勝手に虚像を仕立て上げ使い捨てる大衆の姿は今も変わらない~代島治彦著『きみが死んだあとで』~

2020年に拙稿『「あのころ、早稲田で」中野翠の闘争』で、中野翠著『あのころ、早稲田で』(文春文庫、2020年)を引用しながら、著者が早稲田大学在学時の1960年代後半の学生運動を考えた。
その後、『あのころ、早稲田で』で中野翠も言及している、1967年10月8日の「第一次羽田闘争」で亡くなった山崎博昭さんについてのドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』(代島治彦監督、2021年)が公開され、それについても拙稿を書いた。

映画『きみが死んだあとで』は山崎博昭さんを知る人を中心に14人の方が当時を振り返るインタビューで構成されている。
映画ではカットされた部分を含め、代島監督自らがインタビューを書き起こしてまとめたのが『きみが死んだあとで』(晶文社、2021年。以下、本書)である(以降の引用については引用元の記載がないものは全て本書から)。

山崎さんの実兄や大人として学生運動を支援した方もいらっしゃるが、登場されるほとんどは山崎さんとほぼ同年代で当時の学生運動を経験している方々だ。
その中で職業革命家になった方もいらっしゃるが、ほとんどは大多数の学生と同じように、学生運動から離れて(とは言え、もちろん、あの時の「何か」をスッカリ忘れてというわけではなく、ずっと囚われているのは間違いないが、それでも)市井の人として生きてこられた方だ。
しかし、14人目の方と映画には登場しない15人目の2人は、「時代」に使い捨てにされ、それにより運動から離れて後の自身の人生を狂わされてしまった。
だから2人のインタビューは、読んでいてとても辛かったし、切なかった。

同時に、半世紀以上も経った21世紀の現在においてなお、「時代」に使い捨てされる人々が後を絶たない現状にも愕然としてしまった。


と、ここで話は突然、下世話になるのだけれど、早大・東大・日大のリーダーたちの風貌というのが、みごとに校風を反映しているところが(今思うと)面白い。(略)東大の山本義隆さんは怜悧、日大の秋田明大(あけひろ)さんは豪放。それぞれスター的な支持を集めたのも当然だという気がする。

(中野翠著「あのころ、早稲田で」)

つまり、東大・日大のリーダーは早大の中野氏でも知っている「スター的」な存在だった。それは、中野氏の12歳年下で学生運動に乗り遅れた世代の代島監督にとっても同様だった。

当人にとっては至ってはた迷惑なことだったかもしれないが、全共闘運動全盛時代の若者はみんな「日大全共闘の秋田明大」と「東大全共闘の山本義隆」にあこがれた。
(略)革命家でいえばキューバ革命のチェ・ゲバラと(女性であるが)ドイツのローザ・ルクセンブルグ…。青春時代のぼくは、秋田さんと山本さんに対して勝手にそんな妄想を抱いていた。
(略)
(山本さんとは)ある集会の打上げの席で「ぼくはあこがれていました」と告白すると、「あれはマスコミがつくった虚像だからね」とあっさりふられてしまった。

そして、山本さんは『マスコミがつくった虚像』によって、『全共闘運動の敗北の責任を一身に背負うように生きて』いかざるを得なくなってしまった。

社会的にある種有名になったのは東大闘争のあと、新聞とかにイッパイ書かれて「虚像」を作られてから。逮捕状が出て、地下へ潜ってからあとの話なんだよね。(略)マスコミはどこで調べたのか、ぼく自身もよく覚えていないような、あるいは記憶にもないようなエピソードを、それも尾ひれをつけてプラスにもマイナスにもふくらませて面白おかしく書きたて、そうして作られた虚像を通してぼくは知られていったんですよ。そういう虚像を真に受けて、それを前提に話かけてくる人もいて、本当にカンベンしてほしいと思ったね。

