数学(2022/5/11):キューネン本2冊についての記事_3.ZFC集合論の公理のリスト_1(集合存在公理・置換公理図式・内包公理図式・外延性公理、中間生成物:集合)
1.ZFC集合論の公理のリスト
(2022/6/5 15:00頃)2022/6/1予告通り大改訂済
(2022/6/8 18:00頃)MK集合論と絡めて追記修正
(2022/6/15 19:00頃)外延性公理をより手前に移動、文面一部修正
***
ZFC集合論には、いくつかの公理があります。
ちなみにキューネン本2冊の独自の定義があり、世間的な定義と少し違うので、注意が必要です。
なお、とある理由で、後々キューネン本2冊の方の定義を採用します。
とはいえ、影響があるのは2つの公理だけで、後はふつうに世間的な定義を羅列します。
順番は一応考えております。基本的に下に行くほど、高度な概念が必要となる、複雑な公理になるようにしているつもりです。
なお、それぞれの公理については簡単な説明にとどめます。論理学の文レベルでの詳しい説明は致しません。
(数学寄りでない人が、論理学の文を読みたいかというと、ほとんどの場合、読みたくないでしょう。
簡単な説明以上のことをして、逃げられるような記事を書いていたら、この記事の趣旨からすると、困るのです)
また、非常に重要な話として、本当に長くなるので、記事をたくさん分ける予定です。
今回作るのは、『集まり』から出発して、初歩的な『集合』までです。
次回は『集合』から『(集合論的な)関係』まで作ります。
その後、『整列可能集合』、『順序数としての自然数』、『基数としての自然数』と続きます。
***
さて、キューネン本の定義と、世間的な定義とで、ZFC集合論の公理が少しだけ違います。
キューネン本のZFC集合論の公理:『集合存在公理』『置換公理図式』『内包公理図式』『外延性公理』『対公理』『和集合公理』『冪集合公理』『無限公理』『選択公理』『基礎公理』
世間的なZFC集合論の公理:『置換公理図式』『外延性公理』『空集合公理』『対公理』『和集合公理』『冪集合公理』『無限公理』『選択公理』『基礎公理』
世間的な定義でいう『空集合公理』は、『空集合』というものを作るのに使われるのですが、これは実はよりシンプルな『集合存在公理』に基づいても作ることが可能です。そのためか、キューネン本の定義では『集合存在公理』が存在する代わりに、『空集合公理』が存在しません。
そこだけが、キューネン本の定義と世間的な定義の違いです。
ちなみに実は、最初にZFC集合論のオリジナルを作った、数学者ツェルメロ("Z" に当たる人)は、後述の『内包公理図式』を採用していました。
これに対して、ZFC集合論を改定した、数学者フレンケル("F" に当たる人)は、『内包公理図式』の代替として『置換公理図式』を採用したのでした。
キューネン本では両方採用しております。念のため注意書きをしておきます。
また、この記事では、『内包公理図式』が作られる理由となった、克服されるべき問題を含んだ公理、『素朴内包公理図式』の話もします。
こちらはキューネン本でも、世間的にも、ZFC集合論では採用されません。
***
今回の記事では、『集まり』から、一般に認められる初歩的な『集合』までの話をするのでした。
その結果、公理としては『集合存在公理』『置換公理図式』『内包公理図式』『外延性公理』の話をすることになります。よろしく。
1_1(キューネン本).集合存在公理
「自らに等しいものが存在する」
***
極めて当たり前のことを言っているように見えます。
この論理式では、一階述語論理で認められている存在量化子(あるいくつかの)と、集合論用の論理学で認められている等号(等しい)を使っています。
要は、この論理式は、前回説明した「集合論用の論理学の世界」における論理式です。気を付けるべきところはそこだけです。
これをわざわざ言うのは理由があり、たとえば後で説明する空集合のようなものも「存在している」ことを明言するためです。
空集合とは要素のない集まりのことであり、何の前置きもないと、あるかないか微妙なものに見えます。
この公理の手前、空集合は「ある」という扱いになります。
空集合はこの後実際に多用するので、これが「存在しないもの」とされると困るのです。
(「ZFC集合論の枠内で存在しているかどうか」についての話は、後であちこちの箇所ですることになります)
***
これを提唱した学者がいたはずですが、調査が不足しているのか、確認できませんでした。もの知らずで申し訳ありません。ご存じの方は教えて下さると幸いです。
1_2.外延性公理
「要素が全部同じである集まりは同等の集まりである」
外延性公理とは、集合の定義に使うものであり、また集まりにおける同等の定義としても機能します。
確かに言わんとしていることは分かります。これは我々の常識にも概ね合致するところですね。
1_2_1(成果物).外延
内包公理図式抜きの、集合存在公理と外延性公理のみで、要素を列挙した集まりというものも考えられます。
例えば {グー, チョキ, パー} などがそうです。
これは内包公理図式を使っていないため、クラスではないのですが、集まりとしては素直な構成ですし、これをそのまま扱えるようにしたくなります。
ある種の人たちはこれを『外延』と呼びたくなるかもしれません。
