ロマンティック・ラブ・イデオロギー

タレントのryuchellさんが自身の(一方的な)事情でpecoさんと離婚したことに対し、『「ぺこがかわいそう」「りゅうちぇるは無責任すぎる」』などの批判・非難がなされているという報道を目にした(文春オンライン 2022年9月8日配信『《りゅうちぇる&ぺこ離婚“大炎上”のワケ》「わかりやすい」は罠!りゅうちぇる批判の陰にひそむ「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」のトラップに注意せよ』。以下、記事と記す)。

予め断っておくが、本稿は、お二人の選択云々の是非ではなく、あくまで記事に関する私見である。
私は、お二人を存じ上げないし、芸能人・著名人であろうとその方たちの(法を犯さない範囲での)プライベートにおける選択について、全くの他人があれこれ口出しするのは野暮だと思っている。

ロマンティック・ラブ・イデオロギー

記事は永田夏来氏(家族社会学)が寄稿したもので、それによると、お二人の結婚に至るまでの過程や結婚後の生活が『恋愛や結婚の理想の形だと捉える向きもあ』り、『だからこそ、お2人がその関係を解消するという決断を目の当たりにすると、まるで憧れの恋愛観や結婚観が汚されたように感じた人もいた可能性』があるという。
そのことにより、自身の一方的な事情により離婚を切り出したryuchellさんの選択を『一種の裏切りだと感じた人が少なくなかったかもしれません』。

そのような感情の発露にあるのが「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」だと、永田氏は説明する。

若い世代でも、好きだった相手と失恋したら、次はより自分にぴったりの相手と出会って、その人のことをすごく好きになって結婚するものだと思っている人は多くいますよね。結婚する相手は特別でかけがえのない存在で、結婚は唯一絶対の愛の証だという考えが深く根付いているんです。

[永田:記事]

この引用文を素直に読むと、まるでそれが日本伝統の考え方であるようにもとれるが、ここで注意しなければならないのは、上記文章の前に説明されている部分だろう。

特に日本社会は離婚率が比較的低く、婚前交渉が一般化して30年ほどしか経っていないこともあって、恋愛結婚に対して大きな期待感があります。

(同上)

どうやら現代の「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という概念は、『婚前交渉が一般化』した、ここ30年ほどで形成されたものらしい。

「現代の」と強調してみた。
『現代思想』(青土社) 2021年9月号の特集『<恋愛>の現在』に掲載された、谷本奈穂氏(文化社会学)の寄稿「ロマンティック・ラブ・イデオロギーというゾンビ」によると、それは30年ほど前に一度死んでいるらしく、死の理由は、永田氏が指摘しているように『婚前交渉が一般化』したからでもあるようだ。
(ちなみに、その特集には、永田氏と高橋幸氏(社会学理論/ジェンダー理論)の討議「これからの恋愛の社会学のために」も掲載されている)

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の誕生

谷本氏によると、「ロマンティック・ラブ」とは近代の考え方だという(引用部の頁番号は、谷本氏寄稿文の該当ページ)。

今日では「夫婦の絆と言えば、極言すれば愛と性」(落合 1989:8)であると信じられている。(略)大越愛子はこれを「恋愛三位一体幻想」「近代的恋愛結婚幻想」と名付けているが、彼女によれば「近代以前の社会では「恋愛」、「性愛」、「結婚」は分離したものであった」という。前近代では公に結婚の外で恋愛も性行為も行えたために、結婚と恋愛・性が対立する必要もなかったのである。

[P103]

やがて、昔からの伝統によって無条件に特別視されていたが故に自由奔放に恋愛や性を楽しんでいた貴族たちは、民衆によって駆逐されてしまう。
それにとって代わった(元々は平民だった)ブルジョアたちは、自らが特別視される「根拠」を、「秩序(しきたり)」に求めた(「我々は厳格なしきたりを持つ身分であり、それを厳格に守っているからこそ、エライのである」)。

