mare nostrum)、すなわち地中海とローマ帝国の興亡をモチーフにしているのだとしたら、それに続く『ニジガク』はキリスト教公認への道に着想を得ていたということなのかもしれない。「トキメキはどんどん広がっていく」――最終回で侑はそう言われた。来たる第3期または劇場版で、同好会はどのような発展を遂げることだろう。楽しみは尽きないが、同好会の未来については宗教学者の島薗進がヒントを与えてくれている。島薗の著書から一節を引用して、本稿の筆を擱くことにする。

一般社会に適応する方向でなお教団が形成されるとき、個人参加型の特徴を帯びるようになるでしょう。すなわち心なおしの教えが薄められ、信仰共同体も散漫なものになるという形です。こうした教団は時に、宗教書や救いの処方箋や瞑想法などの宗教商品を販売する会社のように見えることがあります。一方、一般社会の趨勢に対抗し、道徳的一致や緊密な共同体の形成を目ざすとき、隔離型の教団が形成されます。つまり、一般社会とは断絶した強固な道徳規範と共同体を作ろうとするわけです。こうした教団は一般社会と厳しい緊張関係に立ち、社会問題を引き起こす可能性が少なくありません。統一教会の霊感商法のように、他方で方便として宗教商品の販売会社的な活動も営むような場合にはなおさらです。

(島薗進『新新宗教と宗教ブーム』岩波ブックレット、1992年、22頁)

※漫画家の高遠るいが侑のファンアートを描いていたので、併せて紹介。

参考文献

島薗進『新新宗教と宗教ブーム』岩波ブックレット、1992年。

島薗進編著『何のための〈宗教〉か? 現代宗教の抑圧と自由』青弓社、1994年。

日比野勤「主体と制度:法主体と法制度」『法社会学』第64号、2006年、43-59頁。

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