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「文芸とビジネスを本棚から解き放て!」作家・笠井康平をつくった100冊(後編)
笠井康平さんの初小説集『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』が2025年3月1日に発売されます。
2018年に「いぬのせなか座」に参加して発表した『私的なものへの配慮 No.3』が大きな話題をよんで以来、原稿料や契約(書)について考えるメディア「作家の手帖」の共同編集長のほか、『ユリイカ』『早稲田文学』『S-Fマガジン』などさまざまな媒体で活躍してきた笠井さんの初小説集です。
自然言語処理や文章術について詳しいかと思えば、契約書やビジネスにも造詣が深く、さらには日本の古典文学やケータイ小説、批評や哲学、海外の実験文学やはたまた育児書まで語れてしまう……そんな笠井さんとは、いったいどんな人で、どんな本を読んできて、どんなことを大事にしてきた人なのか?
100冊の選書と笠井さんへのインタビューを通じて紐解きます。
笠井康平のつくられ方:人間らしく生きるための文芸書・ビジネス書・人文書100冊
笠井康平(話すひと・リストを作ったひと)
1988年生まれ。著書に『私的なものへの配慮No.3』がある。他の著作に「文化芸術の経済統計枠組みはいかにしてテキスト品質評価指標体系の開発計画に役立つのか」「現代短歌のテキストマイニング――吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)を題材に」「場所(Spaces)」(共著者:樋口恭介)「10日間で作文を上手にする方法」シリーズなど。「もの書き」が生活に役立つ知識を持ち寄るメディア「作家の手帖」の共同編集長として、日本初訳のヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(葛川篤訳)復刊にも携わる。X(Twitter):https://x.com/kasaikouhei
山本浩貴(聞くひと)
1992年生まれ。小説家・デザイナー・編集者・批評家…。日々生きるなかでことばや芸術に触れる意味をあらためて発明する制作集団・出版版元・デザイン事務所「いぬのせなか座」主宰として、同団体のすべての企画・編集・デザインを行なう。主な小説に「無断と土」(『異常論文』『ベストSF2022』)。批評に『新たな距離』(フィルムアート社)。デザインに『クイック・ジャパン』(159-167号)、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)。企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。X(Twitter):https://x.com/hiroki_yamamoto
【言葉に恋する新時代の物語撰集】
笠井康平『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』(いぬのせなか座叢書8)
町屋良平、山内マリコ推薦。「いぬのせなか座」「作家の手帖」など多方面で活躍する著者待望の初小説集。人々は変化するメディア環境のなかで、どのように自分のための物語をつくり、それを支えに生き、あるいは失敗してきたのか。中世の和歌文化から近代の歴史物語、近未来の観光・医療まで……いくつもの時代のカルチャーとともにめぐっていく、短編小説・詩・エッセイetc.から成る画期的20編。
【おしらせ①】
笠井康平『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』の体験版(抜粋4作品)を無料公開中。読んで感想アンケートにお答えいただいた方のなかから抽選で3名様に『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』1冊をプレゼント! 締切は2月28日(金)まで。詳しくはこちら。
【おしらせ②】
今回の選書リスト100冊すべてに笠井がコメントを添え、書き下ろしエッセイも加えた小冊子を、書店限定特典として制作中です。ご希望の書店様はいぬのせなか座(E-Mail: reneweddistances@gmail.com)までご連絡ください。販促物(A6判POP)もあわせてお送りできます。
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「文芸とビジネスを本棚から解き放て!」作家・笠井康平をつくった100冊(後編)
※前編:「どうしてこんな読書歴に!?」
※中編:「いまひとが本を書くとは…?」
「ビジネス」の20冊:時代を乗り越え、生き抜くために
山本
