自己中心的懺悔
誰しもが、嫌いな生き物を持っている気がする。
それはゴキブリとか、ネズミとか、なのかもしれない。本能的に拒否反応を示してしまう。決して抗うことができないのだから、厄介である。私は、カエルが嫌いだ。いや、カエルによって、人間の本能が呼び起こされること、それこそが嫌いなのかもしれない。時に、小学生は残酷である。普段、純粋に遊んでいたり、ふざけたりしているだけなのに、いやむしろ、だからこそ、残酷なのである。アリを踏んで遊んだり、トンボを捕まえて羽を取ったりする。中でも、カエルは、人間が残酷な生き物だという証明を突きつける。時に、泥団子の中にカエルを入れて、誰かに投げつける。時に、カエルの腹を切り裂いて、観察しようとする。理科の解剖実験だって、カエルを使う。同級生が、平然とカエルを解剖するし、しかもそれを観察し、スケッチさえするのだから、カエルには、人間を悪魔に変える何かがあるはずだ、と恐れる。そして、ますますカエルが嫌いになってゆく。だから、カエルが出てくるアニメを見ると、内心ドキドキしてしまうのだ。カエルを見るだけで、人間は人間ではなくなるのではないかと。でも、それは勘違いだと気づく。歴史を学ぶほど、人間は人間に対して悪魔になるのだ、と知る。解剖のためではなく土地を奪うために、人間が人間を殺す、と知る。人間を嫌いになるだけの証拠は十分揃っているはずなのに、それでも、人間を嫌いになることができない。いまだに、人間よりも、カエルの方が嫌いなのである。カエル、ごめんよ。