そういったマスコミ報道には、警察の思惑も働いている。

(取り調べで)付き添った刑事が「ようやく揃った」と言って警視庁の廊下の暗いところを歩かされていった。そのときは腰縄で。角を曲がると目の前がパアッと光って、一瞬目がくらんだ。目が見えるようになると前にカメラマンがスラーッとおって。要するにマスコミ各社のカメラマンが揃うのを待っとったの。つまり「山本を捕まえたから来い」とマスコミ各社に連絡しとったんだな、あれは。いまから思うと現代版の市中引き回しですよ。警察っていうのは、マスコミにこれだけサービスしとるんだとわかった。

そして本人が逮捕・拘留されているのを良いことに、警察とマスコミが好き勝手する。

あるとき取り調べの刑事が「読みたい本はあるか」と言うから、接見禁止にしておいて何だと思ってムカっとしたから「漫画の本でも入れてくれ」って言ったら、「山本は漫画の本を読みたがっている」と警察が発表したというのが新聞に出たんだよ。
その新聞記事を読んだら、評論家がぼくのことをボロクソに言っていたんだな。あの刑事はぼくにそういうことを言わすために聞きよったのかと思ってさ。その評論家もまた「嘆かわしい。大杉栄なんかは獄中でフランス語を勉強していたのに、それに比べなんと情けない」とか言っているもんだから、ほんとバカバカしい。(略)(東大で学んでいた)物理の書物が無性に読みたくなっていたけれども、しかし取り調べの刑事相手にそんな真面目なことを言うわけねえじゃないかとアホらしくなった。本当にマスコミも評論家もずれてるなと思った。


本書にはインタビューの合間に、代島監督自身の人生を振り返っている「ぼくの話」と題した文章が挿入されているのだが、そこで彼は庄司薫著『ぼくの大好きな青髭』に触れている。代島監督曰く『1975年の視点で1969年を眺め、その間に起きてしまった事の予兆みたいなものをつかもうとしている』物語である。

『ぼくの大好きな青髭』には「サカナヤと呼ばれる悪い人たち」が出てくる。それは「テレビとか週刊誌とか、マスコミでいろいろやる人」。生意気がって新宿に出てきた若者をオーバーに面白がって、「テレビに出ないか」、「週刊誌の記事にするよ」と誘い、権力や大人に反抗するヒーローやヒロインに仕立てる。その気になった本人が人生をかけて無茶なことを実行した場面をサカナ(ネタ)にして、主役交代。だいたいその気になった本人の人生は台無しになる。


この「サカナヤ」の餌食になったのが山本さんであり、映画には登場しない本書の15人目の人物である。

当時の若者の大きな影のまん中にいたヒーローが、元日本大学全共闘議長・秋田明大だった。新聞や週刊誌に載る秋田の姿はかっこよかった。

代島監督は本書の「あとがき」で、『きみが死んだあとで』を撮る前に秋田さんのドキュメンタリー映画を作ろうとしてインタビューしていた、と明かしている。そして、『きみが~』を完成させた後、再度インタビューをしている。

日大闘争のはじまりは秋田明大を含む経済学部の学生、約2000人による200メートルデモだった。管理体制が厳しいことで有名だった日大史上初の公然デモである。全学部バリケード封鎖したあとの日大はさまざまな話題を「サカナヤ」に提供した。自分たちがやったことが翌日の新聞紙面を飾ると日大生は歓喜した。テレビのワイドショーに出演した日大全共闘の若者がスタジオで突然デモ行進をはじめ、視聴率を稼いだ。「週刊プレイボーイ」のグラビアに秋田明大の上半身裸の写真が躍った。

「サカナヤ」=「マスコミ」に踊らされた秋田さんは、それ故「警察」=「国家」からも「サカナ」にされ、『政府のターゲットにされた秋田の運命は狂いはじめた』。

「わしゃあ何やったんかなあっていえばね、道路を走った罪だけなんですね、具体的に言ってしまえばね。佐藤首相から『大衆団交はいかん』っていう指令が出て、指名手配されたけど、道路を走った罪だけですね。神田三崎町の銭湯へ行ったら、全国指名手配のポスターに自分の顔がある。すごいなあ、こりゃあ田舎にも知られるなあと思うてね。ちょっとショックだった」