選書リストの後半に入りたいと思います。残るカテゴリは「ビジネス」「リテラルアート」「ハウツー」の3つです。まずは「ビジネス」から。
笠井
「ビジネス」は後半のほうが話しやすいです。安宅和人『シン・ニホン――AI×データ時代における日本の再生と人材育成』(2020)からケイトリン・ローゼンタール『奴隷会計――支配とマネジメント』(2020)まで、「会社」というひとつの有機体を成立させるプロフェッショナルの参考になりそうな最近の本を、1冊ずつ選びました。人事戦略なら『対話型組織開発――その理論的系譜と実践』(2018)、法務なら『ITビジネスの契約実務』(2017)といったように。『ブランド戦略論』(2017)、『人月の神話』(2014)、『戦略的データサイエンス入門――ビジネスに活かすコンセプトとテクニック』(2014)もそうですね。
ひとつ挙げると、『反常識の業務改革ドキュメント――プロジェクトファシリテーション』(2013)は、ビジネス書として読まれていますが、創業125年(当時)の老舗企業がBPRコンサルタントと一緒に「人事業務を新組織に集約して全体最適化するプロジェクト」に挑んだドラマです。『プロダクトマネジャーの教科書』(2006)、『ソーシャル物理学――「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(2015)、『日本経済の長期停滞―実証分析が明らかにするメカニズム』(2020)も、実用書として普通に面白いし、「会社」を「人間関係が資本の増減をもたらす物語」だと抽象化するなら、その物語構造をどう分析し、どう育てるか考えさせられる。
今回選んだどの本も、一見すると芸術については書かれていないように見えますが……いや、一見するとも何も、そうは書かれていないね(苦笑)。ただ、読みようによっては、文芸のヒントが詰まった本でした。『プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン――実績・省察・評価・総括』(2023)も、株式会社カラーの作品からこれを選ぶのは変化球だと思われるかもしれない。でも、巨大な物語を「終わらせる」プロセスについて、当事者の声も記録しながら冷静に振り返った「もうひとつの現代アート」でした。
山本
『プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン』は刊行当時かなり話題にもなりましたよね。ぼくがエヴァが好きだから特にそう思っただけかもだけど(笑)。
笠井
リストの前半は、読者の立場が「職場でだんだん上がっていく」ことを念頭に置きました。津村記久子「六階を見習って」(2024)は、二人称(あなた)を用いた短編アンソロジー『palmstories あなた』に収録されています。「もうすぐ閉店してしまう売り場」を「あなた」と呼びかけながら、「あなた」にどれだけ助けられたかを語る思い出話。とにかく読みやすくて楽しいのに、カジュアルな無生物主語・二人称単数というすごい発明をやってのけていて、すごい。
山本
津村さんは笠井さんが昔からたびたび名前を挙げるかたのお一人ですよね。
青木淳悟さんの『このあいだ東京でね』(2009)も「ビジネス」カテゴリに入っています。
笠井
『憧れの世界——翻案小説を書く』(2025)でも自己省察されていたけど、「いかにもありがちなドラマ」を避けながら、「ふつうの話」を面白く読ませる手腕に憧れますね。正統的にはヌーヴォー・ロマンの現代型だと位置づけられるでしょうけど、「神」でも「人間」でもない「のぞき見視点」を、情報技術が所与のものとして再構築していた。「メタ語りはどこまで後退できるか」という実験は世界各地で行われていたけれど、青木淳悟は「人間」の崖っぷちギリギリまで退いて、「その先はもう海へ飛び込むしかない」ところまでにじり寄っていたと思っています。
ほかにも、「ビジネスの行きつく先は政治だし、戦争だ」と考えれば、ウィンストン・チャーチルは老獪な仕事人だったのだろうし、「ベンチャー精神」の体現者といえば、津田梅子だろうと。「日本で初めて〇〇した女性」だとよく語られますが、大庭みな子による評伝は、発展途上国で若くして教育ベンチャーを立ち上げた実業家の生き様とも読める。
山本
文芸書とビジネス書って、本をめぐる話になったときによく対立軸として語られたりその越境が望まれたりしますよね。例えば「批評はもっとビジネスマンにこそ読まれるようになるべきだ」とか。あるいは逆に「ビシネス書なんてただの自己啓発だ」とか。ぼくなんかはいま書いている次の本の本文レイアウトをほとんどビジネス書のようにしようと思って(というかビジネス書で培われた技術やフォーマットをうまく取り入れて魔改造しようと思って)、書店に行ってはビシネス書棚をあさりまくっているような現状なのですが……。笠井さんとしては、ビジネス書と文芸書って、どういう関係にあると考えていますか?
