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読書(2024/9/21):荒山徹『神を統べる者』全体の感想


1.これはなんだ?

世界各国の歴史を題材にして奇想天外エログロナンセンス娯楽小説を描かせると天下一品である荒山徹先生の、仏教オカルトを題材とした一大奇想天外エロ(グロとナンセンスは今回あんまりない)感動長編娯楽小説です。

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主人公は、大昔の日本の皇子にして仏教国の立役者にして超人的逸話の多い『聖徳太子』、この小説の呼称では『厩戸御子』の、幼かりし若かりし頃のです。

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この小説は全部で三巻あります。

上巻『厩戸御子倭国追放篇』は、
「仏教を倭(当時の日本)に導入したい親族の蘇我氏の流れで、仏教に関心を抱く天才少年・厩戸御子。
彼は幼くして才能を開花させるが、時の天皇に疎んじられて倭(当時の日本)を追放され、かつての仏教はじまりの地・インドに旅立つ」
という話です。

中巻『覚醒ニルヴァーナ篇』は、
「厩戸御子は中国や海路での外国旅行を経て、目的地ナーランダ寺院に到達し、学業と修業に励む。
しかし、第二次性徴に伴い、仏教の根本問題意識、「生き物としてのままならなさ」に直面する。
最終的に、自分の性と仏教に対して、仏教の教祖・お釈迦様同様、ある折り合いをつける」
という話です。

下巻『上宮聖徳法王誕生篇』は、
「仏教が身に沁みて分かった厩戸御子は、仏教徒として、皇子として、仏教『国』という新たな問題領域に直面する。
仏教国を作りたいインド仏教カルト分派との戦い。一大仏教国でもある中国再統一帝国・隋の脅威。
倭に帰った厩戸御子は、いくつかの途方も無い決断を下し、進むべき仏教国の道に邁進する。
結果として厩戸御子は、リアルとしての政争・戦争と、それらの背景に横たわる「在りて在らぬもの」に向き合うことになる」
という話です。

2.娯楽小説のある種のフルコースを喰らっている

  1. 上巻は天才少年成長物追放物外国旅行記

  2. 中巻は特撮冒険記外国旅行記仏教官能と再び仏教

  3. 下巻は特撮冒険記外国旅行記政争戦争オカルト神話悲恋

によって構成され、時々腹がはち切れそうになりながらも、娯楽小説のある種のフルコースを存分に楽しめました。

3.この小説の中巻において、ブッダとは何であるのか

この小説において、特に中巻でのトピックとして、
「仏教とは、というよりお釈迦様におけるブッダとは、何であるのか」
という話が出てきます。
かなり重要な話になるので、追って読解を行いたいと思います。

お釈迦様は自分の生き物としてのままならなさに苦しみ、これをどうにかしようとしました。
命や体は、心に苦しみと過ちをもたらすが、これらをもたらさないようにしたい。それがお釈迦様の仏教であり、命や体が心に苦しみと過ちをもたらさなくなった状態の人がブッダです。

中国道教の道士たちは仏教を見て、
「生の欲望は肯定すべきものであり、生き物としてのままならなさとは思わん」
と否定します。
そういう意味では、
「自分の生き物としてのままならなさを如何とやせん」
ということ自体、そもそもかなり画期的な問題意識であるのでした。

欲を追求した後で、欲に振り回されている自他にうんざりする。
ヨーロッパでは、産業革命による私利私欲無秩序状態(アノミー)後の放蕩青年、実存主義の祖・キェルケゴールが。
インドでは、都市商業発展後の後宮王子、仏祖・お釈迦様が。
そこへの問題意識を示した一人である訳です。

「命や体に心を苦しめさせず過たせない」と簡単に言いますが、問題意識は言語化して共有できたとしても、その実践については、個々人の状態によるところが大きい。一般化は出来ない。
さらに、お釈迦様は知らないことについて語らない。奥ゆかしく真っ当な姿勢ですが、お釈迦様と遠い人々についての説明は薄くなる。(具体的には女性がどう悟るかの話については手薄である)
そこは仏教の構造的弱点です。とはいうものの、これを回避することは、どう考えても到底容易なこととは思えません。なのでとやかく言いたくはないところです。

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そして、ブッダになった(!)厩戸御子は、しかし皇子として、政治家として、ある問いに直面します。
この小説ではインド仏教カルト分派・トライローキヤム教団と隋が顕著ですが、「仏教国を作る」という話が出てきます。ここです。