1_3(フレンケル流).置換公理図式
「ある集合の全ての要素を、特定の性質を持つ論理式で加工した成果物により、それら成果物を要素とした新しい集まりが作れる」
「ここで必要とされる特定の性質とは、その論理式が、本来出力される先である「特定の性質を持つ論理式で加工した成果物による集まり」を、あらかじめ使用していないことである」
「特定の性質さえ満たしてれば論理式は何でも良い」
「論理式が、本来出力される先である「特定の性質を持つ論理式で加工した成果物による集まり」をあらかじめ使用していたら、要請される特定の性質に反するため、置換公理図式は成り立たない」
***
やや込み入っていますね。
本質的には1番目が最重要です。次に2番目、3番目と続きます。
(特に4番目はわざわざ書きましたが、ある種の人たちには言わなくても分かることなので、省略してもよいくらいです)
これはツェルメロのオリジナルのZFC集合論を改定した、"F" に当たる人、数学者フレンケルが提唱したものです。
ツェルメロは『内包公理図式』(後述)を提唱しており、『置換公理図式』を受け入れなかったのですが、最終的に『置換公理図式』の方が主流になりました。
キューネン本では贅沢にも両方採用しています。
1_3_1(成果物1).特定の条件を満たした論理式で加工したものによる集まり
2番目によって、「本来出力される先である「ある条件を満たした論理式で加工したものによる集まり」を表す変数を、自由変数(何かあるものを代入してよい変数)として持たないような、ある論理式」を作ることになります。この縛りは何かというと、少なくとも置換公理図式においては、「出力先を先取りしてあらかじめ論理式の定義に組み込むような真似をしない」ということです。上記の特定の性質、すなわち「論理式内で出力先を先取りしていないという性質」を持つ論理式による、都合の良い集まりを作りたい訳です。
***
そんな訳で、「ある集まり」に「特定の性質を持つ論理式」を使うと、「特定の性質を持つ論理式で加工した成果物による集まり」が作れることとします。
これは「特定の性質を持つ加工した成果物」を「集めたもの」であり、そういう意味では「外延性公理」で作られる「外延」です。
後述の通り、「外延」は「集合」においてあり得るパターンの2つのうち1つなので、これでこの集まりを「集合」とみなしても問題ありません。
(今の時点ではこう言い切るのはまだ早いのですが、このコラムが終わる頃にはもう問題なくなります)
ある集まりをこれで(特定の性質の制約の下で)かなり自由自在に加工して、しかもそれらを集合とみなすことができると、加工の際にたいへん都合が良くなります。
1_X.(ZFC集合論で採用されない、カントール流の)素朴内包公理図式
「特定の性質を持つ論理式を満たす要素のみを全て集めた集まりがある(これを『クラス』と呼ぶ)」
***
実は、集合論そのものの由来は、数学者カントールによるものです。
『素朴内包公理図式』はそのカントールが提唱したものです。
ある性質だけを満たす集まりがあると、もちろん便利であろうことは分かるのですが、実はこれには応用上の問題がありました。それを後で見ていきましょう。
結果として、これはZFC集合論には採用されておらず、より適切な公理(『内包公理図式』)が導入されました。
(『内包公理図式』はさらに『置換公理図式』に取って代わられたのです。
が、これは利便性の向上のためで、不適切さゆえにそうなったのではありません。
なのでこれがキューネン本に採用されていること自体には問題はありません。)
1_X_1_A(成果物の下準備).性質
後で必要になるので、哲学寄りの人に向けて、『属性』ないし『性質』の話をします。
ふつう、文でない論理式は自由変数を含んでおり、ここの自由変数がどういうものかによって、その論理式の機能が決まるものです。
平たく言うと、論理学における『性質』は、通常は「ある自由変数についての論理式」で表せるものです。
(量化子がついている変数には、あるものを代入できなくなります。
「あるいくつかの」とか「すべての」とかがついている変数に、今更具体的な値を入れようがありません。
こうした変数は束縛変数と呼びます。
この話は基本的に今後出て来ないはずですが、一応します)
***
そして、集合論における『性質』は、特に自由変数に『集まり』を代入した場合、つまり「ある集まりについての論理式」として捉えられます。
集まりを使う以上、もちろんこの論理式は「集合論用の論理学の世界」における論理式です。
集合論における『性質』が「ある集まりについての論理式」である以上、当然、その集合論における『性質』によって特定の『集まり』を作ることができる訳です。
1_X_1_B(成果物2の下準備1).部分集合
『集まり』『所属』『要素』の延長上として、
「元々の集まりに所属する何らかの要素(すべての要素であるときもあれば、そうでないときもある)を、すべて所属させている、ある集まり」
があるとします。
(そういう集合論における『性質』を持つ集まり、と言ってもよいでしょう。
そのため、この集まりは、後述する様々なクラスの中でも、最も原始的なものの一つです。)
このとき、『ある集まり』は『元々の集まり』に『包含』されているとか、『ある集まり』は『元々の集まり』の『部分集合』であるとかの言い方で表します。