笠井
内容レベル、形式レベル、語り手の属性レベルに分けて言うと、まず「内容」レベルでは、語りの密度が本ごとにちがうだけで、ラベルに優劣はないと直感しています。文芸書なら、極端にいえば、分量を変えるだけで、呼び名が変わるじゃないですか。小説・戯曲・散文詩・短歌・俳句・箴言・戒名、と。
ビジネス書も、長く書こうとすれば「決算説明資料」や「第三者委員会報告書」になるし、中程度の長さなら「企画書」「提案書」と呼ばれて、さらに短いものは「レター」「キャッチコピー」「商品名」「シズルワード」などと呼ばれるようになる。どちらも被写体に合わせて「どの場面で、だれのために、いつまでに語り終えるか」に適応した形態であって、言語の構築物であることは変わらない。
「形式」レベルでは、「ネクタイを締めるかどうか」のちがいかな、挑発的に言うなら。もちろん、ちょっと変えただけで読者の反応がガラッと変わる繊細な問題ではあるし、効率的な検索と配置のためにも、売り場では棚分けしたほうがいい。でも、それは「物語の質」を論じるうえでは取り払うべき区分だと思いたい。
山本
なるほど、分量で違うというのは面白いですね。ぼくも小説と詩の違いは分量でしかないと言って特に詩の界隈の人たちをいらいらさせてしまったりしていますが、ビジネス書でもそういう違いがありうるのかと思うと興味深い。
笠井
このあいだ「コミック・シーモア」(漫画主体の電子書籍サービス)を久しぶりに訪ねたら、「ライトノベル」「小説・実用書」「雑誌・写真集」という棚割りになっていて。しかも「小説・実用書」カテゴリーのランキングは、ティーンズ向けノベルやライト文芸、自己啓発書・名言集が上位を占めているんですよね。
これは実店舗とちがってユーザーの検索行動(=隠れた欲望)に忠実な棚づくりができるからこそで、ぼくにとっては昔を思い出す「なつかしい景色」でした。「文芸書」と「ビジネス書」の優劣なんて問題にされてなくて、どちらも「字が多い本」だと一緒くたにされている。
山本
まあたかがそれくらいの規模感の話でしか無い、というか(笑)。実際、ひとむかし前だったらカチッとした本文レイアウトで固めに書かれていたかもしれない内容でも、今はビジネス書のような顔をして書籍になっていることが多い気がするし、新書もビジネス書っぽい文体で書かれることが多いし……ここで言うところの「ビジネス書」という名前自体が、もう、ちょっとおかしなものなのかもしれない。どちらにしろ、ビジネス書も文芸書も「どっちも読むよ」というひとはたくさんいるだろうし、逆に「どっちも読まないよ」というひともたくさんいる……と。
笠井
佐橋滋『異色官僚』(1987)を挙げたのも、それゆえですね。戦中派の通産省事務次官を描いた評伝で、城山三郎『官僚たちの夏』(1986)のモデル人物でもあります。ぼくらの世代には失われた風景ですが、ノンフィクションとフィクションが共通の主題として「国家政策」を扱って、後者はドラマ化もされたし、のちに城山はNHK大河ドラマの原作者にもなった。
山本
いまも『半沢直樹』(2013)をはじめ「ビジネス小説」を原作にしたドラマがヒットすることは多いけど、「国家政策」がテーマになるというのは確かにあまりないのかも。ドラマオリジナルならまだいくつか思いつくけど。
笠井
ほかに何があるだろうね。『シン・ゴジラ』(2016)は……小説じゃないか。城山三郎賞が、棚分類でいえばドキュメンタリー/ノンフィクションを候補作としていて、かつ2022年で休止したことは示唆的かもしれない。
