ニヒリズムからの解放_時間の比較社会学より

より


未来に向かって現在を組織化する能力を獲得すること自体は
そしてまた
客体化された時間のシステムを獲得すること自体は
われわれにとってひとつの解放であって
これらの能力をまったく放棄することはおそらく可能でもなく、望ましくも ない。

すでにみたように問題は
われわれの文明の獲得してきたこれらの能力を
否定することなしに〈時間のニヒリズム〉をのりこえることは
どのようにして可能かというふうにたてられるだろう。
われわれの意識が未来を獲得し
われわれの生が未来に向かって組織化されている場合にも
われわれが同時に現在それ自体へのコンサマトリー(現時充足的)な意味の感覚を喪わないかぎり

そして未来への関心が有限な具象性のうちに完結する構造を喪わないかぎり、死はわれわれの生をむなしいものとはしない。

そしてまったく同様のことが
客体化された時間の尺度についてもいえる。

われわれの意識がこれを獲得し
われわれの生がこの時間の尺度を手段として組織化されている場合にも、
同時にわれわれが生きられる<時> それぞれへの固有の充足を喪わないかぎり

そしてわれわれの生の意味づけが実体化されたこの尺度のうえを
抽象化された無限に向かって上すべりしてゆくことのないかぎり
時間がニヒリズムの元凶となることはない。

われ われの未来が有限な具象性のうちに完結する構造を喪い
抽象化された無限に向かって生の意味づけが上すべりしてゆくということは

もともと、われわれが現在の生それじたいに内在する意味の感覚を喪い
したがって生きられる<時> それぞれが固有の充足を喪うと いうことにもとづいている。

そしてわれわれが
現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえってみると

それは必ず
具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだということがわかる。

われわれの現在の時が
未来に期待されている結果のうちにしか
その意味を見出せないほどに貧しく空疎となるのは

われわれが人間として自然を疎外し
個我として他者を疎外し
いいかえれば現在の時にそれじたいとしての充足を与える一切の根拠を疎外し
ミンコフスキーが〈生きられる共時性〉と名づけた
存在のうちに交響する能力を疎外しているからだ。

存在のうちに喪われたものを
ひとは 時間のうちに求める。

存在のうちに喪われたものをひとは時間のうちに求める。

けれども時間はわれわれをただべつの存在へとみちびくだけだから
存在のうちにわれわれが見出すことを拒んでいるものを
時間が与えてくれることはない。

時間がニヒリズムの元凶であるのではない。
ニヒリズムが元凶としての時間を存立せしめる。

死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく
ひとつの生きられる戦慄である以上

われわれをそこから解放する認識は
われわれの知によって知られるばかりではなく
われわれの生によって知られねばならないはずだ。

知がそれ自体として解放する力をもつということはない。
知が生き方を変える限度においてだけ
それは解放する力をもつのだ。

知でなく生による解放とは
世界を解釈することではなく世界を変革するということ

すなわちわれわれが現実にとりむすぶ
関係の質を解き放ってゆくことだ。

けだしひとつの社会の構造は
人間の自由な意志と想像力とが
その中でみずからをうらぎるような軌道をさえ
描いてしまうような磁場を形成しているのであり
ひとつの時空とその非条理からの解放は
ひとつの社会のあり方の構想なしにはありえないからだ。

けれどもそれはこれまでのいわゆる
「社会変革」のイメージとはすでにはるかに異質の
しかし同様に実践的な
ひとつの人間学的な解放でなければならないだろう。

現在が未来によって豊饒化されることはあっても
手段化されることのない時間

開かれた未来についての明晰な認識はあっても
そのことによって人生と歴史をむなしいと感ずることのない時間の感覚と
それを支える現実の生のかたちを追求しなければならない。

われわれがもはやたちかえることのできない過ぎ去った共同態とはべつな仕方で

人生が完結して充足しうる時間の構造をとりもどしえたときにはじめて
われわれの時代のタブ ー、近代の自我の根抵を吹きぬけるあの不吉な影から、われわれは最終的に自由となるだろう。



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