孤独は不幸とも言い切れない『蛇の言葉を話した男』
やあ、僕だよ。
僕が今住んでいる場所を愛している理由の一つに、「森が近い」っていうのがあるんだ。
独りぼっちでいてもいろんな音が聞こえて寂しくないのがいいよね。もしも万が一、夫も子どもも僕の側からいなくなったとしたら、僕はきっと森に逃げ込むよ。
でも森に逃げ込んだって孤独からは解放されないのかもしれない。
今日の一冊は、そんな「孤独」と孤独を誘発する「変化と異物」にまつわる本なんだ。
蛇の言葉は話せないけれど、彼のことをもっとよく知ることで僕の行く末も変わるかも。
さあ、始めようか。今日も楽しんでくれると嬉しいな。
本作あらすじと感想
『蛇の言葉を話した男』アンドルス・キヴィラフク
エストニアのベストセラー小説。「蛇の言葉」を話せる「ぼく」が「森」で生活し、しかし不本意にも「村」で暮らし、結局「森」に戻ってくる話だ。
外来文化たる「キリスト教」が跋扈する「村」は「森」の生活を軽蔑して追いやるし、彼が暮らす「森」も「精霊信仰」によって腐っているという、にっちもさっちも行かない環境である。
序盤の無邪気な「ぼく」は新しいものの愚かさも知らず、「村」に興味を持ち、一方で「ヴォートレおじさん」に他の「森」の人たちも忘れてしまった「蛇の言葉」を教えてもらう。
成長した「ぼく」は「村」の娘である「マグダレーナ」に「さかり」ながらも、自由になった「森」の幼馴染「ヒーエ」を愛した。
このように「ぼく」が生涯かけて「森」と「村」を行き来し、結末に至るまで約36万字かけて描写される。とにかく長い。
とはいえ、親友の「パルテル」が「村」へ行ってしまう場面からはあっという間に感じる。
この場面まで10日かけて読んでいたのに、この場面以降は1日で読んでしまった。
どちらかというと序盤の方がファンタジー色が強いし、僕もそれを求めてこの本を選んだというのに、だ。
これがどんな本かって? トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が世界の終わりに一緒に酒を呑みながら最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。エストニア発壮大なファンタジー。
これらの作家がファンタジーを得意としながら、人間同士の描写や心理の動きがやけに生々しいことに気づくべきだった。
精霊も神も悲劇を何とかしてくれないが、その頼りなさに翻弄される人間の行く末を見届けたい大人にぜひおすすめしたい一冊。
ただし、現実を突きつけられるので夢から覚めたくない愚か者は読まない方がいいかもね。
変化や異物に過剰反応する人々
変化や異物を受け入れるか受け入れないか。
僕らは眼前にそれを感じると、焦り、戸惑い、狼狽え、過剰に拒絶するか、あるいはそれらを全て許容したりする。
ようは過剰に反応してしまうわけで、それが「ヨハネス司祭」であり、「タンベット」や「ウルガス」もそうだ。
動揺が頭を鈍くして、解釈を放棄してしまう。
目の前の事実についてどの程度受け入れるのか受け入れないかを判断するには、正しく変化や異物を認識しようとする必要があって、それってすごく面倒なのだ。
だから逃避する。考えることを放棄するためにそれらしい理由を付けて、楽な方へ逃げてしまう。
「ヴォートレおじさん」のようにバランス良く扱えればいいが、そういう人たちの声を特に彼らは拒絶する。
自分が頭が悪いと嘲笑されている気になるのかもしれない。現に彼らは思考停止の大義名分のために「マル」や「村の人」たちを側に置いて、ありがたがられているじゃないか。
気に入ったところだけ、つまみ食い
「マグダレーナ」は悪魔の文化を子どもに触れさせようとし、「メーメ」は騎士を殺してまでワインを飲む。
この二人は「森」と「村」の解釈がそれぞれ独特だが、変化や異物を自分なりに取捨選択して取り入れようとする分、好感が持てる。
正しく認識できなくても、正しく認識しようとするだけでいいと僕は思う。
大体僕は、変化や異物の解釈について「ヴォートレおじさん」派だけれど、それだって正しいとは言い切れない。(彼はあっけなく腐るのだから!)
何が言いたいって、少しでも考えようとする態度が尊いのだ。
考えの深度が浅くとも自分なりの答えを出す。借り物でない思想は結果はどうであれ、本人を救うって僕は思ってる(ショーペンハウアーさんもそう言ってた)。
同じ解釈がいないと孤独になる
こうなってくると変化や異物に対しての解釈が人それぞれになってしまって、「ヒーエ」を失った「ぼく」のように孤独になる人がたくさん出てくるんだよね。
実際、何かを信仰している人の方が幸福度が高いとかよく聞くだろう。幸福度ランキングとかあるじゃない。
日本は信仰を感じることが少なくて、解釈がブレがちだから人と共有しにくくて孤独になり、変化や異物にストレスを感じやすいっていうのが定説だと思う。
が、一つの解釈に頼りすぎる危うさは前述した通りで、僕は孤独になろうとも色んな物差しを持っていたい。
だってクリスマスもお盆も初詣も白無垢も諦めたくないじゃないか。
多様性って流行っているし、僕は自分の中にもそういう解釈があってもいいんじゃないかなって思ってる。
解釈が違っても、それを少し心の隅に置いておく。受け入れるかどうかをすぐに決めてしまわない。考えるのが億劫なら一度塩漬けして、取り出せるようにしておく。
そういえばそれで上手いことやったのが「パルテル」だった。
彼は普通の「村」の人々と違って「蛇」を盲目に怖がらず、「騎士の侍臣」になった。
「ぼく」は「村」に染まった「パルテル」を許さなかったし、実際彼のやったことはおぞましいことだ。
でも彼は「森」を完全に忘れることなく、変化に対応した。
「ぼく」より上手い方法で。幸せかどうかは心理描写がないからわからないけど、多分彼は孤独だったろうなと僕は思ってる。
少なくとも最後の「ぼく」は幸せそうだった
とはいえ、孤独が不幸せだと断じるのはちょっとせっかちかもしれない。
ぼくも、ゆっくり眠りにつくことができる。ぼくの眠りを妨げるものは誰もいない。ぼくたちは安らかに眠りにつくだろう。サラマンドルとぼく、蛇の言葉を話した最後の人間。
失った悲しみや寂しさは確かに存在する。でも「ぼく」は安らかに眠れたのだ。いろんな変化や異物のせいで心の中が乱されることはもうない。
平穏は幸福の一つだと僕は思う。
彼にとっての孤独は―少なくとも眠りにつく瞬間は―平穏だった。
ということは万が一孤独になった時、僕は平穏であることを目指せばいいってことだ。
孤独になった直後の、嵐のような激情を何とか処理してしまえば僕にとってのサラマンドルを見つけられそうな気がする。
もちろん孤独にならないのに越したことはないんだけどさ!
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