山本
いずれにしても、「ビジネス」という枠での選書に小説を加えるって一見すると異様かもしれないけれど、よくよく考えると地続きだし、ふつうにひとは両方を読むことができる。使われているレトリックや思考法もまったく別なんてことはない。
笠井
外見だけみたら「あれ?」と思っても、みんな「人間」だからね。
「リテラルアート」の20冊:語られざる日本語表現史をたどる
笠井
「リテラルアート」は、飯田一史『ウェブ小説30年史――日本の文芸の「半分」』(2022)、酒井順子『日本エッセイ小史――人はなぜエッセイを書くのか』(2023)を今日的な状況論の起点にして、塚本邦雄『定家百首――良夜爛漫』(1973)や沖森卓也『日本語全史』(2017)のように、大きな時間の流れを簡潔な見取り図にして示すほうへと向かう流れです。
山本
他のカテゴリと比べると明らかに、いわゆる文芸批評らしい文芸批評の本が並んでいますね。
笠井
ストレートな文芸批評を選べた気がします。たとえば、大橋崇行・山中智省『小説の生存戦略――ライトノベル・メディア・ジェンダー』(2020)や荒川洋治『文芸時評という感想』(2005)は、近過去をふり返るのに役立つでしょうし、斎藤美奈子『文章読本さん江』(2002)は、『10日間で作文を上手にする方法』でも下敷きにした本です。
そして、『活字中毒養成ギプス――ジャンル別文庫本ベスト500』(1988)という、いまの感覚からするとおっかない題名の本を選びました。浅田彰、池澤夏樹、風間賢二、そして安原顯と、錚々たる顔ぶれ。こういう「本棚丸ごと1冊に!」という企画は、1980年代だからこそできたのかもしれない。いまは、Wikipediaをしらみつぶしに読むしかない……。
山本
Wikipediaをしらみつぶしに読むひと自体もうあんまりいないかもしれないけれど(笑)、こういうムックとか雑誌の特集って、むかしはたくさん出ているけれどいまはもうほとんどないですよね。
笠井
お金も、時間もかかるからね。塩澤実信・小田光雄『戦後出版史――昭和の雑誌・作家・編集者』(2010)のおふたりは、『出版社大全』(2003)や『出版状況クロニクル』(2009-2024)でも知られています。就活中に読んで、泣きたくなった。雑誌の「連載」や「特集」という制作システムがあったからこそできた出版企画は、どうすれば成り立つんだろうな。他国に比べて日本の文化政策は、出版助成が手薄だし。
木村一信『戦時下の文学――拡大する戦争空間』(2000)は、インパクト出版会が刊行した「文学史を読みかえる」シリーズの1冊です。第二次世界大戦下の従軍作家たちによるルポルタージュを読むと、戦意高揚詩でひとつの極致に至った昭和モダニズムが、次にどこへ向かったかよく分かる。
2022年に「新しい戦前」という言葉が生まれてから3年が経ち、いまはもう「戦中」だと言って差し支えない状況にある。この時代にぼくらは何が書けるのか。その参考にもなります。
高見順『昭和文学盛衰史』(1958)、尾崎秀樹『大衆文学論』(1965)、加藤周一『日本文学史序説』(1975)、ドナルドキーン『日本の文学』(1979)は、文庫化もされた定番の古典。そして、この分類に入れるか迷ったけど、やっぱり入れることにした、高橋源一郎『日本文学盛衰史』(2001)。
山本
迷ったというのは、どういうところでですか?