「逮捕されるまでは一生懸命、まっすぐにやってきたんですね。それが間違いかどうかわからんけど、運動はまっすぐにやってきた、逮捕されるまでまっすぐにやってきた。それだけは申し上げておきます」

『69年3月12日に逮捕された秋田は12月末に保釈になり、拘置所を出た』。
出所後の彼はなお、「元日大全共闘議長」の名前を利用しようとする周囲の人々に翻弄され続けた。
映画に出演し、レコードを出し、最後には参議院選挙にまで担ぎ出されそうになる(彼を心配する人々に説得され、立候補せず)。

「ぐちゃぐちゃですよね。いろんなことが断片的に頭のなかにこびりついてきて。(略)いろんなものがこう頭のなかへ入ってきて、うつ病の世界ですよね。そういう思い出が断片的に、意味もなく出てくるのがものすごく嫌だった」

こうして「サカナヤ」の餌食になった2人の若者は自身の人生を狂わされてしまう。
しかし、それは「学生運動という特殊な時代」だったからではなく、彼らの前にも大勢の「サカナ」たちがいて、2人はその中に取り込まれてしまったのだ。

そして、21世紀の現代でも相変わらず「サカナヤ」たちが跋扈し、その時代時代の「サカナ」を提供し続けてきた。
バブルに踊った人たち、その狂騒に乗り遅れたのにツケだけを払わされるハメに陥った若者たち…
そして2021年晩夏の現在であれば、YouTubeなどのSNSで人気者になった人たちや、オリンピック/パラリンピック出場選手たち…
「サカナヤ」は彼ら/彼女らを『オーバーに面白がって』、ネット空間や試合/練習会場から「公(リアル)の場」に引きずり出し、『その気になった本人が人生をかけて無茶なことを実行した場面をサカナ(ネタ)にして、主役交代』させようとしてはいまいか?

私は、2人のインタビューを読みながら、時代時代の「サカナ」にされて人生が狂ってしまった方々のことにも想いを馳せて、辛く、切ない気持ちになったのだ。

だが、感傷に浸り、それらの人々を同情する資格が、私にあるのだろうか?

「サカナヤ」は「サカナ」を売っているに過ぎない。
買っているのは(私を含めた)我々「大衆」だ。
「サカナヤ」が、ある時は「生」で、ある時は「刺身」だったり「焼いて」みたり、あるいは『尾ひれをつけてプラスにもマイナスにもふくらませて』「派手に盛り付け」してみたりと、手を替え品を替え提供し続ける時代時代の旬の「サカナ」を我先にと消費しているのは、我々「大衆」だ。

旬の「サカナ」の足は早い。
「大衆」は、旬を過ぎた「サカナ」には冷徹に見向きしなくなる。
「サカナヤ」は「大衆に見向きされなくなったサカナ」を簡単に捨て去り、次の「旬」をどこからか釣り上げてくる。

結局、半世紀経っても…21世紀になっても、何も変わっていなかった。
そういう意味においても、「学生運動」という「革命」は失敗したのかもしれない。

そして、その原因は、私を含めた「目新しいものばかりを追いかけ続け、飽きたらすぐに放り出してしまう、愚かな大衆」にこそある。


人生を狂わされた秋田明大さんは実家に戻り、家業を継ぐ。
結婚するもやがて離婚してしまう。
『ちょうどそのころ、東京から1通のアンケート用紙が郵送されてきた』。
『そのアンケートの回答は1994年に新潮社から発行された『全共闘白書』に載った』。

一九九四年に刊行された『全共闘白書』(新潮社)は文字通り全国の学生運動体験者へのアンケート集。
(略)
余談になるが、この『全共闘白書』は私にとって、あんまり好もしい読みものではなかった。一番のポイントは、負けを認めていない人が多いところだった(だからこそアンケートに回答したのだろう。回答を拒否した多くの人びとの思いも察しなければならない。アンケートは四千九百六十二通発送され、回答を寄せたのは、わずかに五百二十六通だったというのだから)。
(略)
『全共闘白書』で胸を打たれたのは、日大闘争の秋田明大の回答だ。「生活」とのたたかいに苦しみ、日大闘争に関して何の感傷も抱いていない。読んでいて辛かったけれど、その正直さは好もしいものだった。

