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リワーク日記131 学歴信仰という呪いについて

子猫ちゃんたちと暮らすことは、職場で起こったあれこれを頭から追い出して気分をリセットする最高の方法のひとつだと実感しています。以前にも少し書いた通り、猫との触れ合いは「今ここ」に集中するための良質な条件を備えています。

猫の毛並みの感触、体温、柔らかさ、甘えた鳴き声とゴロゴロ音、視線、うっとりした表情、体重…それらを自分の手のひら、指先、眼、鼻、ひざの上など五感で感じ取る行為は自然と不透明で不安をかき立てる未来や疎ましく消し去りたい過去から心身を解放させてくれます。猫との暮らしはマインドフルネス生活なのです。

どうもこんにちは!3連休をダラダラと満喫している苺の庭文庫です。猫の昼寝は見ているだけで優しい気持ちになれます。ピクッと耳を動かしたりして、ああ可愛い。それが膝の上なら仕事の悩みなんて1秒で消失します。ニャンコ・マインドルフルネス最高。

さて、私たちは子供の頃から「将来安泰な未来のため」という名分で今現在を抑制し我慢し苦痛に耐える生活を続けさせられてきました。その呪いは一生効力を発揮して私たちを縛りつけます。もしそれが呪いだと気が付かなければ。

私の親は、年金を受け取る年齢条件を満たした際に、受け取り開始時期を先延ばしすることで受け取れる金額を増額すべきか検討していました。私はここにもあの忌まわしき呪いが居座っているのを目の当たりにして私は嘆きました。「将来のために現在を犠牲にする精神」に蝕まれると、引退してさえ「現在」を大事にすることができないのです。誰もが年金という働かなくても生活できる権利を手にすることを労働のゴールに据えて、多くの楽しみを犠牲にしてきたのに、いざその権利を獲得しても心身に染み付いた「欲しがりません」精神がその行使を妨げてしまうのです。もう少し我慢した方が善い生き方であり賢いのではないか、と。そうして年金を受け取らずに「永久に訪れない明るい将来」を自ら進んで作り上げてまで、現在を抑圧する生活を選んでしまうのは近代社会に密かに根を張る大欠陥でもあります。人々に、一生を苦労でコーティングしただけの幸福度の低い人生を送ることを強いる結果を招いているからです。

私はその時、親に対して老後のささやかな楽しい暮らしが永遠に訪れない人生を望んで何十年も働いてきたのか?と問いかけました。年金受給を延期したところでその時に生きていないかもしれないのだから、存在するかも分からない将来のために現在をこれ以上犠牲にすべきでないから、すぐに受け取り開始すべきだと伝えました。

「現在を大事にして楽しむことは怠惰で罪悪にまみれた愚行であり、現在の楽しみを放棄するのと引き換えにもっと良い未来を手に入れるのは賢明で模範的な行いである」という教えを私も親から何度も言われて育ちましたが、親自身がその教えの落とし穴に足元をすくわれそうになったわけです。この信念はもっと疑いの目を向けられるべきです。もっと小さな頃から現在を楽しむことを無理に制限しなくても将来を良くする方法があることを学んだ方が良いですね。

さて、そんな問題だらけの「将来のため教」ですが、その最も有名なバリエーションのひとつが学歴信仰です。有名大学に入学できれば有名大企業に入社できて将来安泰だから青春を犠牲にしてでも受験勉強に励めというアレですね。

そもそも「何をどれだけ学んだか」よりも「どこで学んだか」に力点が置かれている時点で、「学歴」というよりも「学校歴」とでも呼んだ方が良さそうですが、いずれにしても浅はかな発想ではあります。

大学で学べばすぐに気がつく通り、受験勉強と学問は全く異なっており、しかも大学で学ぶことなど学問のほんの入り口程度のものです。せいぜい知的体力のつけ方の基礎的な方法を学習して試してみるくらいのことしかできません。あれだけ七転八倒しながら書き上げた卒論ですら簡略的な体験版にすぎません。

その程度の学びしか経験できないのに、ある特定の大学を卒業すればその後の何十年という人生の安泰が保証される特別チケットがセットで付いてくるなんて、投資詐欺より嘘が下手です。「安泰」の中身もあやふやです。

しかし、です。世間に出てみればこれまた思い知る通り、相手の出身大学がどこなのかによって見る目や態度を変える人が少なからず存在します。正直、そんな人が本当にいるのかと驚いたものですが、いるんですよね。私も出身大学がどこかという情報のみに基づいて私がどういう人間か、どういう脳みそを保有しているかを勝手に決めつけられた経験があります。非科学的です。生年月日だけでその人の性格類型を確定できると考える占いとそう変わりありません。占うならせめて生まれた時間と場所も加えるべきです!(そういう問題ではない)