笠井
『優雅で感傷的な日本野球』(1988)から『ゴーストバスターズ 冒険小説』(1997)の間に書かれた文芸批評も入れたくて、それも迷いました。『文学がこんなにわかっていいかしら』(1989)、『文学じゃないかもしれない症候群』(1992)、『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』(1997)とかね。だけど、どれももう手に入りにくいし、やっぱりこれが一番かな、と。
山本
『日本文学盛衰史』はやっぱり高橋源一郎さんの代表作のひとつですよね。最近も平田オリザさんが演劇化したり。
笠井
ぼくは2000年代の終わりに読んだから、まだ「近過去のコンテンポラリー」だったけど、21世紀生まれの書き手たちがどう読むのかは興味あります。こんな書き方ができる若手作家は、もういないね。勉強しないと書けないし。
山本
属人的なものなのかそれとも時代の問題なのかは気になります。
笠井
円地文子『江戸文学問わずがたり』(1978)は、近世文学の入門書はほかにもあるし、円地文子の代表作でもないけど、リテラルアートの歴史を語るときって、たいてい「お父さんの、お父さんの、そのまたお父さんの――」みたいな「男の系譜」を辿りがちじゃないですか。そのなかでも「おばあちゃんから聞いた昔話」をまとめ直したこの本は稀少だと思って選びました。
山本
おもしろそう。
笠井
三宅香帆はもちろん、瀬戸夏子や水上文といった書き手が、文芸批評を「開かれた場」とするための試みをつづけています。それらはフェミニズムの実践にも直結するものであって、ともすれば書き手の「属性」が問題にされがちなのだけど、ぼくにはそれだけだと思えなくて。
日本語表現史は、「オフィシャルで、フォーマルで、ハードな書き方」と、「プライベートで、カジュアルで、ソフトな書き方」が併存してきた歴史だったはず。それを18世紀に賀茂真淵らが「ますらをぶり/たおやめぶり」という性別の枠組みで語ってしまったけれど、いまならもっと精緻に再検証できるはずなんですよ。
たとえば、現存最古の文芸批評だとされる『無名草子』(1196-1202?)は、かなり年を取ったおばあさんが、匿名の女性たちが集まる場にふらっと顔を出して、平安期を代表する作家論・作品論を語り合う趣向でした。「メタフィクションを用いた複数主体による物語批評」が800年前には成立していたともいえる。ここからまた始めれば、「うそ/実話」「実作/批評」「男/女」といった二項対立にはたやすく回収されない歴史を編み直せるかもしれない。
ぼくが選んだ本も、どうしても「ますらをぶり」が優位になっちゃうけど、紀貫之がそうだったように、日本語表現史はさまざまな勢力争いに「敗けた」「やさしい」「弱者」がつくってきたのだと思うし。
「ハウツー」の20冊:ゆりかごから墓場まで「生きる」方法
山本
では、とうとう最後、「ハウツー」に移ります。
初回で触れたように『定本育児の百科』から始まっていますが、いわゆる文章術の本が多いですかね。ウンベルト・エーコ『論文作法――調査・研究・執筆の技術と手順 教養諸学シリーズ』(1977)はちょっと笑いました。これだけ見ると小説『薔薇の名前』(1980)の著者ではなくストイックな大学の先生みたいで(笑)。
笠井
ウンベルト・エーコには三つの顔があるからね。フィクションライターでもあり、記号学者でもあり、イタリア国営放送(RAI)の成長期にはドキュメンタリー番組のプロデューサーだった。
本人も『文学について』(2003)で述懐していたけど、「みんなが分かる」と「知る人ぞ知る」を同時に語る「二重のコード化」に長けた作家で、この『論文作法』も「ダメな論文の書き方」を指導する身ぶりでもって、人文学的な言説の成立条件を解き明かすという仕掛けです。
山本
論文の書き方でいうと、最近は阿部幸大『まったく新しいアカデミックライティングの教科書』(2024)が話題になっています。
