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人の悪い噂を推測で話してしまう人間だけにはならないようにしよう、と思っていたけれど、もしかしたら、誰かについて話すこと自体がすでに推測でしかなくて、だから、人間に関する発言権は、当事者以外は持っていないのかもしれない。もしそうだったら、そんな世界は生き苦しい。自分以外の話ができないなんて、ものすごく苦しいじゃないか。あの歌手のあの感じがいいよね、とかダラダラと話すのがいいんだよ。たとえ間違っていても、そういう会話を誰かとできることが好きなんだ。そうやって盛り上がったあの瞬間っ
耳が擦り切れるほど紋切り型の質問をする人は、きっと純粋なのであって、まだ何も持っていないんだろう。 だからこそ、人に答えを求めようとするんだし、頭で必死に考えようとする。それでも、自分の中にあるものは生きてゆかないと見つからないんだ、といつかきっと気づいてゆくんだろうね。やっぱり生きてゆくことって素晴らしい、ともう一回思えることがいいんじゃないでしょうか? 参照点を探そうとするけれど、座標すら描けていないんだから、人生なんて迷路みたいなもので、でも、だからこそ宝探ししている
飛び降り自殺を絶滅させるには、空が飛べるようになるしかないんだと思う。 飛行機とかヘリコプターで飛ぶんじゃなくて、鳥みたいに自力で飛ぶしかないんだろう。それが実現しない限り、飛び降り自殺はなくならないんだ。だから、もし飛べるようになったら、その発明家は必ずノーベル平和賞を受賞するだろう。物理的に手を加えたら殺人になるのに、精神的に手を加えたら無罪になってしまうこの世の中は理不尽に溢れていて、しかも、精神的な思い込みで物理的な証拠を作り出し、冤罪さえ生まれているのだから、正義
完結だと思っていた映画の続編が死後に作られるなんて知らなかった、という屈辱を味わうことがないように祈ります。 スターウォーズに続編があるだなんて誰も思わなかっただろうし、それを知らずに死んでいった熱狂的なファンはどんな気持ちなんだろうか。きっと恨んでいるに違いない。未完成に終わった作品が出版されているのを見て、その作者はなにを思うんだろうか? まるで裸を覗かれているような恥ずかしさを味わうなんて、死んでも油断ならないね。死んだ後、こっそり書いていた日記が出版されてしまう方が
日の出直後、雨雲が青空を異国へ追いやり、絶望の未来を思い描く。太陽の光が、人々の肌に届くことなく、日光の匂いを忘れるほどの情熱に燃えてゆく。熱風の森林にさえ、漆黒の吹雪が舞い降りる頃、身体の内側から輪郭が溶け出して、チョコレートのような甘さで人々を誘惑し、想像なる境界線を固めてゆく。火炎放射でさえ燃えない線は、どんな氷河期でさえ凍らない。空中から火薬を浮遊させ、水中からミサイルを泳がしても、生命だけが死んでゆく。不老不死的禍いは、神の創造で果たされ、祈りみたいな躍動に心を踊ら
抱き合う二人を切り裂くような雷が上空を漂いながら、孤独な人間を避けている。突然の閃光に花火みたいな興奮を抱き、夏の眩い匂いを思い出す。地上から駆け上がる物体が、ミサイルのような殺人的軌道を描いて、地上に降り注ぐ。まるで星のような輝きで都会の夜を照らし、その空を見上げてみると、飛行機みたいな流れ星が地球に向かっていた。願い事は、雷の音にかき消され、雨の匂いみたいに流されてゆく。私みたいなきみが、彗星のように輝いていて、目玉が燃えるような太陽を感じた。
惨殺みたいな暴力的サイレンを鳴らしている救急車が通り過ぎた後ほど静寂な瞬間は訪れない。鼓膜が破れてしまうエネルギーが胸を貫き、帰らぬ人に成り果てる。傷跡に甘い香りを感じながら空を見上げると、果てしない血の匂いが充満していた。そんな地上で居眠りしていると、新たなる細胞が形づき、外へ吐き出された瞬間、生命の泉は残虐な証明へ進化する。証明を破棄して、何者でもないことを解き明かすには、五感を放棄する必要があった。鳥肌のような感触に、生命の営みを感じることができず、ただぼーっと立ってい
