随筆(2021/9/21):基本的人権が時代を経るにつれてどんどん拡張される怪は、実は怪でも何でもないのではないか
1.基本的人権の時代的変遷
学校で基本的人権の勉強をするじゃないですか。
「自由権」「社会権」「参政権」などの、あれです。
で、13世紀イギリスのマグナカルタの頃は、基本的に国家の中枢である王の政治権力独占に対する、国家の利害関係者である議会の政治権力を認めさせる「参政権」が大きな争点でした。
(ちなみにこの時点では議会が民選であることは要求されていなかった。
つまり、議会は人民の代表者ではなかったし、人民が政治に影響力を直接行使する術は存在しなかったし、人民にそんな資格があるとは思われていなかった)
18世紀フランスのルソー系社会契約説の頃から、
「そもそも人民には政治に影響力を直接行使する資格がある。人民が主体である。当然、人民のやってよいことはたくさんあり、これをたかが道具の国家がとやかく言うな」
という自由権の考え方が強くなってきました。
20世紀ドイツのワイマール憲法の頃には、
「主体である人民が、社会情勢や市場経済等の理由で、人間らしい生活が送れていないことは容認しがたい。道具の国家がこれを是正する義務がある」
という社会権の考え方が強くなってきました。
(後の歴史は割愛)
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それぞれの前まで、参政権や自由権や社会権は、
「ほぼそういう問題意識を抱かれていなかったし、議論の俎上にも上がっていなかった。上がってもそれは持続しなかった」
という話になります。
それが話題として挙げ続けるに値するテーマだと思われたから、それぞれの時代に論じられた訳なので。
それ以前は、考えられすらしなかったか、あるいは「何言ってんだこいつ」で終わって来た訳です。
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(「古代ギリシアという民主主義的参政権の前例があった」
という理屈は、
「じゃあ何でそれを模倣した国家体制が正統を標榜して樹立されなかったのか。十数世紀もだぞ?」
という話です。
そういうのが樹立されなかった理由というのがあり、前例の存在だけではそれをおよそ突破できなかったのです。
ちなみに今回はそこには踏み入りません。クソ長くなるから)
2.基本的人権は「全ての人間が」「生まれながらにして持つ」自然権である
さて、自然権という発想があります。
基本的人権は「全ての人間が」「生まれながらにして持つ」という発想です。
要は、一等人類だけが持っている特権であっては困る訳です。それは貴族制と実質的に何も変わらないからです。
これと微妙に絡みますが、平等は、基本的人権にとって、非常に重要な権利です。
ある人には法的に認められており、別の人には認められていない特権があると、それだけ基本的人権に濁りが出て来ることになります。
だって、基本的人権という話は、万人に通用するだけの普遍性がない、誰かは例外である、ということになるんだから。
そんな理屈で、「万人に基本的人権がある」という主張を、万人に対して貫徹出来る訳がない。
3.「全ての人間が」と言うからには、時代によって基本的人権が増えたり減ったりするのは、一見奇妙な話に見える
で。
「全ての人間が基本的人権を持つ」
という自然権めいた直感は、
「人類が地上に存在してから、同じような基本的人権が認められていた訳ではない」
という話と、どうにもきれいに整合しません。
13世紀以前の参政権、18世紀以前の自由権、20世紀以前の社会権。
現実問題として、認められていなかったか、政治制度として成り立っていない。
基本的人権は、政治制度として成り立つことが期待されているし、そういうものとして認められている。
ここで、
「成り立たなくても期待されていなくても認められていなくても基本的人権である」
という話をしたがる人、時々います。
残念ながらこれ、政治思想界でよくいる、教義(ドグマ)を振りかざす人と、同じ姿勢に見えてしまうんですよね。
そんな姿勢では、教義を振りかざす人と、同程度の信頼しかない。
ぶっちゃけ、「怪しげ」と思われても、しょうがないところであろう。
社会的承認? 社会的期待? 政治制度? 無理なんじゃないか?
4.基本的人権の本質は「人間扱い」というところにあるのではないか
上の問題から少し離れて。
参政権や自由権や社会権をつらつらと見ていると、要するに
「主体である人間に、人間らしく生きさせろ。
共同体や国家はその道具であり、道具であることを弁えろ。
共同体や国家が人間を道具扱いするんじゃあない」
という話が見えてきます。
参政権は「道具である共同体や国家は、道具であり、決して主体ではない」。
自由権は「仮にも道具である共同体や国家が主体の人間らしい生活を妨げるな」。
社会権は「いやしくも道具なんだから主体の人間らしい生活を可能にしろ」。
つまり、これらの根幹は、「人間扱い」というところにあるのではないか。
道具である共同体や国家に道具扱いされず、主体として人間扱いされる権利としての、基本的人権。
まあ、割としっくりと来るところでしょう。
5.人間が主体で社会が道具なのであって、人間を道具として要請するような社会が、さも「主体でござい」とのさばっているようでは困るのだ
人権に胡散臭さを感じる人がいるのは分かるが、「人間扱い」に胡散臭さを感じる人は、まあいないだろう。
「人間扱いなんかしていたら社会が壊れるから人間扱いなんかしない」
じゃあないんだよな。
「その箱の中で人が暮らしているんだぞ。場を壊すことは罷りならん」?
そうだね。で?