笠井
大学生協で人気なのはもちろん、経済ニュースアプリや読書SNS、要約サービスでも話題なんですよね。ビジネスパーソンが効率的な「ロジカルシンキング」の学び方を求めた先に、大学で学ぶ論文・レポートの書き方に行きつくなんて、それこそ寓話みたいだ。
それでいうと、藤吉豊・小川真理子『「文章術のベストセラー100冊」のポイントを1冊にまとめてみた。』(2021)は、すぐれたハウツーであると同時に、ビジネスライティングの話法を扱ったメタ文芸批評でもあるし、丁寧な選書本でもある。しかも、読み終えると「要約できないこともあるんだな」と気づける。そのプロセスが「ビジネス」の書籍として提供されているのも面白いです。
ほかにも『日本のコピー ベスト500』(2011)は、東日本大震災の翌年に読んで、「勅撰和歌集みたいだ」と思った。
山本
言わんとすることはわかります。
笠井
軽く説明すると、短い言葉で人の心を動かす広告コピーライティングは、短歌・俳句の伝統にも、童謡や流行歌、軍歌の歌詞にも通じる作文技術でありながら、業界内の広告賞・年鑑では評価されていても、通史的な変化を「作品」そのもので伝える読みものは多くなかった。だけどこの本は、表紙にもあえて「日の丸」をあしらっていて、どことなく「和歌」リスペクトを読み取りたくなる。
山本
「日の丸」のようでいて、赤い吹き出しになっている、という。コピーという言語表現形式は昨今の詩歌を考えるうえで欠かせないもので、実際に電通とかで働きながらコピーを作りつつ歌人や詩人として活動している、みたいなひとも多い。というかそういうひとらのほうが今や前線に立っていると言っても過言ではないと思う。実際に詩歌における技術とコピーにおける技術はどう違うのかというと、界隈ごとのゲームルールという以上にうまく答えられないひとのほうが大半なんじゃないか。
笠井
すでにウェブ広告業界では生成AIで自動生成したコピーライティングが実用化されているわけだし、バーチャル歌人・星野しずる(佐々木あらら)のような先例も踏まえて、そんな時代に「詩人とは何者なのか」をだれか論じてくれないかな。広告代理店はクライアントよりも目立たないのが鉄則だし、美徳でもあるから、なかなか実現しづらいだろうけど。新しい文芸批評のフィールドになりうると思っています。
山本
まあここで「詩人」というともはや誰も関心がないかもしれないけれど、短歌とかエッセイも含めて考えていくと、必須な論点であることがなんとなく伝わるのかもしれない。
笠井
パトリック・ハーラン『大統領の演説』(2016)を選んだのも、同じ理由ですね。著者は外国語としての日本語を学んで、お笑い芸人にまでなった方。いわば「話芸」の達人です。しかも「ニューズウィーク」の政治コラムなどを読むと、キレのある皮肉と親切なユーモアにあふれた時評をコンスタントに書き続けている。その彼がスピーチライティングを論じた1冊です。
山本
「演説」という表現形式はいまものすごく重要ですよね。お笑いも演説だしYouTubeも演説。文章がどれだけ書けたって演説が下手だとばかにされるしお金も集められないけれど、文章が書けなくても演説さえ上手ければお金も集められるし影響力も持てる時代。当然、演劇をはじめとした身体表現やラップをはじめとした音楽とも関わる。政治家という職業がビジネスマンの目指すべき先のひとつのようになりつつある現在において、最も不可避な表現形式のひとつだと思う。
笠井
「人前に出たくないから文芸を始めたのに」という人には、ハードな時代だよね。ぼくは作文ばかり練習してきたから、からだが元気なうちに演技をきちんと習ってみたい。だから耳学問なのだけど、他の芸術分野の理論書も、ぼくが参考になった本を挙げました。なかでも『現代詩読本 特装版 谷川俊太郎のコスモロジー』(1988)は、古本屋でたまたま見つけて「すごい」と思った。詩人1人を論じるのに、ここまで贅沢な目次がつくれるんだなと。
