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自分たちのルーツと向き合うこと~『日本軍の治安戦──日中戦争の実相』を読んで~

とっても重いことを書きます。

いま、友人たちと『失敗の本質』の読書会をやっています。過去の組織の「失敗」を今の組織にあてはめて考えようという趣旨のものです。

私はこのイベントに絡めて、家族のヒストリーを振り返れないかと思いました。戦争中、祖父や祖母がどこで何をしていたか、過ごした時間や土地のことを、文献をあたるなどして、調べる良い機会だと思ったのです。

祖父と祖母は、終戦時、広島県呉市にいました。祖父が海軍工廠の軍属となっていたからです。呉では激しい空襲に遭ったといいます。原爆で被災し呉に逃げ込んできた人々を目撃したシーンは祖母がよく語ってくれました。映画『この世界の片隅に』とほぼ同じシーンが子供のころから何度も繰り返し、私の頭の中でイメージされてきました。祖父は民間人でしたが、呉の工場勤務になるまでは、中国の青島で憲兵をやっていたと言っていました。つまり、日中戦争の時、兵隊に取られて、軍務を終え、一旦内地に帰って来て、その後、すぐに再度召集令状が来て、呉での勤務が決まったということです。祖父は最初の召集の時、姫路に行ったと言っていましたから、所属は陸軍第10師団です。Wikipediaで調べたら、第10師団は昭和13年に中国に派遣され、昭和19年にはフィリピンはじめ、南方に転戦しています。祖父は「中国で除隊されなかったら南方に行っていた。南方に行って、生きて帰ってきた同僚は一人もいなかった」とよく言っていたので、Wikipediaの情報と一致します。皇紀2600年のお祝いの時、二等兵から一等兵に昇進したと言っていたので、昭和15年当時は、まだ中国にいたことが分かります。当時の民間人の軍務はだいたい3~4年であったことは調べれば分かります。昭和13年頃に中国に渡り、15年か16年に日本に戻り、その後すぐ、昭和17年あたりに広島に移ったのだと思います。

祖父は青島で憲兵をやっていたと書きましたが、子供の頃、よく昔の写真を見せてくれました。中国人の捕虜の人たちと映った写真でしたが、どの写真を見ても、祖父も捕虜の人たちもみんなニコニコと笑顔で映っていました。最前線の戦闘は激しかったけれど、日本軍の占領地域は平和だったんだと、ずっと思い続けていました。

たまたま、Amazonで目にしたのが、『日本軍の治安戦──日中戦争の実相』という本でした。憲兵ということは治安部隊ですから、祖父たちの戦争を知ることができると思いました。

本を開いて、プロローグだけで、食事がのどを通らないほどのショックを受けました。前線では正規軍である国民党軍と戦っていますが、占領地域では共産党を始めとしたゲリラ軍との血みどろの戦いがあったことを初めて知りました。それだけならまだいいのですが、その後のゲリラ掃討作戦が悲惨を極めました。日本軍は兵站を持たないので、食糧は全部現地調達です。そして、ゲリラは民間人のふりをして、村々に潜んでいます。奪い、焼き、殺害するという「三光作戦」という言葉は聞いたことがあるかもしれませんが、まさにそれが実行されたのが治安戦でした。村に侵入しては食料や金品を奪い、若い婦女は生かして連行し、他は皆殺害され、村は丸ごと火をかけられます。

以下は、華北地域の主要5都市の日中戦争8年間で起きた事件と人的被害の数字です。

毒ガス散布1000回以上、チフス・コレラの散布70回、虐殺事件1540件。

当時の日本は世界一の大麻原産国であったことは一部の人たちの間で有名ですが、アヘンやヘロインを安価な値段で市中に行きわたらせ、中国国民を戦えないようにしていました。公明党は今でも政権党の一つですが、陸軍の機密費を使って、それらをばらまくことに協力したのがその前身にあたる日蓮宗系の団体や僧侶たちです。

戦前、華北の主要5都市には9363万人が住んでいたとされます。8年間の戦争の結果、殺害された人287万人、障害を負った人319万人、拉致連行された人252万人、強姦され性病を移された人62万人と、死傷者の総数は1403万人に上るとされます。(山西省を中心とした地域だけの数字です)

毒ガスや疫病をまき散らされ、見つかったら即殺されるという厄災は、地獄とも比べものにならないほどの悲惨さです。いま、一部で、日本は特別な国だとか、日本人は優れた民族だとか言っている人がいます。サッカー観戦後の掃除がどうのこうのという自画自賛も同じです。日本人は世界でもっとも素晴らしい民族だと言う人は、同時に、世界一品格がない民族であるということも知るべきだと思いました。これが「歴史を学ぶ」ということだと思いました。

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小林範之
最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。

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