だいいち、私の通った大学には、はるかに大学名を超えるレベルの脳みそを持っている人もいましたし、反対に入学試験でサイコロの目に運命を委ねたに違いない人もいました。

そして大学内には要領の良い人もいれば悪い人も、記憶力の良い人も悪い人もいました。研究向きな人、公務員向けな人や商人タイプの人もいました。直感的に正解を見つける人、論理的な人、感情に従う人、自分の意思の強い人、融和的な人、紳士的な人、パーティー好きな人、計画的な人、一夜漬けタイプの人、行動的な人、人と仲良しになるのが上手な人、運動が得意な人…色々な人がいました。出身大学を聞いただけでは学力の種類も水準も一律には決定できませんし、その他の特性や能力を決めつけることなんてできません。人間の能力は学力、あるいは論理力のみではありません。お互いにレッテルを貼り合うことが果たして幸せな生き方なのかどうかはよく考えた方が良いですね。

ですが理解し難いことに、新卒採用時に大学名だけで応募者をふるいにかける大企業もあると言われています。私企業のやる事なのでどう選考しようが自由だと思いますが、彼らが大学名だけで不採用にした人たちは下請法で頑強に守られた彼らの取引先に入社するかもしれません。そうすると大企業は適正で適法な取引をちゃんとやれよって話なので、今度は難関大学出身の大企業勤務者が非難関大学出身の下請法対象企業勤務者にうやうやしく発注書をきっちり提出して、発生した全ての費用について「ありがとうございました」と頭を下げて支払い義務を果たし、上から目線での価格交渉や納期交渉など当然一切行わず、下請法に抵触しないよう常にピリピリと神経を使って接する必要がでてくるわけです。一種のちょっとした立場逆転装置ですね。

実社会では仲良しエリートの内輪だけでは仕事はできません。様々な学力水準、様々な個性と背景を持つ人達と一緒に仕事をするのです。自分より出来が悪く物分かりの悪い人とも付き合わなければなりません。しかもその相手は下請企業の社員かもしれません。裏でバカにするのは勝手ですが、下請企業はいつだって大企業の驕り高ぶりを通報によってへし折ることができてしまいます。下請法違反の企業名が公表された日には炎上間違いなしです。大学名は何の役にも立ちません。このように世の中には力の差を背景にした不公正や経済エリートたちの傲慢を正す機能も存在するので、一概に大企業に行けば我が世の春とも限りません。力の強い者にはそれだけ大きな責任が求められ法律で振る舞いが縛られているのです。

一歩話を進めて、これもうんざりするほど繰り返し聞かされる話ですが、勉強ができることと仕事ができることは違う、と分かったような顔で語る人も結構います。じゃあ、仕事ができることと幸せであることは違う、というところまで言及する人は?なぜか少ないですね。不思議です。

そもそも、日本では政府部門でも企業部門でも教育機関でさえも科学的な態度・手法で仕事をしないので、学校の勉強が仕事の現場で役立ちにくい構造になっている、という愚痴は別の機会に譲るとして…、そもそも「勉強ができることと仕事ができることとは違う」という言葉は高圧的なわりに曖昧で中身が乏しいです。試しに具体的な言い回しに変換してみましょう。

例えば、「農学の学士号を持っていることと、IT系ベンチャー企業の人事労務職の仕事が務まるかどうかは別だ」、「平安時代の日本文学を研究していたからと言って、化学メーカーの自動車部品向け素材の法人営業職として優秀かは分からない」、「東京大学大学院で機械工学を専攻していたからといって、みずほ銀行のシステム担当者として活躍できるとは限らない」…。いかがですか?そりゃそうだよね、くらいの感想しか思い浮かばないほど内容が乏しいことが分かるのではないでしょうか。もっと有用な事を話しなよと私は常々呆れているのですが…。

究極的には学歴も「学生時代に力を入れた経験」も、職歴でさえもその人の真の能力を表現しきれておらず、数々の企業の採用担当者たちが採用に苦戦し上層部と配属先からの苦情に悩まされています。採用担当者たちが分かりやすい出身大学で応募者を判断したくなる気持ちは分からなくはありません。

ところで、「勉強ができたって仕事ができるわけではない」という言葉には、そんな無意味さとは別にどことなく意地の悪いねじれた感情の香りが漂います。俺の学歴は大したことないけど会社で出世したから偉いんだ、というような。努力家エリートたちが払った犠牲を嘲笑いたい欲望すら見えます。あるいは、俺は学歴もあるし出世もした人間なのだから、学歴しか持たず青春も将来も手に入れられなかった連中と一緒にするな、というような。これも将来を信じ「今ここ」を生贄にする生き方の犠牲者になるのはとにかく格好悪いと見なす発想が見て取れます。(意外なことにこれに似た心理と文化は、戦前の旧制高等学校において既に芽吹いていました。古典や文献の地道な読破によって得られる埃くさい教養を尊ぶ旧制高校の文化は、最終的には努力なしで要領良く勉強をこなす軽やかな文化へと変遷していきました。興味のある方は教育社会学者の竹内洋の著作にあたってみると良いと思います。)