「だから中の人は苦しんでよい」
を帰結している時点で、
「どういう腐った根性だコイツ?」
という話にしかなり得ないんだよな。
そこは
「中の人のために、場の中は可能な限り住みよくする」
という話だろうが。
6.「社会にリソースがないから、一部の富裕層が幸福であれば『善い』というルールにして、それ以外は不幸であっても責任を持たなくて『善い』」という経世済民の話、経世済民の話じゃないから、やめなよな
いいから住みよくしろ。
リソースが足りないなら稼げ。
持続不可能? じゃあなおさら稼げ。
リソースを稼いで一時的に住みよくなくなることは、ある。
たとえそうであっても、最終的には住みよくしなければならない。
「持続可能で不幸な社会が最終目的であって、持続可能で幸福な社会は最終目的として受け入れられない」
という話を、結果的にしていないだろうか。
それが正当化される余地はほとんどない。
あると思っているなら、それは
「中の人が不幸でも、リソースが貧弱でも回る、だから怠惰に貧弱に回したい人たちが貧弱に回す、怠惰で貧弱で不幸な社会を作りたい」
と言っているに等しい。
そんな貧弱な社会は、どうせいずれ迫力のある金持ちの社会に、
「逆らえない程度には金がなく、蚕食できる程度には金のある、狩場」
と見なされて、ボロボロにされて潰されるだけだ。
そうしたいやつ、社会を誰に売りたくて、そんな愚かなことをしているのか? 直ちにやめろ。
社会について論じているなら、グランドデザインが
「ヒルみたいな富裕層だけが太る特権のある社会、素晴らしい。
他の吸われている人たちは見捨てて『善い』から、政治責任も財政コストもほとんどない。
全体として見たらコストが低くても何とか回る。
だから、社会の貧困を改善するという面倒な課題を考えなくてもいいんだよな。
ヒルにとっては、ヒルさえ太ればいい」
という話であっては困るんだよな。
それ、富裕層以外の社会の人たちにとっては、まるで『善くない』ぞ。
その人たちを勝手に社会の埒外にするなよな。
むしろ、社会の中では、彼らの方が、多いんだから。
社会を考えるのに、彼ら多数のことを考えないで『善い』。
などというふざけた料簡、何ら自然な発想ではないし、理解も得られない。
そこは、いくら何でも、分かって戴けますよね?
7.人間扱いの感覚は、社会環境と共に変わる。だから、「人間扱いされる権利」そのものは変わらなくても、人間扱いされる権利として想定される内容は、当然変わる
さて。
人間扱いの話の核心に入るんですが。
人間扱いに関するラフな感覚は、実は社会環境とともに変わるのですよね。
つまり?
昔より今の方が、人間扱いされる権利、つまりは基本的人権が多いのは、実はそこまで不自然でも何でもない。
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これが
「全ての人間が基本的人権を持つ」
という直感と、
「人類が地上に存在してから、同じような基本的人権が認められていた訳ではない」
が両立する理由です。
「全ての人間が人間扱いされるのが自然な在り方である」
という直感そのものは普遍的でありうる。
とはいえ、その内容自体は、時代によって変わり得る。というか、実際にもかなり違う。
にもかかわらず、
「全ての人間が人間扱いされるのが自然な在り方である」
という直感そのものは、そこは別に何の問題もなく保たれている。
「自分は牛馬か? とてもそうであるようには思えないが?? むしろ外形的には牛馬よりもあの主人と近いように見えるが…???」
そういう話は、奴隷においても、というか、奴隷だからこそ、たくさんあった。
「全ての人間が人間扱いされるのが自然な在り方である」という発想が、そもそもあるからこそ、こうなる。
(動物の権利、アニマルライツの話はここでは避けます。クソ長くなるので)
条項は時代によって増減があり得るが、本質である「人間扱い」という要請そのものは、常にある。
基本的人権の個々の条項から人権公理系を作るのが大事なのではない。
ということで考えると、話が見えて来るところがある。
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さらにこれには地域差までありうる!
だからこそ、同時代の人権の地域差というものがあるし、
「お前らは基本的人権を守っていない」
「お前らこそ基本的人権でも何でもないお前らの特殊な文化を基本的人権と標榜している」
という争いの元になる訳です。
それは、上の話からすると、当たり前のことです。
社会環境で人間扱いの内実が違うのなら、地域差はむしろあって当然でしょう。
でもこれでは、「人間扱いということの普遍性」はともかく、「人間扱いの普遍的な条項群の列挙」は、ほぼ不可能になるんだよな…
だから、そういう意味でも、ヤバイ話なんですよね。これ。
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地域間の居住移転の自由に準拠して、
「こっちに逃げて来たくば、これこれの正当な手続きの上で、是非どうぞ」
という話で、ある程度緩和される余地はあるが、そもそもこれこれの正当な手続き自体が一般に難しい。
最悪、包括的な地域間の居住移転の自由そのものが成り立っている場合とそうでない場合がある。
それに、一般に先住者とのトラブルは、意図しているかどうかは別として、常にある。だからこれもなかなか難しいのよね。
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ということで、「人間扱いということの普遍性」という大枠は揺るぎないが、「人間扱いの普遍的な条項群の列挙」という内実の話は、社会環境に左右されるので、困難が伴う、という話でした。
(いじょうです)