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【感想】DD論-「解決できない問題」には理由がある-

橘玲さんの本は社会の本質やタブーに鋭く切り込んでいて、普段の生活では目を背けがちな問題を多数描いていて、普段生きていく分にはもしかしたら、見なくてもいいかもしれない側面が多数書かれてます。

「言ってはいけない」
「バカと無知」
「無理ゲー社会」

いつも読むたびに何を感じ、何を考えれば正解なのか分からなくなる。

だけど、今現実として何が起きているのか、世界や社会はどう変化しているのかを理解しておいて損はないはず。

「DD論」

つまり『どっちもどっち』という考え方は、善悪二元論では解決できない複雑な問題を捉える新たな視点で、今世界が必要としていることなのかもしれません。

自分が知っていること

あなたは世の中すべてのことが分かるでしょうか?

私は全く自信がありません。

現代社会では、情報量が爆発的に増え続けています。令和5年版情報通信白書によれば、私たちが1日に接する情報量は、江戸時代の1年分、平安時代の一生分に相当するとも言われます。この膨大な情報量を人間の脳で処理しきれないのは容易に想像がつきます。

つまり、自分が知っていることは世の中の一片でしかなく、世界のすべては知ることなんて、ましてや日本で起きていることですら、知ることは難しいんです。

なのに私たちはなぜか自分が知っていることが中心で世界が回っている錯覚を起こします。

DD論によれば、脳は構造上自分が中心に世界を理解するしかないため「特別な自分には特別なことが起きて当たり前」という錯覚が生じると言います。なので当たらない宝くじを買ったり、ネット詐欺に騙されるということも生じると書いてあります。

構造上しかたなかったとしても、出来る限り「自分の知っていることが全てではない」と理解することがとても大切だと私は思います。

私の会社での体験からも、ある部門では、メンバーがタスクを抱え込まないよう、すべての依頼をマネージャーを通す仕組みが導入されました。私は業務のスピードを重視し、現場判断で進めるべきだと考えましたが、相手側の立場を考慮すると、メンバーを守るための措置として正当化される面もあります。

以前は全くそんなこと気にするような組織では無かったのですが、カバナンスの観点やメンバー保護観点からもその方がいい場面はあるにせよ、文化や節度を守り、お互いを尊重し合う組織であれば、スピードを重視し、業務を行った方がいい思いと問題提起をしました。

すると「言っていることは分かるが、相手の立場や言い分も聞いてから意見を言って欲しい」と中立の立場の方に言われたのです。

そう、片方の意見や常識だけでは、衝突が生まれるだけなのかもしれないと感じた瞬間ですね。

リベラル化していることを受け入れる

DD論に何度も書いてありますが、現代はリベラル化まっしぐらです。

リベラル化とは、社会や政治、経済などの分野で、自由を重視する方向に変わっていくことですよね。もっと分かりやすく言うと、個人の自由や多様性を大切にし、政府が関与する規制を減らしながら、開かれた社会を目指す動きだと思います。

世界は豊かになったので、自分らしく生きる大切さが台頭してきたということは、色んな自分らしさが生まれ、多様化し、複雑化してきていることの裏返しでもあります。

そうすると多様な価値観が衝突し「善悪二元論」に繋がっていきます。

先ほどの私が経験したことも現場で判断出来ることがスピード感持って対応できるという「善」で、対応しないのは「悪」と捉えていましたが、反対の立場に立ってみると、メンバーではタスクを受け取れきれず溢れてしまうので、マネージャーがタスク管理することが「善」で、依頼してくる人が「悪」と考えられるかもしれません。

こうして「善悪二元論」で考えると対立が起き、問題が生じます。

私が例に挙げたことは身近で小さい問題かもしれませんが、世界で問題になっている数々のことは同じ構造で起きているとDD論を読むと感じます。

リベラルの基本は「わたしが自分らしく生きるのなら、あなたにも同じ権利が保障されなくてはならない」であるはず。でも気が付けば、自分の信念と違う行動をする人を受け入れられず、または受け入れてもらいたいがために「善悪二元論」で考え「悪」を叩き続ける。

リベラルを勘違いしていないか。自分自身にも問いたいなと思います。

DD論を受け入れられるか

「善悪二元論」では無ければ、なんなのか。それが本書の題名であるDD論で「どっちもどっち」です。

常に物事は表裏一体なので、それぞれの事情があります。表裏を理解しようとして、受け入れることが出来るのか。それが何より大切だとDD論から学びました。

ただこれは恐らく強者の理論で、人類の歴史で言えば、差別や制圧をされてきた方から見れば「犠牲の記憶」がアイデンティティとなり、被害者としての償いを求めるのが普通です。

この時「どっちもどっちだったよね」と言ってしまうと、差別や制圧をされてきた方のアイデンティティを否定してしまいます。リベラルな時代にアイデンティティの否定はNGです。

「わたしが自分らしく生きるのなら、あなたにも同じ権利が保障されなくてはならない」からです。

なので「善悪二元論」と「DD論」は両立は難しく、上手く操る必要がありそう。

とここまでDD論を読んで解釈してみたものの、そんなこと難しいなと改めて感じます。「善悪二元論」と「DD論」を循環させながらうまくバランスを取ることなんぞ「神のみぞ知る」世界なのかもしれません。

ただDD論を受け入れるためにも、表裏を理解出来ずとも知ろうとする姿勢や考えを持つことは自分自身を行きやすくするために必要だと思います。それが政治的や文化的に難しくとも。

自分の知っている世界なんてたかがしれていることを改めて認知しようと思いました。それがDD論を受け入れられる土台になると信じて進むしかなさそうです。

まとめ

確かに、著しく悪い人や集団が出現したときには、立ち向かうことが難しく感じるかもしれません。それでも、物事の「表裏」を意識することは無駄ではないと感じます。表面に見えるものだけでなく、裏に潜む意図や背景を理解しようとする姿勢が大切だと感じています。

また、DD論を始めとする世界や社会の変化を積極的に知る機会を作ることも、現代を生き抜く上で重要な作業だと思います。私たちが豊かになれば自動的に幸せが訪れると思っていたのですが、それが必ずしも真実ではないことに気づかされました。この本を通じて、自分自身の姿勢や柔軟性をさらに鍛える必要性を感じました。

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