”死にたい”を肯定したい。
己もメンヘラなのではないかと指摘される機会が増えた。
原因は、よく周囲に死にたいと漏らしているからだろう。
僕に至っていえば、本気で死にたいと思ってはいない。
正しく言うならば、死にたいと漏らしている瞬間は比較的本気で死にたいと思っているのだが、それは永続的に続く感情の刹那的なワンカットに過ぎない。
極端なはなし、
死にたいと思った3秒後には
仕事の進捗や明日の献立を考えていることだってある。
死にたいという発信は同時に自己の生存確認の手段でもある。
それゆえに死にたいという感情は負のもの。
死にたいと思ったら、鬱だ。みたいな風潮に憤りを感じる。
死にたいと感じるから必ずしも病んでいるとはいえない。
世間は死にたいという自己発信に厳しい。
死にたいと発信すれば、メンヘラだの言われる。
死にたいと言うのは感情の移り変わりの一瞬のうねりでしかない。
死にたいと思ったこともない人からすれば、理解に苦しむ内容だろう。
例えば、人の自浄作用を例に出そう。
あなたが週末のカフェや自宅での映画鑑賞、スポーツジムや恋人とのデートの中で日々のストレスを自浄しているなら、
僕もまた、死にたいという発信において自浄しているのだ。
私の元カノのヘラ子は死にたいと言っていたけど
本当に死ぬことはなかった。
死にたいという自己発信がライフワークだとしたら、
それはもう生存の否定ではなく、生存の肯定だ。
私はすべての死にたいという感情を肯定したい。
その気持ちはおかしくない。
適者生存の資本主義の世の中で、
価値観が多様化し、何が幸せかわからないこの社会で、
会いたい人に満足に会えないこのご時世で、
毎日、生きてるって最高と思える方がむしろすごい。
間違っても自殺を肯定しているわけではない。
死にたい。自分なんていらない。消えてしまいたい。
そんな感情があってもいいではないか。
仕事がうまく進まないかもしれない。
明日クビになるかもしれない。
一生結婚できないかもしれない。
結婚できても、離婚するかもしれない。
子供の養育費で苦労するかもしれない。
親の会社が潰れて借金を背負うかもしれない。
若くして病気になるかもしれない。
年金はもらえないかもしれない。
大切な人がいなくなってしまうかもしれない。
未確定の漠然とした不安を前にして死にたい。
でもやっぱり生きたい。
最後に『Livin'n Life』 Joseph Blackwell を紹介してこの文章を終えたい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今、心の傷を少しづつ癒しながら元の自分に戻れるよう頑張っています。よろしければサポートお願いします。少しでもご支援いただければそれが明日からの励みになります。