美術鑑賞で"目の見えない人"と"見える人"が歩み寄る~川内有緒著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』~

以前の拙稿『"目が見える"からこそ「世界の片面"すら"見えない」……だから歩み寄れる』で、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書、2015年)を引用しながら、『"目が見える人"は「死角」によって必然的に見えないモノがあり、"見えない"という点において"目が見えない人"と変わらない』から『両者は歩み寄れる』のではないか、と書いた。
そして唐突に、それまで登場していなかった「白鳥しらとりさん」という人の言葉を引用して、拙稿を結んだ。

「それまでは、見えているのはいいことで、見えていないことは正しくない、という印象が子どもの頃からずっとあった。見えている人の言うことは絶対的な力があったんですよ。見えている人は強くて、見えていない人は弱い、というような。(略)
見えていても分からないんだったら、見えなくてもそこまで引け目に思わなくてもいいんだな(略)と思い始めました」

しかし実は、拙稿を結ぶために、原文では違う文脈で書かれた上記引用文を恣意的に引用していたのだ。
それが気になっていたところ、書店で川内有緒ありお著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル、2021年。以下、本書)を見つけた。

先に挙げた2冊は別々の著者だが「白鳥さん」は同一人物であり、上記引用文はまさに、白鳥さんがアートを(アテンドしてくれている人たちとの「対話・会話(一方的な説明や解説ではない)」を通じて)見たときに感じたことである。

それは印象派の作品展で、アテンドしていたのは松坂屋美術館(名古屋市)の男性スタッフ。何枚かの絵を見たあとに男性は、一枚の作品を前にして、「湖があります」と説明を始めた。そのあとに「あれっ!」と声をあげ、「すみません、黄色い点々があるので、これは湖ではなくきっと原っぱですね」と訂正した。男性は「自分は何度もその作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思い込んでいた」と驚いている。
それを聞いた白鳥さんも仰天した。
「ええ!? 湖と原っぱって全然違うものじゃないのって。それまで"見えるひと"はなんでもすべてがちゃんと見えているって思っていたんだけど、"見えるひと"も実はそんなにちゃんと見えてはいないんだ! と気がついて。そうしたら、色々なことがとても気楽になった」

本書P117

これによって『気楽になった』のは、白鳥さんを始めとする"目の見えない人"だけではなく、「美術・芸術って難しそう」と何となく敬遠しがちな我々"目の見える人"も同様だ。
何故なら、何度も見ているはずの(我々素人よりはるかに)知識を持っている美術館のスタッフでさえ、ずっと原っぱを湖だと思い込んでいたのだから、我々素人が「正しく理解」することなんて無理だし、その必要もない、ということを端的に教えてくれているからだ。

「作品の鑑賞」について、前述の伊藤氏の著書にこう書いてある。
ちなみに、伊藤氏は東京工業大学准教授で、美学-芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問-を専攻している。白鳥さんのワークショップにも参加経験がある。

鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります。多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。もちろん、好き勝手に解釈していいというものではないですが、だからといって自分なりの見方で見てはいけないと構えてしまっては意味がありません。

伊藤P178

「美術・芸術」に「正解」はないとは言え、「本質」というものは持っているような気がする。
それを知るため、批評家や哲学者のように独り思慮に耽るのも一つだろうが、あまり詳しくない人たちが自分が持った印象などを語り合う「雑談」が、意外と本質に近づく有効な手段だったりもする(それが、「美術・芸術」の面白くて奥深いところだ)。

本書にこんなエピソードが紹介されている。
奈良県の興福寺国宝館を訪れた白鳥さんや著者やその友人である矢萩多聞やはぎたもん氏、そして、この「鑑賞ツアー」に参加した一般の人たちは、「木造千手観音菩薩立像」を見ながら、お互いの感想などを述べ合っていた。
観音様の身体中から生えた手には様々な物が握られており、それであらゆる人々を救うのだというが、その手に持っている物を「あれは何」「これは何」と想像しあっていた人々……。
観音様が『全部基本的に女性』と聞き、多聞さんがポツリと『なんかこういう感じの食堂のおばちゃんっていますね』とつぶやいたことから、一同盛り上がる。
『無愛想だけど、仕事は速い。』
『手際よさそう(笑)』
『なんと食堂のおばちゃんを表現した千手観音だったか(一同笑)。』
それを見守っていた興福寺の南俊慶しゅんけい氏、『すごく面白いですね!』。

「あながち間違いじゃないんですよ」と(南さんが)感心した表情で言うではないか。
間違いじゃない……というと?
「ここの千手観音さまはこの寺の食堂じきどうの御本尊で、以前は千手観音さまの前で僧侶が集まって食事をしていたんですよ」
えっ!
「ほんとですか じゃあ、本当に食堂のおばちゃん……なんですね」
「そうです。だから本質的なところに迫っているなと。ほら、合掌もしてるし」
「そうか、合掌っていただきます、ってことですよね」

本書P156

もはや驚きというよりも、なにか不思議なものに触れたような気持ちになった。多くの美術鑑賞ワークショップを担当してきたマナティは言った。
「こういうことってたまにあるんだよね。みんなで見ていると、知らず知らずのうちに作品の核心に近いところにたどり着いちゃうの。ひとりでそこまでたどり着くって難しいんだけど、みんなで色々と話しているうちに、『実はそうなのかも』というところまで行けちゃう。ひとりではなし得ないことが、大勢ではできる。だからほかのひとと話しながら見るって、やっぱり面白いんだよねえ」

本書P157

「美術鑑賞」というと何やら高尚で難しいものと思って気後れしてしまう(結果、疎遠になってしまう……)が、上述したように、何だかわからないけど、あれやこれやと言い合っているうちに、作品が身近なものに思えてくるし、時には本当に(核心に)近づいてしまうことだってあるのだ!

そうした白鳥さんらが実践している「言葉による鑑賞」の効果について、前述の伊藤氏の著書ではこう説明されている。

言葉を介して、他人の見方を自分のものにすることができる。まさに「他人の目で物を見る」経験です。
「ああ、わかった」の瞬間、目の前にあるそれは(略)変形したように感じられます。それはまるで魔法のような変化です。(略)言葉とセットになることで、絵画がつぎつぎと変形していくのです。(略)芸術作品とは本質的に、無限の顔を持った可能性の塊です。
(白鳥さんらが実践している)ソーシャル・ビューとは、この「他人の目で物を見る」経験としての鑑賞の魅力を、最大限に引き出すやり方であると言うことができます。そのためには、やはり実際に作品を囲んで話していることが重要です。作品を見ながら耳で言葉を聞くと、それが変形する様子をダイレクトに実感することができるのです。

伊藤P181-P182

本書は、白鳥さんらと日本各地の美術館を巡りながら「言葉による美術・芸術鑑賞」をした記録であり、それらに疎い我々に(言葉によって)素晴らしい作品を紹介してくれる美術ガイドブックでもある。
それと同時に、"目の見えない人"でもそれらの鑑賞が可能な事、いや、それ以上に、"目の見える我々"こそ「鑑賞の楽しみ方」を知らなかった、という事実に気づかせてくれる。

だが、本書の一番の魅力は、"目の見える人"も"見えない人"も一緒になって作品の鑑賞ができる、ということに気づかせてくれることだろう。

我々は、共に並んで同じ作品を鑑賞することができるのだ。


障害のある方との美術鑑賞にご興味のある方は、こちらも参考にされたし(エイブル・アート・ジャパン)↓↓




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