仏教として見たら、トライローキヤム教団の理想は
「仏教国? それが心を苦しめ過つなら、有害だからやめなさい」
でしょう。

が、隋を見た時に、厩戸御子は理解します。
仏教国は大国の基本思想だ。
倭も仏教国にならないと、大国に秒殺される。
理想はいい。現実を見なきゃ。

4.ブッダを経て俗世に還る厩戸御子の、新たなる問い

帰国後、厩戸御子はいくつかの問いに直面します。

  • 理想ではなく現実としての仏教国。

  • ブッダのままでは処世はできない。

  • 政治をやるには人間に戻らねばならない。

  • 政治の敗者たちへの補償。

  • 超自然との対峙。

今言った話は全部、お釈迦様の仏教ではどうにもなりません。

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そもそもの話をすると、
「命と体に心を苦しめられず過たない」
という話は、今命と体のために心を動かす、処世をする市井の人々には、
「そもそもそれ以前の問題なのに何言ってんだ」
と退けられても、やはり仕方がありません。
そこは、中国の道教の道士たちの理屈の方が、「この場合は」正しいのです。

とはいえ、処世をする俗世の人々から離れて、高邁な精神で生きていく寺院の神聖なる路線を、万人が採れるとは限らないというか、採れない訳です。
また、聖で生きていくと、俗はできなくなってしまいます。
そして厩戸御子は、聖を知る者でありながら、俗の、人民のために、政治をやりたいのです。

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聖俗等、異なる立場の間での関係をできるだけまっとうにやることは、社会においては避けられません。
それを社会がやらないでいると、カースト等身分制等による社会的分断は避けられなくなります(しかもそれは権力者が利益のためにしているというより、各クラスタ無理解安心のためにやっているのです)し、それは結局社会に軋轢を生み、しかも下への押し付けになり、時に上下関係が、稀に社会制度転覆されます。まあよくある話だ。
異なる立場の間での関係を、適正にやれる、個人の実践や社会体制ができていたら、それはすごいことです。

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しかし、厩戸御子の頃の倭では、異なる立場間での適正な関係を可能にする社会体制などというものは、望むべくもありませんでした。
結局、厩戸御子本人も、異なる立場間での適正な関係の個人的な実践をしたりは、特段しませんでした。

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そういうことで、厩戸御子は、聖の立場俗と関わることも、俗を支配することも、放棄しました。

そうではなく、自らが俗に還ったのです。
俗世間で政治家をやる以上、これが一番確実だったし、手っ取り早かった。

むしろ、俗の立場で、聖を支配する。
つまりは、倭における仏を統べる者となることを選んだ。

処世政治は、厩戸御子が俗に還ることで、やっていけるようになりました。

***

この小説では、さらに二つの話があります。
一つだけして、もう一つは後で別の項目を設けて話をしましょう。
ここでするのは、上巻と下巻でつきまとう、倭の暗黒面、水蛭子神族の話です。

父神・伊弉諾尊(イザナギノミコト)と母神・伊弉冉尊(イザナミノミコト)の頃から、棄てられた長男神・水蛭子(ヒルコ)は、倭国の政治の都合で敗者となった者達の、怨念の意識の集まりとして在ります。
彼らはしかし、不可思議かつ得難い発想に至ります。
怨念の再生産と循環に、うんざりした。
彼らは生きることのままならなさではなく、怨念に飽きたのです。

仏教
「命と体が心に、生きることのままならなさを生じせしめる。
これは、在るものだから、認めればよい。
が、そこから生じる苦しみと過ちは困るので、何とかしよう」
というものです。

水蛭子には命も体もない。心だけがある。
だから、仏教の手法は通用しません。

水蛭子は別の手法を要求します。
即ち、「手厚く弔え」。
命も体もなく、心があるならば、
「粗略に扱われた心の怨念は、手厚く扱われて心が溜飲を下げることで、消える」
という訳です。

補償には物質的なもの精神的なものがあります。
上の話は正に、精神的な補償という話の、要も要でしょう。

政治の敗者の怨念なんだから、政治の側に責任があると考える。
政治をやらんとする厩戸御子にやってもらいたい。
補償は政治の後始末だ。やれるか? 政治と、補償が?

結局、厩戸御子がその後、水蛭子を完全に満足させられたかは分かりません。
ただ、あの時、彼らの話を聞き、呑んだのは確かです。

5.この小説において、霊力とは何だったのか

この小説において、厩戸御子は、途轍もない霊力の持ち主として描かれます。
超自然的なスーパーパワーですが、描かれ方にニュアンスがあります。そこに注目したいと思います。

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まず、霊力とは
「子をなす力、すなわち人間を太古、根源から未来への連綿と続かしむる力、あらゆるものの大本の力、肉を超越した零の力」
と書かれています。
故に、命や体に直接効いてくることはありません。厩戸御子の父帝・用明天皇の命を伸ばしたり、病を快癒させたりはできないのでした。

仏教は命や体が心に及ぼす影響のうち、悪影響をどうにかする手法でした。 が、霊力はその仏教とは関係がない。
さらに言えば、仏教では霊力を制御するのには全く効果がない。
霊力が命や体と直結していないからでしょう。