山本
「現代詩読本」は雑誌『現代詩手帖』での特集をいくつか組み合わせたりして分厚いムックとして思潮社が出していたシリーズで、ほかの詩人のものもどれも資料的価値がとても高いものばかり。しかし目次の詩人たちの名前を見るとほんと昔は現代詩は賑わっていたのだなと思わざるをえない……いやまあこのあいだ出た『ユリイカ 2024年3月臨時増刊号 総特集=92年目の谷川俊太郎』もすごく分厚かったけれど(笑)。
笠井
もう1冊、谷中瞳さんという自然言語処理の研究者が書いた教科書『ことばの意味を計算するしくみ 計算言語学と自然言語処理の基礎』(2024)です。すでに研究室も持たれて、共著論文も多い方だから、研究主題を要約しづらいのだけど、博士論文にもなった「自然演繹に基づく論理推論を用いた文間関連性の評価」はすごかったな。文芸批評もこの水準で書けたらと思った。
20世紀にはミシェル・フーコー『知の考古学』(1969)が言語コーパスにおける意味空間の分布を辿るようなビジョンを示していたし、日本語圏にも「文章心理学」の蓄積があったけれど、フランコ・モレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』(2013)やホイト・ロング『数の値打ち――グローバル情報化時代に日本文学を読む』(2021)のような実証研究がようやくできるようになって来たところだから。
そして、ジョルジュ・ペレック『人生 使用法』(1978)ですね。
山本
ペレックの『人生 使用法』は、個人的には、kiki『あたし彼女』と並ぶ「笠井康平」感のある本です。
笠井
事あるごとにふれてきたからね。なじみのない読者の方には、「難しそうな作家に言及して、かっこつけてるだけだ」と割り引いて受け止めてもらえたら(苦笑)。
山本
「人生で1冊選べ」って言われたら、『人生 使用法』を選びますか?
笠井
分厚いから、おすすめしづらいけどね。すべて読まなくても面白いし、作品設計からして「決して通読できない」ようにもなっています。「人生は思うように行かないし、いつかはみんな死ぬ。なのにぼくらはずっと生きてしまうね」と思える本です。
100冊をふりかえって
笠井
しかしこうしてみると、口では「みんなに読まれたい」とか言いながら、かなり「読み手を選ぶ本」になってしまった。
山本
いやでも、参考になるひとは多いんじゃないかなと思います。いろんなジャンルにまたがっているぶん、単純に「こんな本あるんだ」と思うものも多いでしょうし。
笠井
まだ知らなかった本が見つかると、うれしいですね。とはいえ、今回の選書リストで、『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』という1冊の本をめぐるにしては多すぎるほどの背景知識をどっさり開示したのは、「無理してたくさん読もうとしないで」と伝えたいからでもあって。少なくとも、ぼくが選んだ本は「もう読んだから大丈夫だよ」と。
まちがっても必読書リストではないし、「すべて読まないと笠井康平はわからん」なんてことには絶対にならない。もしこれが「生い立ちから順番に語ってください」と言われたら、全然ちがう選書になるだろうし。
たとえば、ぼくが生まれて初めて買った本は、サッカー選手のための筋トレ本だったから。
山本
『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』のなかにもサッカーをテーマにした小説「ストイコビッチのキックフェイント」が入ってますよね。
笠井
21歳のときに書いた短編ですね。収録作のなかでは最も古い。この選書リストを作って分かったのは、この作品集は「100冊分のエッセンスが詰まった本」なのかもしれないね。「野菜生活」みたいなお得感がある。とすると、本来のタイトルは『人間生活』だったのか……?
