紆余曲折の先にあったミャンマーの民主化への道
こんばんは。
今日も数ある投稿の中で私の投稿をご覧いただきましてありがとうございます。
7月に入りました!
東京は都知事選挙があるため非常に慌ただしさを感じます。私は期日前投票をしたので、ちょっとホッとした気分です。
この7月~9月が終わった時にどんな景色が我々を待っているのか正直、想像ができませんが、世の中への感度は高く持ちつつも、自分のやるべきことと出来ることをを見極めて粛々とやっていこうと思っています。
皆さんは如何でしょうか?
さて、予定外の月マタギになってしまったミャンマー編も今晩で
10回目となります。途中から投稿が苦行のような気分でしたし、
#noteの書き方 で楽しくなければ続かないといった王道のセオリーにも相反していますが、ついつい性格から来るのか書き続けています。
ミャンマーについては非常に深くかつ非常に繊細な内容があって、投稿に細心の注意を払う必要があるかなと思いますが、もう少しなので続けたいと思います。
今回も敬称が省略してあったり変である場合がありますが、ちょっと敬称を使うのが難しかっただけで他意はないのでご承知おきください。
前回は
ミャンマーは閉鎖経済政策から海外投資を受け入れましたが、民主化への動きに対しては厳しく対応していましたが、アウンサンスーチーを軟禁したことにより世界の中で孤立し経済も厳しさが増します。
同様に中国も天安門事件によって世界から孤立します。この孤立した国同士が接近し経済連携していきました。
ちなみに前回で言及が漏れましたが、この軍事政権発足直後の1989年から
国名をビルマ連邦社会主義共和国から対外的にはミャンマー連邦
と名前を変えています。
アウンサンスー・チーとNLDへの対応
アウンサンスーチーはインドのデリー大学で政治学を学び、
マハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動
の影響を受けたとされています。卒業後、オックスフォード大学で学び、
ニューヨーク大学大学院で国際関係論を専攻してビルマ政治史を学びます。
そんな中、1988年にアウンサンスーチーは母の危篤の報を受け母を介護するためにビルマに帰国します。
その機会に民衆にまつりあげられ、1990年の選挙に向けて、国民民主連盟(NLD)を結党しますが1989年7月に自宅軟禁されます。
1990年には公然と争われた選挙でNLDが大勝しますが、
軍政は
「民主化より国の安全を優先する」
と権力の移譲を拒否します。
1995年7月に一旦、自宅軟禁から解放されますが、自宅前集会を計画しますが軍政に中止に追い込まれます。
1996年にはNLDの党大会を計画しますが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出ます。
ただ、その間に非同盟中立ながら1997年にASEANに加盟します。
1999年には夫のマイケル・アリスが前立腺ガンになり、アリスがアウンサンスーチーに会うために入国を希望するものの拒否され、再会できずに他界します。
結果的にアウンサンスーチーは1990年から2010年までの間に
計3回、累計15年の自宅軟禁
に置かれました。
その間に2003年8月、当時の首相であったキン・ニュンが民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表しますが、度重なる自宅軟禁もあり、世界からは信頼を勝ち取れません。
このように時のタン・シュエ軍事政権は民主化勢力には妥協を許さない強硬的な政策を繰返しました。
一方、経済が低迷し苦しい状況であるのにも関わらず、90億円相当の巨額な費用を使い東京ドーム 70個分もする国会議事堂を建築したそうです。
テンセイン政権の軟化
1992年から2000年代はタン・シュエ軍事政権でしたが、タン・シュエが定年になったことによって、テンセイン政権に引き継がれます。
テンセイン政権ではアウンサンスーチーも活動も容認し、その他の政治犯も釈放しました。
ここのパートは以下のWebを参考にしています。
タイとの国境にあるミャンマー最大の反政府武装組織カレン民族同盟とも
停戦にこぎつけます。
2011年には米国の国務長官だったヒラリークリントンと、2012年には米国大統領だったバラク・オバマと会談をします。
同年日本の当時の総理であった野田佳彦と会談します。
そして2016年に大統領を退任して僧侶になります。
ラストフロンティア
このテンセイン政権では経済政策も大転換します。
外国投資法の改正、中古自動車の輸入自由化、為替レートの統一、国内外の民間銀行・保険会社への段階的な市場開放、証券市場整備等が進みました。
海外からも以下の通り、ミャンマーに対して魅力があり注目されます。
・人材が魅力
国民性は他者に対する施しを惜しまない、誠実な人々である
街には孤児やストリートチルドレンはおらず、お坊さんが面倒をみている。
貧しい人たちにもお寺が無料で勉強を教えているため、ASEANでミャンマーが一番識字率が高いと言われている。
このように「人のために行動できる人柄」はとても魅力的。
さらにミャンマーのスマホ普及率は非常に高く普及率がほぼ100
・国の位置が良い
中国とインドに挟まれた場所にあり地政学的なメリットがある。国内市場のみならず、中国やインドの巨大な消費市場へのアプローチも可能である。
・競争相手がいない
海外で飽和した事業でもミャンマー国内にまだないサービスや事業があり、参入すると伸びるビジネスの可能性を秘めている。
・農業のビジネス
以前の投稿で書いた通り、かつて世界最大のコメ輸出国であったミャンマーは農業大国で農家の機械化や肥料などの生産性を向上させる農業製品の販売にビジネスチャンスがある。また、農業に関する知識が不十分な農業従事者への指導をしつ行い、農産物の生産販売事業にもビジネスチャンスがある。
北部の山岳地域、東部の涼しい高原地域、中央の乾燥地域、南部のデルタ地域と多様な気候帯と地形があり、地域ごとに特徴的な産品の生産が可能である。
このWebを参考にしています。
以上の理由もあり、エネルギー、通信、製造業、不動産、一次産業等の分野において外国投資が活発化しており、2012年以降、
毎年7%前後
の安定した経済成長を達成しました!
欧米諸国もこのミャンマーにおける民主化の進展を評価し米国は2012年に宝石一部品目を除くミャンマー製品の禁輸措置を解除し、2013年にはEUが武器禁輸措置を除く経済制裁を解除します。
2015年の選挙
2015年に1990年以来最初の公然としたミャンマー総選挙が行われ、 NLDは国会の両院の議席の過半数を獲得しました。
NLDのリーダーであるアウンサンスーチーは、
夫が外国人
であるといる憲法の規定に大統領から除外されより外務大臣などに就任し実質的な権力を握り、アウンサンスーチーの側近であったテイン・チョーが大統領となります。
これによって緊密に維持されていた軍事支配から自由民主主義体制への政治的移行へと大きく舵をきることになります。
私がミャンマーに行ったのも2013年でした。僅か4日の滞在でしたが多くのメーカーや商社らしき日本人の方も見てかなり勢いを感じていました。
道路のあちらこちらで建設工事等が行われているところもあり、古い昔ながらの街並みもありコントラストを感じていました。
このまま、ミャンマーは発展が続くのだろうと期待感が溢れていた気がします。ただ、道路が舗装されておらず、いつも車と一緒に体を弾ませながら移動していたのと、街路灯がほとんどなく夜がかなり暗かった印象が残っています。
本日はここまでにしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
冒頭の画像はAdobeStockから使用させていただきました。いつもありがとうございます。
このテーマはかなり重い内容ですがまた次回の記事で会いましょう!
皆様、良い週末を!
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