夜道、夜道、夜道、
生命の、芽吹く一日と跡形もなく吹き飛ばされる一日。
そのどちらにも直面した一年だった。
それは、大して変わらない匂いをしているのだと知った。
おもたくて、まだらで、ふかくて。
まだ形も知らなかった蠍座を、あの人に促されて探し続けた、あの日の呑まれそうな夜道のおそろしさのことを思い出す。
人は、死んだら何処に行くのだろう。
小さい頃から、そんな漠然とした疑問に惹かれてきた私は、その架空の世界の可能性を示してくれる物語に触れることも好きだった。
解答を確かめることのできないこの問いには、物語の数だけ回答が描かれる。天国か地獄か、お星様になるとか、神様の従者になって人を守る務めを担うとか。
煙になって、空へ立ち上って。雨になって、海か、あるいは土に降り注いで。そうして天地の至るところに宿るとか。これは、私が中でもいっとう好きな物語。
でも、いざ我が身で目の当たりにしてみるとまったくその通りではなかった。
そんな、絵に描けるようなところに、彼らがいるとは思えなかった。
其処を表すことばというのも、結局は私なりに探さなければならない謎であったらしい。
と、気づいてみると見慣れていた景色に気づいて。
私はそのぬかるみに踏み込むのをやめてしまった。
本当はもう、こんなのを探すことなんてこりごりなのだ。
ことばなんて、大嫌いだ。
結局、他者に重んじられるのは身体なのだ。
想い人に走れば会いに行ける場所にいるか否か。成り成りて成り余れる処があるか否か。
銃弾に、首筋を貫かれた否か。
学校の先生は、子どもの二週間前殴られてできた痣には気づけても、また別の子どもが昨晩投げかけられた「死ね」ということばのことには気づけない。医者は、患者の肉体に疾る傷ならなかったことにできても、心に負った傷のことはそうはできないし、そもそも形どることだってできない。
そうして、誰にも取り除いてもらえないまま、骸として蓄積してゆくだけのものに、救いなんて見出せるわけがない。
それなのに。
いま私が呼吸と同程度に自然にできていることといえば、してしまうことといえば、「ことばなんて大嫌いだ」ということばをこうして文字に起こすことだけ。
頭の中に散らばって漂ったままの石ころと石ころを、繋げて一つの星座として名前をつけることだけだった。
これが、私の仕事だった。これだけが、私の食いぶちだった。
私が浴びることができた針はことばだけだったし、私に許されていた踊りもことばによるものだけだった。
私にとって、生命活動と当たり前に絡みきってしまった営みで、呪いのようなもの。
これをやめてしまう日というのは、すなわち私が死んでしまう日なのだろう。
いや。
これを、やめられる日というのが、
──ことばなんて、大嫌いだ。
明日を迎えることなんて、大嫌いだ。
人は、死んだら何処へ行くのだろう。
この答えを表す星座を見つけ出すためにも、私は私の肺を犠牲にする必要があるらしい。
自傷行為。手首を切ってみていた十年前と何ら変わりのない。痛い、何も報われるものはないと、わかってて繰り返す作業。
それでも、どうせ、何もないからこそ。
明日も迎えなければならない朝にそいつを置いていくよりはうんといいのだと、思ってしまう。
ことばは私のすべてだった。
あなたは、私のすべてだった。
あの日、蠍座を見つけられず上を向いてたたずんでいた私から離れていったあなたは。
いまは本当に、闇に紛れて、いなくなってしまった。
あなたが連れ出して、置き去りにしたこの夜道に、私はまだ取り残されている。
名を与えられぬままの星に覆い尽くされた夜道を、歩く。歩く。
出口はもう、知っている。
でも、禁じられているから。歩き続ける。
歩くほど骨身に降りしきる塵のいくつかを、選んで、結んで。たまの上手くできた点描には微笑んで。
でも、やっぱり少しも減るように見えないそれらに、溜息を吐いて。
歩く。歩く。
あと、幾年を歩けば。
私はこの夜道に溶けることを赦されるのだろう。