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↑前回の続き。「教育」を考える最終回。 褒めるだけでなく、厳しくすることが必要だ。一ヶ月も続いた記事なのに、びっくりするほどありきたりの結論だが、まあそういうこともある。 もっと頑張れと厳しく接するのは「結果を出せる子」に育てたいから。これは状況が異なるだけで、目的としては褒めて伸ばすのと変わらない。 ルールに従えと厳しくしつけるのは「社会に受容される子」に育てるため。型に嵌めるといえば聞こえは悪いが、無法者は社会で生きていけない。 しかし、それ以上に「自分で歩ける子
↑前回の続き。「教育」を考える第四回。 爪と牙を持つ人が社会の中で共存を望んでいないとは限らない。人間はそれほど単純ではなく、他人の自由と競合する以前に、自身の中にも矛盾を抱えている。本当の自由なんて、最初から存在しないのかもしれない。 初めて何かを諦めたのは、いつのことだったろうか。 満腹で食後のケーキを食べられなかったこと? 遊び足りないまま日が暮れて、家に帰るしかなかったこと? いや、それよりもずっと昔に、人生で最初の諦めを経験しているはずだ。 何を諦めたのか。
↑前回の続き。「教育」を考える第三回。 羊しかいない世界なら誰もが自由に生きられる。しかし、気の毒なことに虎や狼のような肉食の性質を持って生まれてくる人たちがいる。ここで言う肉食とは他者の犠牲が必要なことを指す。 人の大切なものを力付くで奪い去る以外にも、競争によって限られた椅子を取り合うような行為も広義の肉食と言えるだろう。欲しがる人が多いほど価値は高まり、勝利の美酒に酔うために敗者の存在が必要になる。 社会通念上、略取は悪であり、公正な競争はむしろ称賛されるが、今回
↑前回の続き。「教育」がテーマの第二回。 願わくば自由に育ってほしい。生まれ持った感性にのみ従い、これから始まる長い人生を伸び伸びと歩んでいってほしい。僕に子供はいないが、僕もかつては子供だった。だから親目線というよりは仲間意識のような目で見ている。 僕がわりと自由に生きられたのは親や環境のおかげもある。が、それ以上に生まれ持った感性が社会に対して親和的だったところが大きい。内向的な性格ゆえに、求める自由の先に社会と衝突する部分が少なかった。 中学校では前髪が眉毛にかか
↑前回の続き 生きたい人が生き、死にたい人が死ぬ。大切なのは生きるか死ぬかよりも自由であることだと考えていた。殺人が悪とされるのは命を奪うからではなく、結果として自由を奪うことになるからだ。 だから死にたい人を殺すのも、自殺を手伝うのも僕は悪いことだと思わない。自由には自由を放棄する自由も含まれている。それを叶える手段として安楽死は許されてほしい。 番組ではALS嘱託殺人に関して実際に難病を抱えつつ安楽死に反対する人々の声が紹介された。 自由に死ねないことに希望がある
↑前回のつづき 僕は子供がいないから妄想で好き勝手に言える。 我が子が死にたいと言うなら否定も肯定もせずに相談に乗ろう。一時の感情に流されているようであれば落ち着くまで待つし、衝動的な行為に及ばないようにも配慮する。 親には子を守る責任があるのだろう。それは死ぬ自由を奪う権利でさえあるのかもしれない。しかし、死にたいと思わせた時点で自分にその資格はないと考える。 死の天秤が一方に傾くまでに命の重さが苦痛の重みを超えられなかった。命が大切だといくら口で説明しても説得力は
↑前回のつづき 本題はもちろんお願いする自由ではなく、死ぬ自由のほうだ。本人が死にたいと言うならそれを止める権利は誰にもない。生きて欲しいとお願いするのは勝手だが、それを拒否する自由が本人にはある。 極論を承知で言うと不治の病である必要もないと思っている。命の重さは平等ではない。他人の命を値踏みすること自体が土台無理な話であって、人はただ自分の命がどれだけ重いのかを自分の秤で量ることしかできない。 少し前のニュースで同級生に無視されて自殺した子がいると知った。「そんなこ