山本
「人間」についての選書リスト、を背景にした人間小説……。
笠井
そう思うと、本は、奇妙なメディアですね。匿名でも複数人でも「作者」はいるし、一人ひとりの存在は消えないから。
山本
まあ、人に似すぎていますよね。
笠井
たくさんの人の足あとをたどりたいなら、いまのところは「本」がもっとも効率いいんじゃないか。視覚メディアで個人の生涯を「撮影」するのは大変だし、現代の聴覚メディアは、かつてのオペラや組曲のようには、超長大な時間を聴かせづらい。
「紙の本」で消費可能なフィクションの読者は減っていくだろうけど、結局みんなスマホで毎日大量の「書き言葉」を読んでいるし、動画視聴しているようでいて、「字幕」や「歌詞」を消化しているだけだったりするし。
お客さんがさっぱり来ない人文書棚を手入れする日々は、ときには無性にむなしくなるものだけど、過度に悲観しなくてもいいのだろうね。
山本
そのあたりで、本をめぐる状況も、本という装置をめぐる考え方も、大きく再定義していかないといけない時期であるのは間違いないですよね。市場的な話でいうとそれはもうここしばらくずっとそうだったとも言えるし、あるいは生成AIの急激な発達でより喫緊の問題となったとも言える。
本を書くというのが「人に読んでもらうため」ではなく「AIに食わせるため」になる可能性もあるだろうし、あるいは逆にひとがものすごくたくさん喋ってAIに学習させてそこから各出版社が作りたい本をAIを使って作る、それを著者が確認する、みたいなかたちになったりもするかもしれない。
そこまで言わずとも、語りおろしの本はAIによる文字起こしと整え・要約によってものすごく早く低コストで作れるようになっていくのは間違いないと思う。
笠井
この対談もそうやって作られたしね。テキストの流通構造を広くみれば、短期的なトレンドや流行り/廃りはあれど、作者がマルチモーダルに立ち回れる局面はたくさんあるはず。というか、そうか。『私的なものへの配慮No.3』の表紙に山本くんが引用してくれたくだりは、そういう景色を描写していたんだった。
山本
せっかくだから『私的なものへの配慮No.3』から該当箇所を引いておこう……こうして比べて見てみると、今回の『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』の文体は語彙からしてずいぶん読みやすい(笑)。こういう文章を発表していたひとが、恋愛小説とか家族小説を書いているのが、今回刊行する『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』です。
学習済み畳み込みニューラルネットワークを用いた文字認識の精度は、2015年ごろから99.5%水準で競われるようになった。もちろん字形による不得意はまだある。日本語でいえばひらがな・カタカナの認識は失敗しやすい。定番の学習データばかり使われているから性能の懸念もある。現実空間を相手にする作業には技術開拓の余地が多い。物体認識や動体検知、画像補正の技術蓄積を踏まえることになる。処理の高速化は依然として課題だろう。しかし現に、200字あたり1字しか誤認が許されないような、厳しく、苦しい戦いが繰り広げられているのだ。
研究者たちはすでに夢見ている。機械学習による認識精度が99.999%を超えたあとの世界を。視覚または聴覚による文字の認知が、そのままテキストデータに置き換えられる瞬間の訪れを。
そのとき僕たちが読み、書くことは、日々を寝起きし、暮らすことそのものの輪郭とぶつかり、重なり、溶け込むだろう。自動車は管制通信に溺れながら、三次元地図と高解像度気象情報を盲目の潜水夫みたいに読み耽るだろう。あなたの絶え間ない私生活を撮りためた分電盤が、深夜の長電話みたいに途切れない独り言を、外気圏で泳ぎまわる無数の小型衛星めがけて吐きだすだろう。その独り言はかつて群生した消費行動の圧搾‐抽出器が、無毛の仮想人種を育てた宙空の地下室へ書き送られるだろう。地理空間と識別番号はその積層と残滓を部屋中の画面に知らせるだろう。どの画面もひっきりなしに視聴者を更新し、錆び付いた新聞紙の鉱山みたいに積みあがった広告在庫を、不眠不休の不正検知器が飽きあきした顔で眺めるだろう。使い捨ての視線、堆積する声、不在の手ざわり。記述ではなく削除が、羅列ではなく要約が、産出ではなく選別が、創作ではなく労働が、作者と呼ばれる者に課される主務となるだろう。データ流通の停滞と伝統的なプライバシー懸念と計算資源の経営コストがその妨げだろう。失笑と羨望が20世紀後半に再び注がれるだろう。いま・ここで夢見られたその時代を、僕たちは事実として生きられるだろう。
笠井
いま読み返すと、素朴な感想だけど、本当にそういう時代になってきたなぁ。春夏ごろには新装版を出したいですね。
山本
じつはそういう話も進んでるんですよね。いま初出しの情報ですが(笑)。
笠井
今後にご期待ください。といったところで、今日はありがとうございました。
(2025/02/03収録)
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