大都会に眠る英雄の魂
こんばんは。先週末はちょっと大手町に講演会の手伝いに行ってきました。
大手町と言えば、NTT、みずほフィナンシャルグループ、丸紅、元古河スカイのUACJ、三菱マティリアル、ジャフコ、日本経済新聞・・・(株式会社省略)と名だたる大企業の本社があり、財界の総本山と言われる
「日本経済団体連合会」(経団連)
もあります。近くはこんな感じです。
高級そうな飲食店も近くにあります。
そんな大都会にひっそりとある歴史的な碑(塚)があるのをご存知ですか?
それは
将門の首塚
です。神田明神のご祭神である東国の英雄
平 将門
(以後、「将門公」と呼ぶ)の御首が祀られています。
講演会の場所から僅か3分程度なので、折角ですので行ってきました。
なぜこの場所にあるのか
遡ること1,100年余りの天慶3年(940年)、「天慶の乱」で将門公は京都に送り獄門に架けられましたが、晒された首は色褪せなかったそうです。
三カ月が経っても白い光を放ち東方に飛び去り武蔵国豊島郡柴崎村(現在の大手町)に落下します。大地鳴動し人々が怖れたそうです。
しかしながら、夜な夜な光を放つので、村人が恐怖を感じて塚を作りこれを埋葬して祀ったという伝説に基づくようです。
参考リンク https://sakamichi.tokyo/?p=15920
神田明神とのゆかり?
この将門公の首が落下した場所には、天平2年(730)頃に建てられた神田明神の社があったようです。
その時の祭神は皇祖神天照大神の弟とされる素戔嗚尊だったそうです。
落下後400年近く経ち、将門塚周辺では津波や台風で社は崩壊し、荒れ果ててていたそうです。
村では疫病が蔓延し見るも無残なありさまであったため、これを
「将門公の祟り」
であるとされました。そこで徳治2年(1307)時宗の真教上人が「蓮阿弥陀仏」という法号を贈り手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に神田明神に祭祀したのが初めだそうです。
その後も様々な変遷がありますが、これ以上書くと超長文になってしまうのでほとんど割愛しますが、私が参照したこのリンクから読むことができます。
そしていきなり明治時代となります。
将門塚は旧大蔵省の中庭に奉られ、安泰だったようです。
ところが神田明神は明治政府から朝敵であった将門公を御祭神から外すように指示されたり、合祀案も許されずといった状況になりました。
ここで明治天皇が非公式ながら神田明神に御親拝され収束を迎えたそうです。
いまでも、神田明神には御祭神はk一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮とあり、三ノ宮は将門公だそうです。(神田明神ホームページ)
平将門とは?
以前、NHKの大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年放映)でもやっていたようなので皆さんご存知かもしれませんが、不勉強な私のメモのためにも
将門公について記したいと思います。
「天慶の乱」というと大罪の犯したような印象を持ちますが、確かにその時代の政府・幕府・朝廷から見れば謀反を犯した犯罪人ですが、時代背景からみると英雄ということですね。
情報が非対称であることは多いと思いますが、どのような社会背景でどのような視点で何を見るのかによって評価が変わるものだと実感しました。
平清盛との関係は?
ちなみに将門公と同じ「平」姓を持つ安時代後期に武士ではじめて太政大臣に登った平清盛は関係があると思った方もいらっしゃると思います(私は思ってしまいました💦)。
このサイトで見た所では実は関係は一応あるようです。
実は遠縁のようです。
家系図は以下の通りとなります。
ここまで見て「ハッ!」と気づいた方がいたら流石です。
なんと平清盛は将門公を憤死させた平貞盛の末裔だったのです。
お参り
折角なので将門塚をお参りすることにしました。
私の前にお参りしていた男女の二人連れが将門塚を二礼二拍手一礼しながら、ぐるぐる回っています。
不思議に思って尋ねてみると、女性の師匠(何の師匠だ!?)は将門塚の後ろの方がパワーがあり三周すると良いとのこと。
彼らが参拝した後、私もその方の見様見真似で三周してみました。
皆さんもお仕事の関係で大手町に行った際には、話のタネに訪問されてみては如何でしょうか?
将門塚と神田明神と中央線で隣の駅ですから、両方行ったらさらに
パワーアップするかもしれませんね。
長文お付き合いいただきありがとうございました。
また次回の記事で会いましょう!
引き続き、良い週末をお過ごしください。
いつもありがとうございます!
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