期待すること、裏切られること 『なぎさ』を読んで
先日、山本文緒さんの『なぎさ』を読みました。
プラナリアを初めて読んだ時も思ったけれど、
やっぱりこの人は人間の"言葉には決して出せない部分"を表現するのが上手い。
もっと極端な言い方をすると、人の"自分勝手な失望"を躊躇なく活字に起こす人だと感じました。
例えばこれ、
自分に今与えられている情報だけで相手に好印象を抱くけど、
また新しい情報が入ってきた時に"あぁ、やっぱりな"って勝手に裏切られた気持ちになる。
こういう、自分の意図した気持ちじゃなくて、"不意に出てしまった"というような心理描写が多い。
悪い人間だと頭ではわかっているのに尊敬してしまったり、大切な人に対して思ってはいけないことが頭に浮かんでしまったり。
そういう内面が丁寧に表現される。
だからこそ、彼女のお話に出てくる登場人物達のほとんどはどこか不完全。
そんな先生の長編小説『なぎさ』を読んで、1番考えさせられたのは"相手に対する期待の感情について"です。
主人公、冬乃の両親は家族愛が強く、姉妹をとにかく縛りつけた。父の口癖は『家族はチームだ』
小さい頃はそれでよかったかもしれない、でも子供達が大人になるにつれて、その『チーム』に求められるものも変化していった。
"お前たちを育てるためにいくらかかったと思ってる"
こちらがしたことは返ってきてあたり前。
それが両親の考えで、姉妹はその思考に大人になってから十数年間苦しめられる。
そんな冬乃が故郷から遠く離れた久里浜で出会った人が"所さん"という70歳近くのおじいさん。
彼はずっと付かず離れずの距離で冬乃に接してくれる。
それでも冬乃が誰にも頼ることができない悩みをかかえている時は手を差し伸べてくれて、その後もずっと気にかけてくれる。
冬乃の夢を一緒になって悩み、あれこれと手を貸そうとしてくれる。
"僕、わくわくしてきたって言ったでしょ。楽しくてやってることだし、あなただって人が喜ぶのを見るのは好きでしょ?肉親じゃなくても親切にしたって変じゃないよ"
自分がしたいからしてるだけ。
あなたが幸せになれればそれで満足。
それが、この所さんの考え。
自分が相手のために労力を使おうが、それは自分の勝手なのであって、その見返りを求めているわけじゃない。
所さんが期待しているのは冬乃の幸せだった。
両親は最終的に、姉妹に"期待"を裏切られることになる。
彼らが期待していた"自分たちへの見返り"は姉妹を苦しめた。そして、決別された。
でも、作中ではもちろんかかれていないけれど、所さんの冬乃への期待はきっと裏切られることはないと思う。
というか、私はそう思いたいです。
人は期待していたことが形にならないと、それを"裏切られた"と簡単に言ってしまう。
私も自分が何かをしてあげたらその見返りを心中で求めてしまう。それが返ってこなかったら"裏切られた"だとか"期待外れだ"とか思ってしまうことがある。
だから冬乃の両親の心情も少しは理解できる。
でも、この本を読んでいて、改めて
"あ、自分違うな"と感じました。
そして、この"期待"と"裏切り"をより自分ごとに思わせる存在がモリという男。
彼は、弱ってる人の懐にいとも簡単に飛び込んで、その善意の限りを食べ尽くす。その人にとって甘い話しをぶら下げながら。
それで、一通り楽しんだらその場から逃げる。
"選んだのはそっちだ、自己責任だよ"
自分が裏切ったわけではなく、勝手にそっちが期待しただけ。
一見すると、モリはどこにでも飛びこめて自由を愛する人。作中の多くの人々も彼に魅力を感じていた。
このお話の中ではモリは圧倒的ダークサイドの人間。
"不穏な空気"を具現化したかのような存在。
こうして自分で文に起こしても、"やっぱり嫌なやつだなー"と思います。
でもこういう"自分は悪くない、勝手に期待したのはそっちでしょ"のスタンスの人間って、実はめちゃくちゃ多いと思うんです。
本質的にそういう人ではないとしても、社会に出るとそうしなければいけない場面もあるし。
だからこそ、
期待しているのは見返りじゃなくて、その人の幸せ
手を貸すのはその人が自分にとって大切で、自分がそうしてあげたいから。
この"所さん思考"を持つ人にもしも出会えたとしたら、絶対に手を離してはいけないなと感じました。
そして、自分もそんな思考を実行できたら、それだけでたくさんの人を救えるんだろうなと思いました。
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