(あらかじめ書きますが、クラスというもの全般は、集まりというもの全般の、何らかの意味での部分集合です。
つまり、部分集合はクラスというもの全般に共通する性質を表すものの一つでもあるため、この記事でも特別扱いします。)
説明をよく読めば、どうやらこれは、『部分』について我々が日頃何となく考えていることのほぼ大半を説明できるように見えます。
ただ、2つ、常識に合っているとは言い難いところがあります。
まず、『元々の集まり』と『ある集まり』が同等である場合も、『元々の集まり』=『ある集まり』を『部分集合』として扱って問題ありません。
これは自分自身が『部分集合』であるケースです。
『同等』については『外延性公理』で触れた通りです。
また、後で説明するように、『ある集まり』の中に要素が全くなくても問題ありません。
これは後述の『空集合』が『部分集合』であるケースです。
慣れないうちは面食らうかもしれませんが、少なくともZFC集合論ではこれで話が進みます。慣れましょう。
もちろん『部分集合』は、『元々の集まり』も含め、『空集合でない集合』の方がふつう多いはずです。
『空集合』および『空集合でない集合』の話は、次回行います。
哲学寄りの人の感覚だと、「元々の集まりに所属する何らかの要素を、すべて所属させている、ある集まり」以外にも、なんか共通の性質を持っていてほしいかもしれませんが、そういうことはZFC集合論では特には要請しません。かなりゆるい性質が想定されています。
もし、部分集合に対して他にも何らかの性質を備えさせたいのであれば、次に書く『素朴内包公理図式によるクラス』として定式化されるものが、正にそれになります。
1_X_2(成果物1).素朴内包公理図式によるクラス
何でも良いので、何らかの特定の性質を持つ論理式による、都合の良い『集まり』を作りたい、と言う動機がある訳です。
(なおこれは元々の集まりの『部分集合』でもあります。
「ある集まり」の中で、「何らかの特定の性質のある要素の集まり」と「何らかの特定の性質のない要素の集まり」に分けた場合、前者が正に今回作ろうとしているものになります。
明らかにこれは前述の部分集合でもあります。つまり、「何らかの特定の性質のある要素の集まり」は「ある集まり」の部分です。
(テクニカルな話になりますが、これは、全ての要素がその性質を持っていたり、あるいは全ての要素がその性質を持っていなかったため、後述する空集合しか作れなかったりした場合でも、何の問題もなく成り立つようになっています。よくできてるなあ。))
この都合の良い『集まり』を、『クラス』と呼びます。
つまり、素朴内包公理図式とは、クラスの構成を正当化するための公理です。
「何らかの性質を持つ要素しかない集まり」、明らかに使い勝手が良さそうですね。
***
『ある自由変数についての論理式』や『クラス』も、『性質』について我々が日頃何となく考えていることのほぼ大半を説明できるように見えます。
たとえば、「馬は走る」という自然言語の文は、 P(x) というなんかの論理式があったときに、x=「馬」、P()=「~は走る」を代入すると、こうなる、というものでもあります。
同様に、「白い碁石の集まり」は P(x) というなんかの集まりに関する論理式があったときに、x=「碁石の集まり」、P()=「白い~」を代入するとできる『クラス』でもあります。
これら2つのパターンは、性質の使われ方のほぼ大半を説明しているように見えます。
(相当ラフな言い方をしていますが、分かりやすさ重視、ということでご了承下さい。
また、副詞の話は、さらに高度な話になってくるので、今回は避けています)
1_X_3.ラッセルのパラドックス
しかし、素朴内包公理図式をそのまま使うと、後々の展開で、矛盾が生じます。
「この集まりは自分自身を所属させない」
という論理式を考えます。
これに使われている論理式は、つまりは
「自分自身を所属させていない集まり」(仮に「ある種の集まり」と呼ぶことにする)
を保証するためのものです。
そして、これを素朴内包公理図式に適用すると、
「自分自身を所属させていない集まりの集まり」(仮に「ある種の集まりのクラス」と呼ぶことにする)
ができます。
さて、「ある種の集まりのクラス」は、「自分自身を所属させている」か、それとも「自分自身を所属させていない」か、考えてみます。
もちろんどちらかであるべきですし、同時に成り立ってはいけないのですね。それでは矛盾ということになってしまいます。
「ある種の集まりのクラス」が「自分自身を所属させていない」場合、
「ある種の集まりのクラスに所属するある種の集まりが、同時に自分自身には所属していないこと」
が言えます。
さて、「ある種の集まり」に「ある種の集まりのクラス」を代入することは、現時点では何ら禁じられていません。やってみましょう。
すると、
「ある種の集まりのクラスに所属するある種の集まりのクラスが同時に自分自身には所属していないこと」
が言えます。
困りました。
この状態は、前半では
「ある種の集まりのクラスは自分自身に所属している」
し、後半では
「同時にある種の集まりのクラスは自分自身に所属していない」
と言うことです。
自分自身に所属しながら所属していない。
これは、端的に、矛盾です。
***
何がいけなかったのか?