ただ実際にはそんなことを言っている人も本心では学校歴が気になってしょうがないというのもありがちな話です。なぜなら、どんなに高収入だとしても、どんなに人生を謳歌していようとも、有名大卒という経歴があった方が贅沢さが増すからです。ないよりあった方が確実に華やかです。ブランドバッグのように。ほら、こうして学歴教の呪いに絡め取られた叩き上げエリートたちは、自らの子供たちを有名大学に通わせようと血眼になり、めでたく呪いが相続されるというありふれた風景が繰り返されます。

この学歴教はやはり残酷で、難関大卒の中でも努力しなくても勉強ができる方が価値が高く、更に青春を謳歌できている方が更に価値が高まります。そして当然、一流企業に就職したり起業したりする方が上で、更にそこで出世して高収入を得るほど価値が高まり、収入水準には上限がありません。ランク分けは無限に上に続き、頂点が見えないほど高くそびえるヒエラルキーが形成されているわけです。日本人の大好きな山岳信仰そのものですねぇ。高い山にありがたやと手を合わせる素朴な土着信仰は、大量の山の幸をもたらしてくれる母なる山への驚嘆と感謝とともに、あっさりと人の命を奪う鬼の顔を持つ残酷な山への恐怖・畏怖が混ざっています。学歴信仰の山にも恩恵と危険性の両面があると心得ておく必要があるでしょう。なにせ、せっかく血の滲むような努力を重ねて難関大学卒の称号を手に入れて大企業就職を果たしたとしても暗いマウント合戦は続くのです。しかも社会では自分よりも「格下」の大学出身者にも気を遣わなければなりません。ワクワクするなら、どうぞその雪山へ登れば良いでしょう。私はごめんですが。

いつの世も形を変えて「優秀さの競い合い」は続きます。学歴は分かりやすい称号ですし、一流企業へのアクセスを支援してくれるクーポン券でもありますが、決して人生の幸福を約束してくれる保証書ではありません。学歴が吉と出る場合もあれば反対に自分を苦しめる元凶になることもありますが、人と比べても幸せにはなれません。学歴教は、人と比較する習性を持つ人には呪いの威力を発揮しますが、人と比べない人にはただの置き物と同じです。「優秀さを競うレース」に参加するかどうかはよく考えて決める方が良いです。

もし自分の意思に反してそのレースに参加させられてしまった場合は不幸ですが、自分の意思でそのレースから降りる決断を早めに下すことをお勧めします。被った損失が心を傷つけるでしょうが、自分の人生を自分の手に取り戻すことはいつだって最も正しく価値ある道です。その決断に遅すぎることはありません。

しつこく書いていますが、自分の人生の意味や使命は職業に限定されているとは限りません。私のように「愛する家族と動植物に囲まれて、大好きな音楽とアートと鉱物を愛でて暮らすこと」が使命である場合もあります。このような場合には学歴は人生に大した意味をもたらしません。少なくとも「学校歴」という点ではほとんど役に立ちません。それでも例えば生物学や美術学などを専攻するなら大いに人生の質が高まるでしょうし、その分野で優れた教育を提供している大学に通えば最高に学習歴も満足のいくものとなるでしょう。

まあ、私は人生の迷路にハマったおかげで学校歴も学習歴も中途半端なものなのですが…。もっと今を大事にすれば良かったと思います。大学選びをするのに将来のことなんて考えたらいけませんし、受験勉強もほどほどにしておくべきです。将来のためなんていう理由で現在をないがしろにする人生に慣れてしまうと、死ぬまでその「将来」がやって来ないという本末転倒を招きます。将来のために先にいま一時的な損失を引き受けるというのは、資本主義において利益を生み出す原理です。それを「投資」と呼びますね。でもそれは人間の人生の原理とは異なります。なるべく早く現在を重視する生き方に帰還することが満足度の高い人生には不可欠です。

猫と暮らすようになると、自然と現在に集中できるようになります。未来の奴隷として生きる生活は終わり、現在の具体的な幸せの感触と重量と香りを感じられるでしょう。ああ、それは猫の奴隷…かもしれませんが、幸せな奴隷なのは間違いありません。

ということで今回はここまでです。もっと短い文章にしろ!と思った方はスキとフォローで知らせてください!面白かったよという方もコメントで教えてください。それでは、ぜひ次回も読んでみてくださいね!

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