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偶然とは如何なるものか 第四回 離説的偶然

前回は経験界に発生する偶然性である仮説的偶然性について見てきた訳であるが今回は形而上学的偶然性たる離説的偶然の項を読み解いてゆく。前回の記事は下記のリンクより。

離説的偶然の意味

離説的偶然とは全体と部分との関係である。全体は全体である以上絶対的な同一性が存する。故に必然性が伴っている。そして部分は部分である以上全体ではない故に絶対的な同一性がない。よって偶然的である。部分は部分であるから部分を包括する全体があることを予想している。今あげた部分はここの部分でもあり得る以上あそこの部分である可能性が存す。つまりいまの部分になっているということは単に偶然的である。上記の如く全体の必然性に対する部分の偶然性、全体と部分との関係から離説的偶然というのである。

様相性一般

離説的偶然は只今ある部分である以上それが偶然的なる場合あの部分でもある可能性もあるわけである。故に偶然性の問題が可能性の問題に触れている事を明記しておかなくてはならない。
我々が一体生活する際に現実或いは現存在に対となる概念に非現実或いは非存在を考えるのである。現実というのは現にあるものであり非現実というのは現にないものである。つまり現実は現にある以上「ないことはできない」ものであるあり非現実は現実的にない以上「ないことのできる」ものと考えられるのである。現実を構築する現象には「偶然性」と「必然性」がある。そして対義の概念としての非現実には「可能」と「不可能」が考えられる。なぜかというに空想範疇における現実への投射として現実性への可能、不可能を考えるのは必然的な流れであり現実性に投射した際にそれは現実的に可能であるのか或いは不可能であるかを検討するのである。
九鬼周造は必然、偶然、可能、不可能、それぞれの立場からそれぞれを規定している。以下の通り。頁168より行7より。

(1)可能性の立場よりの規定
可能 =有ることが可能である
不可能=有ることが可能でない
偶然 =無いことが可能である
必然 =無いことが可能ではない
(2)不可能性の立場よりの規定
不可能=有ることが不可能である
可能 =有ることが不可能でない
必然 =無いことが不可能である
偶然 =無いことが不可能でない
(3)必然性の立場よりの規定
必然 =有ることが必然である
偶然 =有ることが必然でない
不可能=無いことが必然である
可能 =無いことが必然でない
(4)偶然性の立場よりの規定
偶然 =有ることが偶然である
必然 =有ることが偶然でない
可能 =無いことが偶然である
不可能=無いことが偶然でない

上記の事柄から偶然性は存在の必然性を否定するものであり必然性というのは存在の偶然性を否定するものである。つまり偶然と必然とは矛盾対当である。不可能性は存在の可能性を否定するものであり、可能と不可能とも矛盾対当にある。不可能性は非存在の必然性を主張するものであり可能性は存在の偶然性を主張するものであるから必然と偶然、偶然と不可能とは類似関係にある。

偶然性と不可能性との近接関係

可能性は不可能性の否定である。可能性は存在し始めたその瞬間から増大してゆき可能性の極限は必然性と一致し必然性の否定は偶然性であるか偶然性は誕生したその瞬間から偶然性は次第に増大しその極限は不可能性と一致する。すると可能性と偶然性は対立関係にあり、偶然性と不可能性とは一致する。可能性が増大するに従って偶然性は減少し偶然性が増大するに従って可能性が減少する。可能性の増大は偶然性の減少であるからその行くつく先は必然性である。偶然性の増大は可能性の減少であるからその行くつく先は不可能性である。

偶然性の時間性格

偶然というのは如何なる時に起こるのか。偶然は時間軸のどの点に存在し得るのかを見ていく。まず「可能性」というのは未来の時間性格を持っている。というのも「雨が降る可能性がある」場合、それは現在の見知にたった場合今は降っていないが時間が経てば降る可能性があるということであるので可能性は「未来」という時間性格を持っている。「昨日雨が降った可能性があった」とは言えなくも無いがこの場合、それを認識する、或いは認識した者は過去のある時点に遡りその時点から雨が降る可能性を観察している事から可能性の「未来」性格は失われない。ついで必然性であるがこれは「過去」という性格を持っている。必然性というのは「ある」または「いる」である。「雨が降っている」というのは眼前の情報であり確かなる事である。それはつまり経験しているから「雨が降っている」ということが言えるわけである。「明日雨が降っている」ということはできない。なぜかというと「明日雨が降らないかも」しれないからである。つまり「明日雨が降っている」という表現は訂正するのであれば「明日雨が降る可能性がある」ということで未来の事柄である。「あった」或いは「いる」というのは完了形であり常にその過去の基づいている。ついで偶然性の時間性格であるがこれは「今」つまり「現在」という時間性格がある。可能性という「未来」がこちらの方に流れ来たりて現在と可能性という「未来」とが邂逅し可能性が事実になった際、「偶然」が生じるのである。そしてその「偶然」はたちまち過去に流れ去り偶然が「あった」という「過去」の時間性格を帯びるのである。九鬼は上記の時間性格を記した上で再び「原始偶然」を取り上げる。「原始偶然」は必然的とした場合その偶然は過去に「あった」ということで過去の現象として語られあった可能性がある場合にはそれは「未来」という時間性格を帯びる。しかし原始偶然は偶然であるため「今」という時間性格のみより与えられていない。原始「偶然」は必然性を伴ってある可能性があるのみである。偶然というのは現在に起こる現象故唯一正視することができる現象であるがそれは刹那に必然性に変わる事から知覚した瞬間にそれは必然性になってしまう。故に偶然性は虚無性と現実性及び現在性を帯びた存在であることが言える。