ブルジョアたちは、『「恋愛やそれに伴う性的欲求は、神の祝福する結婚とは相容れない」(柳沢・草野 1995:129)』と主張し始める [P103]。
それはつまり……

結婚相手にふさわしくない相手(略)に恋愛感情を持ってしまえば「階級的秩序」を乱すことになり、夫婦以外の人に恋愛感情を持てば「家族的秩序」を乱すことになる。

[P103]

だが、神様は人間を、自らの意志で恋愛と性を抑制できるほどには、優秀にお作りにならなかった。

そこで社会は秩序維持のため、三つの戦略を用意したという。
一つ目は、花街などの「特別枠」を設け、そこで愛人・妾をかこうのは黙認するなど『恋愛と結婚を分離してしまう戦略』[P103]。
二つ目は、『宗教の力を用いて恋愛感情そのものを罪悪として押さえつける』などして『恋愛を抑制する戦略』[P103]。
そして最後が、『結婚と恋愛をむしろ結びつける戦略=ロマンティック・ラブ・イデオロギー』[P103]。

そうすると、ふさわしい相手との関係こそが「正しい」恋愛として社会的に認められることになる。それだけでなく、ふさわしくない相手との関係は「偽物」の恋愛として排除されることになる。

[P103]

このイデオロギーは20世紀に入って欧米圏で普及した。
日本においては、1970年代に恋愛結婚の割合が見合い結婚を抜き、『「デート文化が花開き、愛情の終着点である結婚を求めて、デートし、結婚したいという気持ちが高まればプロポーズし、恋人となり、経済的条件が許せば結婚する」(山田 1994:132)』という流れが広がったことにより一般的になった [P104]。

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の死

これが存命時の「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」であり、それは上述したように、『愛情の終着点である結婚を求め』るものであった。
それが「死ぬ」のは、1990年代。
'80年代後半からバブル期を迎えた日本では、恋愛は「ゲーム」の様相を呈していく。若者向け男性誌には「(婚前交渉ありきの)デートマニュアル」が頻繁に掲載され、女性誌もこぞって「(婚前交渉を含んだ)恋愛ゲーム」を煽るような特集を組んだ(クリスマスイブを高級シティホテルで過ごした若者たちの中で一体何人が、「この夜の先には結婚という終着点がある」という意識を持っていただろう?)。

谷本氏はこう結論付ける。

先行研究、雑誌記事分析、および意識調査から見て、90年代ごろから「恋愛のゴールは結婚」という認識がなくなってきたことがはっきりとわかる。ある意味でロマンティック・ラブ・イデオロギーは「死んだ」のである。

[P105]

「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」の誕生

ロマンディック・ラブ・イデオロギーの死によって、『恋愛は「無政府な力」を取り戻した』のか? [P106]

従来のロマンティック・ラブ=「恋愛のゴールは結婚であるべきだ」に対して、「結婚には恋愛感情が必要である」という信念はどうなっているだろうか。一見、同じに思えるかもしれないが、「恋愛のゴールは結婚であるべきだ」は、結婚という「結果」があれば恋愛の正当性が担保されたのに対して、「結婚には恋愛感情が必要である」は、結婚(とその後の生活)という「プロセス」に、恋愛感情があれば結婚の正当性が担保されるというものだ。前者が、恋愛の成否を支配するのが結婚であるのに対して、後者は結婚の成否を支配するのが恋愛感情となる。

[P106]

谷本氏は後者を「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」と名付けて全国調査をしたところ、『ロマンティック・ラブ支持は半数を割っているのに対して、ロマンティック・マリッジ支持はなんと78%と極めて高い数値を示した』という [P106]。

つまり、『恋愛と結婚が結びつき、「結婚につながる恋愛」が正しいもので、「結婚につながらない恋愛」は間違ったものとして断罪され』るロマンティック・ラブが衰退し、『恋愛は自由にできるもの』として『いわば「恋愛の自由化・解放化」が起こった』[P107-P108]。