こうなったのは、素朴内包公理図式の制約が甘かったせいです。
矛盾を生じさせないような、何らかの制約をかけないと、出来た集まりから矛盾を取り除くことはできません。
理論として信頼に値するものを作って、それに準拠して議論を進めるのであれば、矛盾のあるものが紛れ込んでいては困るのです。
こうなると、矛盾のないものだけを扱いたいので、こうなると適切な制約をかけた公理を、作らねばならない、と言うことになります。
***
あるいは、開き直って、
「このようなクラスは、存在する」
とする路線の集合論も、実はありえます。
ただしこれはもうZFC集合論ではありません。ここは気をつけて下さい。
あらかじめ、そちらの話をします。
1_X_4(MK集合論流).クラス内包公理図式
「素朴内包公理図式でいうクラスは、存在する」
***
(キューネン集合論での記述を信じる限り)クラスそのものを明示的に、しかも無制限に認める立場として、数学者モース、ケリーのMK集合論があります。
極めて興味深いのですが、ラッセルのパラドックスの矛盾はどうやってクリアしているのでしょうね。
上の議論を見ると、
「ラッセルのパラドックスは
「あるクラス R が集合であった場合「のみ」、自分自身に所属しないし自分自身に所属する」
という話である。
だが、そもそもこうして想定されるクラス R は集合ではなく、ただのクラスである。
ラッセルのパラドックスは集合についてだけ意味を成す。
ただのクラスをラッセルのパラドックスに適用することは認められていない。
クラスを適用されたラッセルのパラドックスという論理式の方が存在できないので、そこから集合もクラスもそもそも構成されようがない。
存在していない集合やクラスが矛盾しているかどうかなど、検討以前の問題である」
という論法のようです。なるほど。
(どんなのが集合なのかは、すぐ後で書きます)
とはいえ、詳しくはケリーの原著に記述があるはずなので読まねばならないはずです。
この記事はキューネン本の説明だけで手いっぱいなのに、ケリー本しかも英語まで読んでる時間はないのですね…
(軟弱者と言われたらそうですが、記事の投稿に足りる記述が得られればそれでいいのです。軟弱者だなあ。)
(ところでこのリンクは著作権上問題ないのか? あったら後でリンクを消します。)
なお、この記事では、これ以降は下の内包公理図式を使うので、
「内包公理図式に反しない、無害な例しか扱わないから、これ以降実際には素朴内包公理図式やクラス内包公理図式の出る幕はない」
とします。
1_4(ツェルメロ流).内包公理図式
「特定の性質を持つ論理式を満たす要素のみを全て集めたクラスがある」
「ここで必要とされる特定の性質とは、その論理式が、本来構成される先であるクラスを、あらかじめ使用していないことである」
「特定の性質さえ満たしてれば論理式は何でも良い」
「論理式が、本来構成される先であるクラスをあらかじめ使用していたら、要請される特定の性質に反するため、内包公理図式は成り立たない」
***
さっきの置換公理図式と素朴内包公理図式の合わせ技のような公理図式です。
やはりやや込み入っていますね。
本質的には1番目が最重要です。次に2番目、3番目と続きます。
(特に4番目はわざわざ書きましたが、ある種の人たちには言わなくても分かることなので、省略してもよいくらいです)
これは元々は、ZFC集合論の最初の提唱者、"Z" に当たる人、数学者ツェルメロによるものです。世間では『分出公理』と呼ばれることも多いものですが、キューネン本では『内包公理図式』と呼ばれます。
今ではこれを使う流派は少ないですが、キューネン本では置換公理図式と共に採用しています。
また、内包公理図式は論理式なのですが、この論理式においては、2番目の制約を実現するために、等号や集まりや所属や要素を使っています。
つまり、前回説明した「集合論用の論理学の世界」の論理式を使っていることに注意して下さい。
1_4_1(成果物1).内包公理図式によるクラス