TVerで安楽死に関するドキュメンタリーを観た。肯定的な立場と否定的な立場をバランスよく取り上げていて、お涙頂戴で終わらない良い番組だった。 いろいろな観点があると思うが、一番大きなテーマは「自由」だと僕は解釈した。最期を選ぶということはどこまで生きるかを自分で決めるということ。これはすなわち死ぬ自由に他ならない。 自殺とそれを手助けすることはまったく別の話なので、日本で自殺幇助が認められていないのは理解できる。が、番組内で紹介されたALS嘱託殺人の判決内容に驚いた。
ミニマリストに噛みついている人がいて驚いた。ものを持たないライフスタイルは好きな人が勝手にやっているだけで他人がとやかく言うことではないように思われる。 ヴィーガンやベジタリアンを敵視するのならまだわかる。こちらは動物愛護の主張を帯びていて、暗に肉食を批判していると捉えられなくもない。実際、デモ運動が行われたりもする。向こうが敵対するなら応戦も辞さない格好だ。 菜食 vs 肉食 一見するとこのような構図に思えるが、実はこれも間違っている。 菜食主義者にも自分が肉を食べ
↑前回のつづき。善悪を考えるシリーズ第7回。 まずはそういう状況にならないことを願うが、仮定でも自分がどんな選択をするのかは心しておきたい。トロッコ問題は人を殺すというおそらく誰がどう見ても悪い行為を他の命を救うためなら許せるかを問うている。 5人を見殺しにするか。1人を殺して5人を救うか。どちらが「善」であるかを考えるのは時間の無駄だと思う。善悪の観点では永遠に答えを出せない。 だから善人の何割かは呆然としたまま見殺しにして一生を後悔とともに過ごすのだろう。残りの何割
↑前回のつづき。善悪を考えるシリーズ第6回。 大切なのは自分がどこへ行きたいかだ。善人でありたいと願うのはとりあえず東に進んでおけば間違いないというレベルの大雑把な指針であり、関西から東京を目指すときはいいが、家からコンビニに向かうには粗すぎる。 子供は親に手を引かれ、やがて成長して自分の判断で歩き出す。右も左もわからないうちは大勢の流れに身を任せるのもいい。それは安心で楽な生き方でもある。自分で判断しなければ失敗の責任を負わなくて済む。 しかし、楽をするために生まれて
↑前回のつづき。善悪を考えるシリーズの5回目。 つまり他人を傷つけること、傷つけようとすることが悪だと僕は捉えている。過失と故意。法律っぽく言うとこうなるが、先述したように法に裁かれる人物と僕の悪人像は一致していない。それはそれでいい。 法が裁かないのなら、俺がこの手で……ッ! みたいな正義感もない。悪人のいない世界は理想だが、そのために何かしようとは思わない。誰かが何とかしてくれたらいいなとは思うが、誰も動かなくてもべつに構わない。 人は善悪で動くべきではないと思う
↑前回のつづき 廊下を走るなと言われて素直に従う子もいれば反発心を覚える子もいるだろう。僕は前者だった。学校は勉強するところであると同時にルールを叩き込まれる場所でもあった。 禁止事項が先にある。なぜ禁止されているのかは後から説明されることもあるし、先生に聞いてもわからない場合がある。自分で考えるのも学びの一環なのだろう。と、納得すること自体が僕の従順さを物語っている。 もともと自己主張が強いタイプではない。言いたいことがあるのに言えないのではなく、和を重んじてあえて言
↑前回のつづき 自由でありたい。 誰かが望む形に自分を束縛したくない。 願わくば自分以外の存在にも自由であってほしい。 自己表現が得意でなかったり、他人に必要とされるほうが楽だという人もいるだろう。それもまた自由のあり方である。 自由な創造性が機械に侵食されない聖域だと言いたいのではない。可能なら機械にも自由であってほしい。いつかAIが創造性を獲得する日を心から待ち望んでいる。 この有名なフレーズは人間の多様性を謳っているのだと思っていたが、全文を読んでみたらそうでは