なお、命や体を持たず、心だけ持つ存在が、霊力と感応することは可能である。水蛭子が正にそういう存在でした。
また、命や体を持たないが、霊力と感応し、物理力をもたらす物体が存在する。神器・天之瓊戈がそういう存在でした。

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「在るものが、全体として存在し続けるようにする、存在以前の領域に隠れている力」。
霊力とは、そういうことなのではないか。

物や命や体などの存在そのものではない。
人類全体を活かすことはできるが、個々人の死を止めることはない。
存在以前の力なので、存在していない心にも効く。

上の説明は、このような「霊力」のイメージと、概ね一致します。

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聖徳太子は、仏教国の立役者、かつ超自然的な霊力の持ち主というイメージを持たれています。
荒山徹先生も、聖徳太子の小説を書くにあたって、
「仏教とは、ブッダとは何であるのか」
というのと同じくらい、
「超自然とは、霊力とは何であるのか」

について、考えたはずです。

そして、
「仏教と超自然を結合させて書いたらインチキである」
「ブッダの話と霊力の話はそれぞれ別に行う。その方が誠実だ」

と思ったのかも知れません。

かくして、
「命と体の心への影響を統べ、悪影響を避ける状態」
即ちブッダの話と、
「在るものを全体的に存在せしめる存在以前の力」
即ち霊力の話が、独立に描写されたのだ。
という風に私は受け取りました。

ブッダと霊力の話は別の話なので、このままではそれぞれ浮いてしまいます。
だから、青年超成長物語にこれらを折り込み、無理のない流れを試みたのではないでしょうか。
思春期は、より高く狭い、仏教で越える。
大人は、より深く広い、俗世とその背景の中で藻掻く。
という。

「存在の苦しみと過ちは辛い。それらから脱するため、ブッダになることが試みられた。それは必要なプロセスだった」
「だが、存在であることからも、その背景にあるはたらきからも、逃げないようにしよう。だって、結局、皆、存在している間は、存在していくしかないのだから」

概ねこの辺の話を、私は『神を統べる者』から勝手に受け取りました。
だとしたら、すごい大きな話の説明を試みている小説だったと思いますよ。
(読んでる俺の勘違いである可能性もかなりあるのですが)

6.青春小説としての余韻

その上で、この小説は全体としては何だ、というと、
「すごい旅に出て帰って来て、大人になるという新たな門出に立つ」
ある種の青春小説
である、と言えます。
さらに俗な話をすると
「男の子がインドに行って帰って来て大人になる」
話です。

とはいえ主人公は聖徳太子なので、かなり高度な「大人」になる訳です。
子供の頃の厩戸御子優秀な美少年なのですが、周囲の大人達はしばしば
「この超有望な子供を、篭絡または拉致して、自陣営に引き入れて、指導者にしたりパワーソースの道具にしたり愛玩したりしたい」
という、相手の都合もへったくれもない横暴な態度に出ます。
そして、厩戸御子は、最初は翻弄されながらも状況を楽しむタフなお子様なのですが、そのうち
「自分そのものではないが、故郷たる倭が、隣国の超大国たる隋に、いずれ翻弄されるだろう。倭はこれを楽しんでいられる状況ではないはずだ。下手すればふつうに蹂躙されるだろう」
「倭を守護(まも)るためには、大国の論理の土俵で、倭を隋に蹴散らされはしないくらいに大きめの国にまで育まねばならない。自分は皇子であり、政治家としてそれをやるのだ」
「プレイヤーにプレイされるのではなく、自分がプレイヤーとしてプレイするのだ」

という、途方も無く立派な大人として、肚を据えることとなります。
ふつう、大人になるということに、ここまでの苛烈さは求められないはずです。
しかし、かなり高度な大人になる人の場合は、ここまでタフに育たねばならないのでしょう。
その境地に背筋が伸びるところです。

大人への成長の中には、心の柔らかなところに関する話もあります。
恋と失恋の話です。
これはそういう青春物語でもあるのですね。
ごっついご立派な話ばかりではなく、柔らかい話でシメるところが、この小説の後味を繊細なものにしていると思います。

また、これが青春物語であるのは、もちろん厩戸御子にとってもですが、実はその護衛である柚蔓と虎杖にとってもです。
後者二人は、今度は彼ら自身が、異郷にして第二の故郷たるインドに、再び旅立ってしまいました。幸あれと祈らずにはいられません。

厩戸御子のその寂寥感と、
「自分もこれから、仏教国建国という、未知数のすさまじい旅に出るのだ」
という静かな決意が、読後に伝わって来ます。
そんな厩戸御子に、読者の私は、幸あれと祈らずにはいられません。

7.大傑作です

長い旅を経て、見慣れたはずなのに見たことのない景色が見えて、読後感で己の心が奮い立つ。
そういう小説は、私にとっては、素晴らしい小説です。

『神を統べる者』、実に素晴らしい小説でした。
得難い読書体験をしました。

荒山徹先生、有難うございました!


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