2番目の制約を実現するために、「集合論用の論理学の世界」の枠内で、「本来構成される先である『クラス』を表す変数を、自由変数として持たないような、ある論理式」
を作ることになります。
この縛りは何かというと、少なくとも内包公理図式においては、
「構成先を先取りしてあらかじめ論理式の定義に組み込むような真似をしない」
ということです。
何でも良いので、何らかの特定の性質を持つが、「論理式内で構成先を先取りしていないという性質」にだけは反しない、そんな論理式による、都合の良い『クラス』を作りたい訳です。
つまり、内包公理図式によって、矛盾を回避したクラスを構成する訳です。
今後は、特に注意しない限り、『クラス』とは内包公理図式によるクラスのことを指すことにします。
***
たとえば、「ある種の集まり」に、生成物である「ある種の集まりのクラス」を代入しないルールを定めたら、ラッセルのパラドックスは発生しませんし、だからここで矛盾が起きることもなくなります。
***
内包公理図式は、置換公理図式の時と似たようなことを書いています。
が、置換公理図式は
「特定の条件を満たした論理式で加工したものによる集まり」
を作るのであり、内包公理図式は
「何らかの性質を持つ要素しかないクラス」
を作るのです。作るもののレベルが違うのですね。
また、突き詰めると、内包公理図式は置換公理図式の一種であることも分かります。
加工のプロセスが自らの集まりの要素に向かっていると、これは内包公理図式で言っていることと同じことになる、という寸法です。
「特定の条件を満たした論理式で加工したものによる集まり」
の一種として
「何らかの性質を持つ要素しかないクラス」
を考えて良いということです。
1_4_2(成果物2).内包
ちなみに、クラスの中には、我々が都合良く扱える特定のクラスと、それ以外のクラスがあります。
***
集合存在公理と内包公理図式と外延性公理のおかげで、
「何らかの性質を持つ要素しかない集まり」
として
「同一視できる、つまり1つのものとみなせるもの」
が
「ある」
ことになります。
ある種の人たちはこれを『内包』と呼びたくなるかもしれません。
『内包』は、我々が都合良く扱える、特定のクラスです。
1_4_3(成果物3).集合
しばしば、『内包』か『外延』のいずれかである『集まり』を、ひっくるめて『集合』として扱います。この記事でもそれに準拠します。
なお、『集合』だけ考えるならこれでいいのですが、これで数学を作るなら、『(ZFC集合論の条件を全て満たす)集合』まで必要になります。
これを作るのは途方もなく大変ですが、この記事の暫定目標は、『(ZFC集合論の条件を全て満たす)集合』を「作る」ことなので、やらねばなりません。
***
集合以外のクラス、特に「集合として扱うと大きすぎる」内包公理図式によるクラス、『真クラス』の話もあるのです。
が、後で使うので、その時説明します。
その際に、またしてもZFC「でない」集合論の話に触れることになります。
***
で、当然、
「『(ZFC集合論の条件を全て満たす)集合』から数学を構築できる」
と言い放つ以上、
「『(ZFC集合論の条件を全て満たす)集合』として、どういうのが都合が良いのか、はっきり表現しておかないと困る」
という話が出てくる訳です。
という訳で、
「こういう都合の良い性質があり、この集まりはそれに従う」
とする『公理』をいくつか用意し、それに従った『クラス』を『(ZFC集合論の条件を全て満たす)集合』ということにしたくなります。
このように公理を使う手法は、先ほど述べたように、広く論理学で見られるものです。
(このように、集合論と論理学は複雑に絡み合うことで、広く数学を構築する際に非常に便利になります。
が、基礎づけ病の人(私)にとっては、「卵が先か鶏が先か」、という類いの混乱の元にもなります。
これを解きほぐしていくことで、見通しがより明快になるので、できるだけ丁寧に追っていこうとは思います)
2.次回予告
さて、この初歩的な『集合』と、その他のZFC集合論の公理から、どのような数学的対象が構成されるのか?
これについては次回書きます。乞うご期待。
(続く)