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」のゾンビ化

では、先の問いに戻って、『恋愛は「無政府な力」を取り戻した』かというと、実はそうならなかった。

先述した谷本氏らの調査において、『「ロマンティック・ラブを否定する人たち」でさえ、ロマンティック・マリッジには賛同する』という傾向がはっきり見られたという [P107]。

つまり、年齢やジェンダーがどうであれ、恋人数が多かろうが少なかろうが、ロマンティック・ラブを信じようが信じまいが、愛のある「正しい」結婚は実現しなければならないと8割近い人が信じていることこそ重要なのである。

[P107]

谷本氏は、この「ロマンティック・マリッジ」の絶対的信仰が逆に『結婚を困難にする可能性すらある』と指摘する [P108]。

社会経済的条件が見合うだけでは不十分で(昨今条件を満たすだけでも難しいのに)、恋愛感情までも必要とされるのだ。結婚には、条件と感情の「二重の重荷」が背負わされていることになる。ロマンティック・マリッジ・イデオロギーは、「そこに愛がないと、「幸せ」でない」と、私たちを煽っているように思われる。

[P108]

『そこに愛がないと、「幸せ」ではない』という考えには、死んだはずの「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の観念がりついている。

ロマンティック・ラブは死んでしまったように見えても、映画のゾンビのように蘇っている。

[P108]

永田氏による記事

永田氏は『恋愛や結婚の理想の形だと捉える向き』を全て「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」で説明しているが、谷本氏の論に従えば、「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」にゾンビ化した「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が憑りついている状態と言える。
つまり、『婚前交渉が一般化』して死んだはずの『恋愛のゴールは結婚であるべきだ』という観念(「貞操観念」「恋愛結婚至上主義」など)がゾンビ化し、『結婚には恋愛感情が必要である』という「ロマンティック・マリッジ」の前提条件として憑りついているのだ。

その「憑依されたロマンティック・マリッジ」が、日本人の恋愛・結婚観の根底に生き続けているということを、冒頭で引用した永田氏の文章が言い当てているように思える。

若い世代でも、好きだった相手と失恋したら、次はより自分にぴったりの相手と出会って、その人のことをすごく好きになって結婚するものだと思っている人は多くいますよね。結婚する相手は特別でかけがえのない存在で、結婚は唯一絶対の愛の証だという考えが深く根付いているんです。

[永田:記事]

今回の件で言えば、「憑依されたロマンティック・マリッジ」を『恋愛や結婚の理想の形』として具現化した存在がryuchellさんとpekoさんだったのであり、それを壊されたことに対する世間の勝手な幻滅が、強い批判として現れたのではないだろうか。
さらに言えば、その批判は、お二人が目指す、「”ロマンティック・マリッジ”を前提としない家族の形」に対する、強い拒否反応にも通じているとも思えるのである。

さらに記事では、「(正真正銘真っ当純粋なヘテロの)男女によるもの」という固定観念(永田氏の云う『トラップ』)で上記『恋愛』を規定した立場から「ryuchellさんの一方的な事情」を批判する、つまり「安易なジェンダー批判」に陥らないようにと、警鐘を鳴らしてもいるように感じた。
(加えて、「恋愛」「結婚」「家族」の在り方は多様であり、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」や「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」に縛られて自分の生き方を窮屈にしたり、安易に他人を批判したりしないように、という忠告でもあると思う)



注記:谷本氏の寄稿原文では「ロマンティックラブ」と表記していますが、本稿では「ロマンティック・ラブ」で統一しています。それに合わせ「ロマンティックマリッジ」も「ロマンティック・マリッジ」と表記しています。また引用文の太字は全て引用者によるものです。

なお『現代思想』誌での永田夏来・高橋幸両氏の討議については、下記拙稿を参考にしていただければ幸いです。


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