(「あのころ、早稲田で」)

何故、中野氏が『全共闘白書』を好もしいと思わず、しかし秋田さんの回答だけは好もしいと思ったのか。答えは、代島監督が代弁している。

そこに「あの時代に戻れたら、また運動するか?」という質問があった。秋田は「しない/アホらしい」と書いた。(略)5割以上の人が「(あの時代に戻れたら)また運動をやる」と答えているのに、元日大全共闘議長が「しない/アホらしい」と書いたので話題になった。

さらに中野氏が『読んでいて辛かった』というのは、秋田さんがアンケートに答えた時期が、ちょうど離婚をした後だったこととも関係があるかもしれない。

「(妻に)ポーンと実家に帰られてね、そのときにアンケートに『アホらしい』と書いたですよね。離婚したあとね、何年か呑んだくれて、気分晴らして、これじゃあもうどうしようもないと思って、業者に頼んで中国へ行って、奥さんを探して、それで結婚して、子どもができたんですね(略)」
中国人の奥さんは息子が小学校3年生のときに出て行った。

秋田さんはインタビューで、代島監督にこう吐露している。

「マスコミがつくった虚像に流されてきたんですよね。遅いかもしれないけど、もうやめようと思ってる。いままで流されてやってきて、反省さえもできなかった。いつも混沌の、迷いの人生ですね。どうすりゃええんですかね」

「愚かな大衆」の一人である私の胸に、この言葉が強く突き刺さった。
だから、読んでいて辛かったが、しっかり受け止めることが大切だと思った。こんなことが贖罪になるなどと都合の良いことは考えず…ただただ…


現代の若者へ

山本義隆さんは、ずっと「駿台予備校」の講師をしておられる。
その山本さんは、今の若い人に対して『ひとつだけものすごく気になることがある』という。

予備校なんかで教えてて(略)、子供たちが笑わなくなったこと。ほんとに笑わなくなった。前はよく笑ってくれたんだけど、しょうもない冗談でも。
(略)いっぺん「おもろないのか」って聞いたら、面白いって言ってくれるんで「じゃ、なんで笑わないのか」と聞いたら、恥ずかしいんだって。(略)
「面白くても、笑って自分ひとりだったらものすごく恥ずかしい」って笑うのをこらえているんだという。まわりの目を意識しすぎてるんだな。(略)ちょっと前に京都大学の先生と話してたら「やっぱりそうか」と言うんだね。大学でもそうらしい。

そういう若者を山本さんは『かわいそうというか、気の毒というか』と気遣いつつ、自身が経験した過去を振り返り、こう語りかける。

もともと学生運動なんて、突出したやつがクラスに一人か二人いたらできちゃったんだから、昔はね。そういうのがいなくなって、まわりを気にし過ぎているなあって。そういう雰囲気のなかで、昔のこと、たとえば「連帯を求めて孤立を恐れず」と安田(講堂)の壁に大きく落書きしたような大学内の雰囲気をわかってくれっていうのも難しいんだろうけれども。だけども、安易に人に同調するのは主体性の欠如として恥ずべきことで、常に自分の頭で考えて俺はこうすると語り、お前はどうするんだと問い詰めていったのは、俗にいう「若さ」であり「青臭さ」ではあるが、そういう時代を経ることなく大人になるというのは不幸なことなのだと知ってもらいたいと思う。

若者は、この山本さんの言葉をどう受け止めるだろうか。


注意

本稿は『マスコミが作る「虚像」によって個人の人生が狂う』という観点で構成していますが、もちろん一方で、代島監督も本書で指摘しているように『秋田明大と山本義隆は、権力だけでなく、同志の全共闘・新左翼党派の側からも生け贄にされた』というのもまた事実です。
一方的にマスコミ/国家権力だけが悪いわけではありませんので、誤解なきようお願いいたします。
同志側については、稿を改めて書ければいいなぁ…いずれ…そのうち…と思っています。



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