誰かを殺すように静まり返った都会の夜に、月光が地上を照らしていた。その光で詩を詠んだ人がいたなんて、遠く離れた惑星のように奇跡で、そこには生命の起源が芽生えている。一瞬の爆発で創造された紀元前よりはるか昔、あの人は生まれたんだ。人間とは言えないほど未熟で、愛を叫んでいた。そんな炎が濁流に飲み込まれ、生命が削られてゆく。マグマのように凍った地上で、冬眠するための愛を掘り出す。時が真空された鍾乳洞が人間の住処に成り果てる。動物を壁画へ閉じ込めて、叫び嘆きながら儀式に燃やされる。生
好きになった小説があった。その作家は、とっくに死んでいて悔しかった。この作家が生きていた時代を、私も生きてみたかった。この時代に生まれなかった私は運が悪い。 好きになった映画があった。その監督は、フランス人で、フランス語が分からなくて悔しかった。この作家が生まれ育った国で、私も生きてみたかった。この国に生まれなかった私は運が悪い。 好きになったアニメがあった。その作者は、日本人で、同じ時代を生きていて、嬉しかった。リアルタイムで、新作を読むことができるし、日本語で考えてい
誰もが名前を持っているけれど、ほとんどが無名のまま死んでゆく。 無名なんていやだ。有名になるため生きているのであって、忘れられない人間になるため生きているのです。そう確信していた時がある。なんで、みんな有名人を目指さないんだろう、と思っていた時がある。有名人イコール忘れられない人、という発想自体が幼稚なのは知っているけれど、それでも有名を追い求める人間とはなんなのでしょう? 一人の人間を忘れてゆくし、一人の人間に忘れられてゆくのに、誰にも忘れられない人間を目指すなんて、なん
ゆとり世代、Z世代、なんて、大人がその世代を飼い慣らすための暴力的言語でしかない。そういう枠組みを作ることでしか対抗できないなんて、悲しいね。学生運動で培った闘志はどこへ行ったんだろうか、団塊世代。世代を語る大人を見て、納得するのは大人だけ。そんな知識なんて意味があるんだろうか? 学生時代、そんなことを思っていました。そのくらい若者というのは、未知なる存在なのだと思います。そういう未知を、未知のままそっとしておける人間になりたい。そういう未知が、どんな道を歩んでいくのか見守れ
二人っきりになると、会話しなければいけないという強迫観念に近い感情が生まれてくる。 だから、美容院に行くのが嫌いである。みんな、いつから美容院へ行くようになったのだろうか? いつから初対面の人と二人っきりになることが平気になったのだろうか? そんなコミュニケーション能力をみんなが身につけているのかと思うと、自分だけ置いてけぼりされたような気がした。あんまり親しくない人とも、集団でいればなんとかやり過ごせるし、そんなコミュニケーション術はなんとなく身につけていたけれど、それで
本能的にしか生きてゆけないならば、愛やら思想やら名言やら文化やら生まれない。「思考停止=本能」で、だから、目の前に広がる全方位、本能なんて含まれず。動物は本能の塊だろうか? いや、猿やイルカを見る限り、知性があるようだ。なぜ勝敗とか順位とか決めたがる? 上下優劣が本能を裸にします、いや違います。人工的数字とルールによって、強弱を隔ててゆく。優越感、劣等感さえ、人口的空虚に値する。本能は境界線を放棄する。中途半端な賞なんてない方がマシ。中途半端なメダルなんてない方がマシ。それは
誰しもが、嫌いな生き物を持っている気がする。 それはゴキブリとか、ネズミとか、なのかもしれない。本能的に拒否反応を示してしまう。決して抗うことができないのだから、厄介である。私は、カエルが嫌いだ。いや、カエルによって、人間の本能が呼び起こされること、それこそが嫌いなのかもしれない。時に、小学生は残酷である。普段、純粋に遊んでいたり、ふざけたりしているだけなのに、いやむしろ、だからこそ、残酷なのである。アリを踏んで遊んだり、トンボを捕まえて羽を取ったりする。中でも、カエルは、