偶然と芸術

偶然性というのは芸術と最も密接に関わっている。畢竟するに芸術というのは偶然性を表現するものである。仮説的偶然の項で枕詞の偶然性について言及したが偶然には驚きという情緒を認識者に与えることができる。芸術というのはすべからく現実から独立した一つの世界、言うなればもう一つの宇宙を創造するわけで有る故にその発生は全く偶発的出来事である。九鬼は二つの理由を以て芸術と偶然の関連性を語っている。第一に芸術そのものの構造性格が偶然的であり、第二に芸術は偶然を対象内容とするものを好む。第一の点は芸術は一つの小宇宙を創造という点で先に述べた。第二は芸術というのは往々にして現実の自然現象を対象にすることがある。自然現象というのは全く出鱈目である。故に美しいのである。美しい、つまり驚きがあるからでそれを何らかで表現した場合それも驚きを伴うのである。九鬼周造は和辻哲郎の『風土』において連句について語った一文を引用する。

一人の作者の想像力が持つ統一性は故意に捨てられ、展開の方向はむしろ「偶然」の所産であるが、しかもそのために全体はかえって豊富となり、一人の作者に期待し得ぬような曲折を生ずるのである

偶然と運命

偶然が与える驚きは運命に対する脅威という形を取ることがある。その偶然がそれを与えられた人間にとって非常な意味をなす場合その偶然は運命という名で呼ばれることがある。例えば仲の良い友が死にある日夢にその友が出てきて「右には進むな」ということを言われその次の日に別れ道が眼前に現れ夢が告げた通りに左に行った場合何事もなかったが右に進んでいたら土石流に巻き込まれていたという場合、友が私を助けてくれたという錯覚をしそれは生きる運命を与えられたと考える訳である。がそれは友が死にその友が夢に出てきてその共に従ったら生き延びたという目的的積極的偶然に過ぎないのだ。九鬼は運命について頁249、行16より次のように言っている。

運命の概念はおそらく目的的偶然が人間の存在性を威圧するがごとき場合に生じたものであろう。

有と無

私は先に偶然というのは現在に生じ刹那に失われるという時間性格を持っていると述べた。あらゆる現象は存在している以上必然的でありその原始的発生は原始偶然である以上偶然的である。つまり図式として「必然ー偶然」である。あらゆる現象はAでありBでありCでありDである以上AであらずBであらずCであらずDであらぬ可能性が存在しているのである。この世の統べているものつまり形而上学的絶対者、すべての源流つまり原始偶然はあったということ故必然的であり絶対者以前、原始偶然以前を想起できない限りその発生は偶然である。絶対者、原始偶然というのはそういう意味で「必然ー偶然者」である事から絶対有であり絶対無であらねばならぬ。偶然性はその意味で有ると無しの境界にともすれば存在しないという境界に危うく立脚する極限的存在なのである。
九鬼周造は『離説的偶然』の項をこのようにして締め括っている。(271頁、3行目より引用)

偶然は無概念的である。無関聯的である。無法則、無秩序、無頓着、無関心である。偶然には目的が無い。意図が無い。ゆかりが無い。偶然はあてにならない。盲目で眼が無い。偶然はシェークスピアのいうがごとく「底が無い」。ヘーゲルのいうがごとく「理由を有たない」。偶然においては無が深く有を侵している。その限り偶然は脆き存在である。偶然は単に「この場所」にまた「この瞬間」に尖端的な虚弱な存在を繋ぐのみである。一切の偶然は崩壊と破滅の運命を本来的に自己のうちに蔵している。「合会有別離、一切皆遷滅」(『涅槃経』巻第二)。現実が無に直面し、無が現実を危うくするとき、我々は弥蘭とともに今さらのごとく驚異して「何故」の問いを発するのである。


以上を以て九鬼周造の『偶然性の問題』は終了となる。

5月4日 武蔵 山水

参考文献/九鬼周造 『偶然性の問題』

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薄荷
是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。

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